桜源郷

桐央琴巳

桜源郷

 ああ、今年もまた、錯乱したくなるほどに桜が綺麗だ――。



 桜の木の下で眠ることを、『桜の下臥したぶし』というのだという。

 待ちに待った、高校の入学式から帰り道。心弾むこんな日に、この私がたった一人で、そんなのどかで風流なことをやっているはずがない。


咲耶子さくやこ?」

 けれども、その古風な言葉を私に教えてくれた片割れは、いつもの左側へ首を傾げても、念のため右側を確かめても、私の隣にはいなかった。


「咲耶子ってば」

 ほろほろと、絶え間なく降り敷く花吹雪。夢見心地で身を起こすと、ぎょっとするほど大量の花片が、私の身体から滑り落ちた。

「……ここ、どこ……?」


 右も、左も。前も、後ろも。上も、下も。

 見渡す限りの、桜、桜、桜、桜、桜、桜――。

 絡み合う梢の隙間を見上げると、花曇りの空の色までも、桜色に染まっているように見えた。


「咲耶子おっ!!」

 怖くなって、お腹の底から叫んでいた。お父さんでも、お母さんでもなくて、双子の妹の名前を。そのままでいると、桜の花片に埋もれてしまいそうな気がして、私は急いで立ち上がった。


「――佐保子さほこ?」

 髪に付いた花片を払い落とそうと、ふるふると頭を振るっていると、聞き慣れた声で名を呼ばれた。

 ほっとして、私は駆け出す。真新しい制服に身を包んだ妹に向かって。


「馬鹿あっ、咲耶子っ! どうして私を置いて行っちゃったの?」

「ごめんね」

 軽く首をすくめ、ばつが悪そうな顔つきをして、咲耶子は両手を合わせた。

「ごめん、佐保子」

「……うん」


 咲耶子は、ちゃんと謝ってくれた。だったらもう、言い訳なんていらない。

 ぎゅっと手を繋げたら、もっともっと安心できる気がしたけれど、小さな子供じゃないから我慢した。



*****



 長い長い桜のトンネル。どこからどこへと繋がっているのか、今私たちの目の前には、一筋の道が続いている。

「桃源郷って、こんなとこなのかなあ?」

 暗い方に背中を向けて、明るい方へと進みながら、咲耶子は話しかけてきた。


「トウゲンキョウ?」

 おうむ返しに私は問う。読書家の咲耶子は、私よりもずっと物知りだった。

「うん。中国のね、昔話に出てくるユートピアの名前。桃の花が咲き乱れる林の中にあるんだって」


 桃、源、郷、と。

 口にしながら咲耶子は、ゆっくりと宙に字を書いてくれた。


「ここに咲いているのは、桃じゃなくて桜だよ」

 知らない言葉を使われたのが悔しくて、私は拗ねて可愛くないことを言ってしまった。


 けれども咲耶子は、『桃』という一字を『桜』に置き変えて――。

「本当だね。それじゃあここは、桜源郷ってことにしよう」

 妙案を思い付いたと言いたげに、ニコニコと笑った。


 見知らぬ場所で迷子になっているのに、どうして咲耶子は、のん気に笑ってしまえるのだろう?

 自分が心細くて堪らない分だけ、咲耶子が平常でいられるのが不思議だった。


「桜源郷でも何でもいいけどさ、ここって何だか変な気がしない?」

「さあ。私にはよくわかんないよ。佐保子はどこがおかしいと思うの?」

「どこって……、うーん……。ちょっと待って、今考えるから」


 狂い咲く桜にくらくらと幻惑されて、私の思考は麻痺しているようだった。確かな違和感があるのに、その原因を一息に突き止められない。

 首を捻りながらも歩き続けると、いつしか広く視界が開けて、もやが白くたゆたう河原に辿り着いていた。



「向こう側に行きたいなあ……」

 咲耶子がうっとりと眺める向こう岸にもまた、濃淡のある桜の林が、朧な光に包まれながら、薄紅色の雲のようにどこまでも続いていた。綺麗だけれど綺麗すぎて、何故だか背筋がぞくりとした。


 そこで私は、ようやく気付いた。そういえばずっと、鳥の啼き声を聞いていない。

 川の中に魚影はなく、地には蟻の一匹すらも這っていない。

 ここにはただ、延々と花片を降らせる桜の木々があるばかりで、生き物の気配というものがまるでしないのだ。


「橋もボートも見当たらないから渡れやしないよ。そんなことよりねえ、早く帰り道を探そうよ」

「そうするといいよ。佐保子は」

「……え?」


 突き放すように言って咲耶子は、私をぽつんと取り残して、一人ですたすたと桟橋の方へ行ってしまった。

「待ってよ、ねえっ」

 また置き去りにされるのは耐え難かった。私は慌てて咲耶子を追いかけた。



「思ってたより不親切なんだなあ。これを使って渡ればいいのかなあ?」

 ぼやく咲耶子の右側に並んで、桟橋から川を覗いてみると、川面にはゆらゆらと、流れを無視して奇妙なものが浮かんでいた。桜の花片がまるく寄り集まってできた、人一人座れるくらいの大きさの、花筏はないかだが、二隻。


「ちょっと、何をする気!?」

 私の制止も聞かずに、咲耶子はその一つにひょいと飛び乗った。文字通り彼女は『乗った』のだ。薄っぺらな花片の上に。


 これは――、夢。

 高校の校庭にも通学路にも、私たちの入学を祝ってくれるかのように桜がたくさん咲いていた。艶やかな桜に魅入られて、私はきっと、おかしな夢を見ているのだ。


 咲耶子は制服のプリーツを揃えながら、花筏の中央にお行儀良く正座すると、上目遣いに私を見上げてきた。

「多分ね、佐保子には乗れないよ」

 次の行動をあっさりと見抜かれて、負けん気にかっと火が点いた。


「ううん、やってみるもんね! 咲耶子が乗れるんだから、私にだって絶対乗れる!」

 けれども予想に違えて、勢い勇んだ私の足は、たわいなく花筏を踏み抜いていた。足を近づけた瞬間に、桜の花片が私を避けて、嘲笑うように散開した風にも見えた。


「やだもうっ……。何でっ……?」

 川の中に落ちた身体はびしょ濡れになった。浅瀬の水に肘まで浸った、四つ這いの情けない格好のまま、私は惨めな思いで両手を握り締めた。


 咲耶子はそっと手を伸ばして、私の頬に涙のように貼り付いている桜の花片を剥がしてくれた。僅かに触れた咲耶子の指先が、凍えるように冷たくて、私は思わず息を飲んだ。


「咲耶子、あんた――」

「うん。まいっちゃうよね」

 咲耶子の頷きに合わせて、長く伸ばした髪がさらりと肩から滑り落ちた。私よりも幾分色白の肌が、さらに青白くなったように見えた。


「色んなこと我慢して、あれだけ猛勉強してきてさあ。私、まだ一日しか高校生してないんだよ。これからやりたいこと、たくさんたくさんあったのになあ」

 咲耶子は心底悔しそうに顔を顰めてから、私を見つめて切なげに微笑んだ。


「ここまでついて来てくれて、ありがとう。私はもう、無理だけど、佐保子はちゃんと還るんだよ。それでお父さんとお母さんに、咲耶子がごめんねって言っていたって伝えてね」


 ずきん、と、痛みが、全身を襲った。それは魂の痛みなのか、それとも肉体の痛みだったのか?

 わからないけれど私は悟った。今ここで諦めてしまったら、私は咲耶子を永遠に失うことになってしまうのだろう。


「待ってっ、一人じゃ嫌だよ! まだきっと大丈夫だよ! だから咲耶子、二人で還ろう!」

 離れゆく花筏に、私は必死で追いすがった。あがけばあがくほど、濡れそぼった制服が身体に重く纏わりついた。


「できないんだよ。もう決まっちゃってるの。だから佐保子、早く戻って!」

 咲耶子は頑固に、ぶるぶると首を横に振った。

 嫌だ。嘘だ。決まっちゃってる? 誰が決めたの? 納得できずに私は、幼児のように駄々をこねた。

「咲耶子と一緒じゃないと還らないっ! あんたがどうしてもそっちに行くなら、私も付いて行くからねっ!」


 聞き分けのない私に一瞬怯んでから、咲耶子は本気で怒った時の目で睨み付けてきた。

「お願いだからわかんないこと言わないで! それ以上来ちゃ駄目! この川を、渡っちゃお終いなんだってもう気付いてるでしょ!?」

「じゃあ行かないでよ! 咲耶子おっ!!」


 もう少しで、手が届くと思ったのに――。

 その場に強く引き倒すようにして、ずるりと何かに足首を捕まれた。


 桜だ。

 桜の花片が、束になって私の足に絡んでいる。決して解けない鎖のように。



 ――大好きだから……。

   連れて行ってあげられないよ、佐保子……。



 咲耶子は、泣いていた。ぐいと涙を拭って、強がって笑って、私と世界に、さよならを告げた。


 流される。

 咲耶子を乗せた花筏は、しずしずと向こう岸に向かってゆくのに。私の身体は逆巻く水に呑み込まれて、どんどんと下流に押し流されてゆく。

 咲耶子が目指す川の向こうには、春爛漫の極楽浄土。

 それではこの川の水が流れ着く果てには、一体全体何があるの……? どうか教えて……、ねえ……、咲耶子……。



*****



 目覚めると、真っ先に目に飛び込んできたのは、憔悴しきった両親の顔だった。


「佐保子!」

「佐保ちゃん!」

 お父さんとお母さんが、口々に何か叫んでいる。それが自分の名前だと認識するまでに、しばしの時間が必要だった。


「佐保子、お父さんが、わかるか?」

 幾度目とも知れない呼びかけに、私はようやく頷くことができた。ぷんと鼻につく薬品の匂いと、思うままに動かせない固定された身体に、生きているのだと、そう思った。


「ああ、佐保ちゃん……」

 お母さんは泣き笑いをしながら私の手を握り締め、しきりに頬を撫でてくれた。薬のせいか感覚は鈍っていたけれど、その手の温もりは優しくて心地良くて、こそばゆいような気持ちにもなった。


「佐保ちゃん、佐保ちゃん、起きてくれたのね」

「……お母、さん……」

 呟くと、自分でも驚くほどにひび割れた声が出た。今は朝なのか昼なのか、白々とした自然光が眩しいばかりの病室だった。


「……咲耶子は?」

 尋ねると、お母さんは私から目を逸らした。

 答えは既に知っているくせに、聞いてしまったことを後悔していると、胸を引き絞るようなお母さんの慟哭に、お父さんの声が静かに覆い被さった。


「佐保子だけでも、助かったのが奇跡的だそうだ」

「……うん……」

 人の言葉で明確にされると、どうして現実は急激に重みを増すのだろう?

 まるで半身を切り取られたような喪失感に虚脱しながら、私は全てを思い出していた。



 高校の入学式からの帰り道、正門から続く坂道を、私は咲耶子と二人並んで歩いていた。

 できたばかりの友達のこと、担任の先生のこと、入るつもりの部活のこと、見かけた素敵な男の子のこと……。新生活は希望と不安に満ちて、おしゃべりの種は尽きることがなく、沿道に植えられた桜はとてもとても綺麗だった。


 道路の反対側から、お父さんが私たちに声をかけ、お母さんが微笑みながら手を振った。

 両親を見つけた私たちは昂揚した気分で、近くにあった横断歩道をじゃれ合いながら駆け抜けようとした。


 覚えているのは、急ブレーキを踏む車の音。

 私と咲耶子は、二人揃って跳ねとばされ、縺れ合って地に倒れた。

 そして――、暗転。

 私たちの魂は肉体を抜けて、この世とあの世の境目にある桜源郷へ飛んだのだ。



「……桜が咲いていたよ……」

「何だって?」

「咲耶子と、別れてきたところ……。お父さんとお母さんに、ごめんね、って……伝えてって……。咲耶子……」



*****



 もうこの世にはいない咲耶子の分まで、私は懸命に今を生きている。


 年を追うごとに悲しみは薄れて。ふと視線を向ける左側が空いていることに慣れてしまって。

 けれど、桜舞う季節になると、私は咲耶子を恋わずにいられない。


 満開の桜の下で、花片に埋もれ眠り続けていると、薄紅色の桜源郷に迷い込める気がする。

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桜源郷 桐央琴巳 @kiriokotomi

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