イチオとニスケ
祥一
☆
小さな黒猫がふらふらと、寝そべっている犬のまえを通っていく。
犬は何度かその黒猫を見たことがあるような。
思い出した、たしかイチオといっしょにいた子だ。
「ねえ、ぼうや。イチオは元気かしら」
小さな黒猫はびくっと立ち止まった。ゆっくりふりかえるも、なかなか言葉が出てこない。
「犬おばさん。イチオは、イチオは」それからまただまって、下をむいた。
犬おばさんは、この黒猫の名前をなんとかおぼえていた。イチオの弟、ニスケ、とかいうんじゃなかったっけ。
イチオは友だちみたいなものだ。よくドッグフードののこりをたべさせてあげていた。あの子はとてもいい子で、はなしていてたのしいし、素直でかわいくて、猫にしてはなかなか礼儀正しい。
そういえばこのニスケって子は、イチオとまったくおなじかおと毛並みだ。
「またあそびにきなよって、イチオにいっといて」
「イチオは、イチオは」
なんだかようすがおかしい。わなわなふるえている。
「うごかなくなっちゃったの」
ニスケは犬おばさんに、にゃあにゃあとうったえた。この子がこんなにたくさんしゃべるのを、はじめて見た。
イチオとニスケは、道をわたろうとしていたそうだ。あっちのゴミすてばから、えさのにおいがしてきたのだとか。
野良猫にとって、えさはうばいあいだ。二匹はまだ子どもだけど、大人の野良たちはぜんぜんやさしくない。どんな猫も、あとからきたものに、えさをわけてくれることなんて絶対にない。
このにおいはきっと魚じゃないか。めったにたべられないごちそうだ。
いそがなきゃ、ほかの猫やカラスにうばわれちゃう。
ゴミすてばにたどりつくには、道をよこぎるしかない。それはなかなかむずかしいのだ。
車、とかいうとんでもく大きくて、はやくて、つよいばけものがびゅんびゅん走ってくる。
「イチオ、どうしよう」ニスケは心配そうにたずねた。
「はん、どうってことないさ。おれのかけっこがはやいの、知ってるだろ」
イチオはよくてもぼくはむりだ、とニスケは思った。お兄ちゃんの半分ほどのスピードでしか、ぼくは走れない。
「どこか車のこないところを見つけて、まわりこもうよ」
そんなのだめだ、とイチオはいった。
「ぐずぐずしてたら、せっかくのごちそうをとられちゃうぞ」
でも、でも、とニスケはおねがいしようとした。また大きな車が一台、まえを通りすぎる。こんなのにふまれたら、とんでもないことになる。こわくてたまらなかった。
「ニスケ、もっとつよくならなきゃ、生きていけないぞ」
それでもふるえているニスケを見て、イチオはため息をついた。
「しようがないな。よし、じゃあ待ってろ。兄ちゃんがここまでえさをくわえてきてやる」
ニスケは、そんなの悪いよと思いながら、じつはほっとした。イチオはいつもやさしい。
「じゃあ、よく見てろよ」
そういって、イチオはタイミングをはかり、走って道に飛び出した。
横からものすごいスピードで、赤い車が向かってくる。
一瞬のできごとだった。イチオが見えなくなったと思ったら、赤い車はちょっとだけおそくなり、それからまったく気にしないように去っていった。
イチオは走るのをやめたのだろうか。そんなところで止まったら、また次の車がきてしまうのに。
なにかおかしい。
「イチオ、イチオ、どうしたの」出せるかぎりの大声で、ニスケはよびかけた。
まさか、けがしちゃったのかな。
「ねえ、あぶないよ、早く道をわたって!」
聞こえないのだろうか。なぜそんなところで、うずくまっているの?
あっ、また車がくる!
イチオはぜんぜん反応しなかった。
たすけに、たすけにいかなくちゃ。
生まれてから一番の勇気をふりしぼって、ニスケは道へと足をふみ出した。
イチオのいるところにはすぐついた。
「ねえ」ニスケはお兄ちゃんに前足でふれようとした。
イチオはぺしゃんこになっていた。葉っぱみたいに。
そしてぬれていた。黒いからすぐにはわからなかったけど、血まみれじゃないか。
ニスケはゆすぶった。あたたかくて、ぐにゃぐにゃしていた。
自分とそっくりのお兄ちゃん。
そのかおは今、地面にくっついている。
「おきてよ」
ニスケはイチオのかおを見ようと、前足をかけた。
そこに今度は黒い車が。
「ニャアアアアア」
ニスケは逃げた。道のどっち側にきたのかもわからなかった。
どのくらい歩いただろう。
なんにもかんがえられないまま、気づいたら犬おばさんのまえにいた。
なみだをにじませながらニスケが必死にはなすのを聞いて、犬おばさんはだいたいわかった。そしてため息をつく。
「それは死んだということよ」
死について、犬おばさんだってたくさんは知らない。ただ小さいころのことをぼんやりおぼえている。
ペットショップで、そういうことがよくあったような。昨日までうごいていた仲間が、次の日にはねむったままになり、いなくなってしまう。
「イチオをどうしたらいいの」子猫にそう聞かれても、なんにもこたえられない。
「かわいそうだけど、イチオは死んだのよ。もうどうにもできないわ」
「でも、でも」ニスケはなにかいいたかったけど、言葉はつづかなかった。
「おなかすいてない?ドッグフードたべる?」
「いい」
ニスケはとぼとぼ歩いていった。
夜になって、空き家の軒下でニスケは休んでいた。兄弟のいつもの寝床で、もちろん見つけてくれたのはイチオだ。
このあいだまで暑いくらいだったのに、ちかごろはなんだか空気が冷たい。冬、とかいうのがまたくるんだろうか。
こういうとき、いつも兄弟はくっついていた。それだけでけっこうあたたかかったのに。
おなかがすいてきた。まえになにかたべたのはいつだったっけ。
今日はえさにありつけるチャンスが二回あった。さっきの犬おばさんのドッグフード、やっぱりもらっておけばよかった。あとは、あのゴミすてば。
ニスケはぺしゃんこのイチオを思い出して、ふるえた。
「明日からどうしよう」そうつぶやく。
いつのまにかうとうとしていた。とてもつかれていたのだ。
「おい、おきろ」だれかにゆすぶられている。
「にゅあ」なんとなくそう返事をしながら、ゆっくり目をあける。
まっくらななか、ぼんやりと猫のかおがうかんでいた。
「おまえは見たことがあるな。たしか、イチオといったっけ」
おとなのぶち猫だった。
「だれ」ニスケはたずねた。
ぶち猫はじっと見つめてくる。
「おれをわすれたのか。あれだけいたい目にあわせてやったのに。イチオ、ついこのあいだのことじゃないか」
ニスケはほかの猫とはなすのが、あまりうまくない。すっかり目は覚めたのに、あわあわ口をうごかすことしかできなかった。
「おまえからうばってやった、あの魚のほね、うまかったぜ」ぶち猫はえらそうに、にやりとわらう。
思い出した。たまに町で見かけるいじわる猫だ。よくいやがらせをされ、イチオは立ち向かっていったけど、からだの大きさがぜんぜんちがうんだもの、毎回めちゃくちゃにやられてしまった。
ニスケは、こいつをこんなにちかくで見るのははじめてだった。
「お?まだねてんのか?なんとかいいやがれ」
「ぼく、イチオじゃない」すごまれたニスケは、やっと言葉をふりしぼった。
ぶち猫はうたがわしそうだ。
「うそつけ、イチオじゃなかったら、だれだってんだ」
「ニ、ニスケ」
「はあ?だれだそりゃ。おまえはイチオじゃねえか。そのむかつくかお、めざわりな黒い毛並み、こっちはわすれてねえんだよ」
ぶち猫はニスケのことなんて、ぜんぜんおぼえていなかった。イチオといつもいっしょにいたのに。
ふるえが止まらない黒い子猫のようすに、やっとぶち猫はなにかへんだと気づいた。
「ぼく、弟なの」ニスケはなんとかそうこたえた。
「なんだ、そういうことか。けっ、それでイチオの野郎はどこにいるんだよ」
「死んじゃった」
「はあ?」ぶち猫はちょっとびっくりして、くびをかしげた。
しばらく二匹はだまっていた。
ぶち猫はどうしてやろうかかんがえているらしい。ニスケはびくびくしながら、なにかいわれるのを待った。
「まあ、いいや。おまえ出ていけ。今夜からここはおれの寝床だ」
意味がわからず、ニスケはぼんやりしていた。
すると急にぶち猫がどなった。「さっさと出ていかねえか。おれはほかの猫がいるとねむれねえんだよ!こんないい場所、おまえみたいなちびにはもったいねえっていってるんだ!」
そしてニスケのかおをなぐりつけた。
ふっとばされたニスケは、すぐにそのまま逃げ出した。
なにがなんだかわからない。ニスケは夜の町のなか、どこへいけばいいかもかんがえられなかった。
くやしいとさえ思えない。
ああいういじわるな猫とたたかってくれるのは、イチオの役目だった。
えさをさがして確保するのも、寝床をさがすのも、こわいことがあったときなぐさめてくれるのも、ゆく道をえらぶことさえ、ぜんぶイチオがやってくれた。
兄弟は、お母さんのかおもおぼえていない。
ものごころがついたときから、ずっと二匹で生きてきたのだ。
いや、そうじゃない。ニスケは、ただイチオにたすけられてきただけだ。
イチオはつよくて、勇気があって、あたまがよく、明るくて、はなしがじょうずで、生きるためになんでもできた。
ニスケは、お兄ちゃんについていく以外、なにもできなかった。
見た目はそっくりなのに、そんなにもちがう。
ニスケは今日までのイチオのすべてを思い出そうとした。
とってきてくれたえさのこと。
見つけてくれた寝床。
どこからか聞いてきたおもしろいおはなし。
かわりに相手になってくれた猫や犬。
そのやさしさ。
そのぬくもり。
そして今日、はっきりと見た、車につぶされた、かお。
もう二度とあえない。
ニスケは大声で泣いた。夜のあいだずっと、そのはげしい泣き声がやむことはなく、町じゅうの猫や犬やいろんないきものの耳に、とどくほどだった。
イチオとニスケ 祥一 @xiangyi
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