船旅再び

もくはずし

船旅再び

 気付くと、横たわる私の体は心地のよい揺れと、視界一面に広がる星空に迎えられた。思うように体が動かず、ただ茫然と、宝石箱をひっくり返したかのような煌びやかな闇を見つめていた。心地よく眠りに促すような揺れが星々を巡らせ、催眠術師の振り子のように私の意識を朧にする。


 「目が覚めましたか、お客人。あなたは死んだのですよ。」


 その声が私の運動を許可したかのように、体の自由を取り戻す。眠りかけた意識がはっきりし、起き上がる。辺りを見渡すと、私は広大な川に浮かぶ、手漕ぎの小さい木船に載せられていることがわかった。光源は船の先に釣られている行灯のみで、その光では岸が見えない。光が弱いせいで、岸が遠すぎるのか、実はすぐそばに陸があるのか、判別がつかない。辺りは真っ暗で、水面が反射するのは行灯の光のみ。まるで、映画に出てくる宇宙船に乗っているかのようだ、と思った。


 「ここはどこだ? 私はなぜこんなところに? 」


 先程話しかけてきた船頭らしき人間に問いかけてみる。この船には彼と私の二人しか乗っていない。と、言うより二人以上で乗ることができるのか怪しいほど、小さな船だった。

 

 「ここは、所謂三途の川です。心配はご無用。渡り賃は既にいただいているのですから。」

 

 こちらを振り向かず、何も見えない行く先を見つめながら、船頭は答える。つまり、私は死んだ、ということだろうか。


 「しかし、まだ自我が残っているのですか。魂と呼ばれているものが肉体を失うと、普通その記憶や認知能力の全ては失うはずなんですけどねぇ。会話するだけの能があるのは結構ですが、対応しなければならないこちらとしては甚だ迷惑ですよ、まったく。」


 言葉とは裏腹に、特に怒った調子でもなく、淡々と独り言のように私に語り掛ける。彼の言う通り、私は今、ほとんどの記憶がない。自分が何者なのか、ここにどうやって辿り着いたのかわからないが、かつて読んだであろう本のいくつかや、映画の数々を思い出せる程度だ。


 「私が誰なのか、とかわかりませんかね? 」


 恐らく知らないであろうことを、ダメ元で聞いてみる。彼の口調は明らかに、私が誰かということに興味がない様子なのだ。


 「私にはわかりませんし、それは私には関係のないことです。なぜなら、私はあなたから渡りの資格を確認し、無事かの地へ渡すことだけが使命ですので。」

 

 この人と話していても、何も解らないのではないか。それに、私の頭上に広がる圧倒的な星空を眺めていたいという欲求に負けた。私はゴロンと寝転がり、この眩いほどに輝く無数の星々を見回す。一体、あの星々の下ではどのような生き物が、どのような物語を繰り広げているのだろう。少なくとも、宇宙の隅々まで理解した我々人類は、他の星にいる生命体の存在を感知し、それらに具体的なアプローチをかけるところまでやってきたのだ。既に、我々人類の英知が及んでいない場所など、世界のどこにもないはずだった。この「死後」を除けば。

 いや、待てよ。彼の話を信じるのならば、ここは死後の世界だ。もしかしたら、現実世界とは宇宙そのものの作りも違うかもしれない。もしかしたら、ただの張りぼてで、黒いボール紙に無数の穴をあけ、裏から光を当てているだけの代物かもしれない。


 無体な物思いに耽った私の耳に、うっすら低く唸るような音が聞こえる。船頭の漕ぐ櫂が水を割く音と、微かに蠢く波の音以外に、出どころのわからない音を、はっきりと知覚した。船頭の唸り声か、とも思ったが、彼と私の距離を考えると、それはもっと遠い場所から発している音だ、という実感により、否定された。


 「船頭さん、この唸り声みたいな音はなんだい。」


 そう問うと、彼は初めて私のほうを振り向く。こちらを向いた顔は行灯が逆光のためよく見えないが、不思議と見覚えのある顔だった。彼は少しの間、こちらを睨め回すと口角を持ち上げ、その表情を歪ませる。

 

 「あまり詮索するのはお勧めしませんが、知りたいというのであれば、お教えいたしましょう。こちらに明かりを灯してみて下さい。」


 手渡された行灯は、船につるされたものの倍以上大きかった。灯った行灯から巻いた紙で炎を掬い、渡される。火をつけると、ゆらゆらと揺らめきながらその光を増していく。凡そ普通の焔とは異なる挙動に、物理学的関心を湧きたてられる。

 

 「見えましたよ。あちらに、たくさん。」


 本題を思い出し、言われた方向に目を向ける。数多の人影が、こちらに手を伸ばしているのが見える。さらに周囲が明るくなり、光が届くようになると、そのおぞましい実態が手に取るようにわかる。

 焼けただれたように垂れ下がる真っ黒な皮膚。所々が抉られたように骨が露出し、内臓が飛び出ている個体も珍しくない。顔に表情を見出すことができないほどに目や口の原型が無く、目玉の存在する数少ない人間は、全てこちらを凝視している。彼らは、船から数メートルほど離れた地上から、こちらに来ようとする体制で、しかし水辺の見えないバリケードに遮られるかのようにピタッと静止している。体は動いていないものの、明らかに、彼らの口々からはこちらに聞こえるか聞こえないか程度の低い唸り声を発している。


 「ヒッヒ、彼らは運賃を払えない亡者です。哀れなことに、自らを運ぶことのできる能力も、運んでもらうための善行も得られなかった人間共であります。ああ、同情は無用でありますよ。ほかの、船に乗る亡者と同じように、彼らもここへ来るまでの山道にて、歩くたびに、その知を擦り減らして超えてくるので。彼らは言ってしまえば、プログラムされた機械と同じ、与えられた刺激に特定の反応を返しているだけの器に過ぎません。

 しかし、一旦手をつかまれてしまえば、貴方も彼らと同じ、陸に縛り付けられた蝋人形のようになってしまいますので、ご注意を。」

 

 何かで読んだことがある気がする。いや、どこかで御坊さんに聞いた話だったか。朧げな記憶を探っていると、進行方向に何かが見える。

 目を向けると、力強い光源が、広い範囲にわたって広がっているようだ。恐らく、あれが陸地で、この船の目的地なのだろう。次第に見えてくる都は、私が今までに見た、どんな建造群よりも美しく豪華絢爛に聳え立っている。円弧を基本とした装飾によって、個々の建造物は連なりとして視覚される。遠目でもわかるほどに巨大な建造物の数々には非常に細やかであろう彫刻が施されているようで、都市の発する光に当てられ、凹凸角度によって様々な色彩を放っている。どのような技術なのか、都市を彩る光は、その発生源が見当たらない。まるで、光る台座に添えられた精巧なモデルのようで、その効果によって浮遊した都市として目に映る。

 あそこに辿り着いたら、私もあの都の住人となるのであろうか。そうだとすれば、死んだ甲斐があるというものだ。私の人生で最も強い昂ぶりと、好奇心が込み上げていた。どのような下賤な職に就こうとも、あのような美しい都に住めるのであれば、それは誉れだろう。嗚呼、早く陸に上がりたい。その欲求がふつふつと湧いてきて、嬉しさのあまり船頭に話しかけたくなる。

 

 「私は、あそこに行くのですか? 私はこれからどうすればいいのでしょうか。」


 訊くと、船頭は櫂を漕ぐのを止め、顎に手を添えてこちらを見下す。まるで、そんなこともわかっていないのか、聞かなくてもわかっているようなことを訊いて私をバカにしているのか、と言わんばかりの敵意ある形相を向けられ、目を伏せる。


 「うーん、貴方はあそこへは、行けないと思いますよ。そして私も、貴方をあそこに行かせる訳にはいきません。生者は岸に渡せませんのでね。それに、貴方は以前にもここに足を踏み入れたでしょう。覚えていないのですかねぇ。」


 やれやれ仕方ない、といった呆れ顔で説明される全てが、理解できなかった。まず、その返答は私が望んだどの可能性にも引っかからない。あそこに行けない? 何故だ。私達はあの都に進んでいるのではないのか。

 そして、私は一体全体どうなっているのだ。死んでいるのか? それとも生きてしまっているのか? それに、以前ここに来た覚えなど無い。もしかして、心の挙動が体に現れた私に在らぬことを言って落胆させ、楽しもうという魂胆ではないのだろうか。様々な懸念と疑念が逡巡している私に、次の言葉がかけられる。

 

 「まあ、いいでしょう。努々、何度も運賃が払える身など妄信しないように。貴方程の善人であっても、あと一回が財布の限度でしょう。四回目、ここに来たときは。無事戻れるなどと、無事川を渡れるなどと思わないように。」

 ポカンとしていると、船頭は体全体を使い、屈伸運動によって船を揺らし始める。船の動きは彼が上下する度その揺れを大きくしていく。


 「おい、やめろ。落ちる、落ちる。」

 

 私の懇願も届いていないようで、彼は楽しそうに、船を揺らす。やがて臨界点を超え、容易に、小さな木船はひっくり返る。落ちた先は深さもわからない川。水が体に纏わりつき、うまく体を動かせない。持ったりとした腕の回転運動と、ばたつかせた足の努力空しく、沈んでいく。


「仏の顔も三度まで、ですよ。そんなものなのです。人生も、貴方の見たものも。あまり欲張らないほうが良いですよ。」


 暗く、何も見えない闇をゆっくりと落ちていく意識は、周囲の光景と反して段々はっきりとしていく。そうだ、一度目は、ほとんど覚醒する前の記憶を失っていたのだ。今回はどうだろうか。現世の意識が薄かったとはいえ、あれだけはっきりと物事を捉えていたのだ。今回は恐らく…。




 博士、博士、という声で、目が覚める。そうだ、私は臨死体験を行っていたのだ。宇宙も、海底も、地底も解析しきってしまった人類のフロンティアは、今や魂の行き先となっている。私はその第一人者であり、生み出した装置によって、稼働したままの脳機能を仮死状態の体で保っていた。死後、人の意識は身体機能の喪失と共に失い、在るとされる魂の行き先を感知できない、という問題を解決した、生涯の最高傑作である。


 「博士、気分はどうですか。私がわかりますか? 」


 一番弟子である、ウィンストンが問いかける。もう、彼との付き合いも20年ほどになるか。大学院で受け持った時には、これほどまで才のある人間だとは思っていなかったが、今や私をも凌ぐ科学者だ。彼は、身体から次元移動する魂を追跡し、記録をとるといった研究を私の臨死装置と並行して作り上げていた。


 「気分は、良好だ。それよりも、そちらの結果はどうだ? 」

 「失敗ですね。7日目までは追跡できていたのですが、それから機材トラブルが起きてしまいまして。なんとか修正を行ったのですが、追跡不可能でした。」


 彼の失敗を責める気にもなれなかった。私も、あれだけ眠る前に息巻いておいて、結局死後の記憶を魂に刻み、全てを現世の肉体に持ち帰るということはできなかった。


 「しかし博士、貴方自身が被験者になるのはもう止めていただきたい。いくら何でも、危険です。もう少しで人体実験の申請に許可が下りそうなのですよ。2か月ほど待てば、今まで甘んじていたリスクを背負うこともなくなります。貴方は世界に必要な方です。」


 そうか、長い道のりだった。外部から被験者を募るには、あまりにも危険な実験。目を覚ます可能性は五分といったところだと自負している。これは高い数値だ。ほかの研究所では2割に届かないだろう。そんな危険な実験を行うには、秘密裏に自身の体を使って行うしかなかった。それも今日で終わりらしい。


 「そうか、そうだな。終わりにしよう。次からは、被験者を募ろう。研究資金の調達をしなくてはな。」


 そう返答したが、どうしても記憶に残った光景が頭から離れない。恐らく、覚醒直前に見た光景。あの巨大な都市のような場所。我々人類が今到達せんと目指している最果て。あの場所に辿り着くという快挙を、果たして他人に渡していいものなのだろうか。


 「そうだ、私に資金のあてがある。心配するな、もしダメだったら、また私で試せばいい。」

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