イチオとニスケ

祥一

 小さな黒猫がふらふらと、寝そべっている犬のまえを通っていく。

 犬は何度かその黒猫を見たことがあるような。

 思い出した、たしかイチオといっしょにいた子だ。

「ねえ、ぼうや。イチオは元気かしら」

 小さな黒猫はびくっと立ち止まった。ゆっくりふりかえるも、なかなか言葉が出てこない。

「犬おばさん。イチオは、イチオは」それからまただまって、下をむいた。

 犬おばさんは、この黒猫の名前をなんとかおぼえていた。イチオの弟、ニスケ、とかいうんじゃなかったっけ。

 イチオは友だちみたいなものだ。よくドッグフードののこりをたべさせてあげていた。あの子はとてもいい子で、はなしていてたのしいし、素直でかわいくて、猫にしてはなかなか礼儀正しい。

 そういえばこのニスケって子は、イチオとまったくおなじかおと毛並みだ。

「またあそびにきなよって、イチオにいっといて」

「イチオは、イチオは」

 なんだかようすがおかしい。わなわなふるえている。

「うごかなくなっちゃったの」


 ニスケは犬おばさんに、にゃあにゃあとうったえた。この子がこんなにたくさんしゃべるのを、はじめて見た。


 イチオとニスケは、道をわたろうとしていたそうだ。あっちのゴミすてばから、えさのにおいがしてきたのだとか。

 野良猫にとって、えさはうばいあいだ。二匹はまだ子どもだけど、大人の野良たちはぜんぜんやさしくない。どんな猫も、あとからきたものに、えさをわけてくれることなんて絶対にない。

 このにおいはきっと魚じゃないか。めったにたべられないごちそうだ。

 いそがなきゃ、ほかの猫やカラスにうばわれちゃう。

 ゴミすてばにたどりつくには、道をよこぎるしかない。それはなかなかむずかしいのだ。

 車、とかいうとんでもく大きくて、はやくて、つよいばけものがびゅんびゅん走ってくる。

「イチオ、どうしよう」ニスケは心配そうにたずねた。

「はん、どうってことないさ。おれのかけっこがはやいの、知ってるだろ」

 イチオはよくてもぼくはむりだ、とニスケは思った。お兄ちゃんの半分ほどのスピードでしか、ぼくは走れない。

「どこか車のこないところを見つけて、まわりこもうよ」

 そんなのだめだ、とイチオはいった。

「ぐずぐずしてたら、せっかくのごちそうをとられちゃうぞ」

 でも、でも、とニスケはおねがいしようとした。また大きな車が一台、まえを通りすぎる。こんなのにふまれたら、とんでもないことになる。こわくてたまらなかった。

「ニスケ、もっとつよくならなきゃ、生きていけないぞ」

 それでもふるえているニスケを見て、イチオはため息をついた。

「しようがないな。よし、じゃあ待ってろ。兄ちゃんがここまでえさをくわえてきてやる」

 ニスケは、そんなの悪いよと思いながら、じつはほっとした。イチオはいつもやさしい。

「じゃあ、よく見てろよ」

 そういって、イチオはタイミングをはかり、走って道に飛び出した。

 横からものすごいスピードで、赤い車が向かってくる。

 一瞬のできごとだった。イチオが見えなくなったと思ったら、赤い車はちょっとだけおそくなり、それからまったく気にしないように去っていった。

 イチオは走るのをやめたのだろうか。そんなところで止まったら、また次の車がきてしまうのに。

 なにかおかしい。

「イチオ、イチオ、どうしたの」出せるかぎりの大声で、ニスケはよびかけた。

 まさか、けがしちゃったのかな。

「ねえ、あぶないよ、早く道をわたって!」

 聞こえないのだろうか。なぜそんなところで、うずくまっているの?

 あっ、また車がくる!

 イチオはぜんぜん反応しなかった。

 たすけに、たすけにいかなくちゃ。

 生まれてから一番の勇気をふりしぼって、ニスケは道へと足をふみ出した。

 イチオのいるところにはすぐついた。

「ねえ」ニスケはお兄ちゃんに前足でふれようとした。

 イチオはぺしゃんこになっていた。葉っぱみたいに。

 そしてぬれていた。黒いからすぐにはわからなかったけど、血まみれじゃないか。

 ニスケはゆすぶった。あたたかくて、ぐにゃぐにゃしていた。

 自分とそっくりのお兄ちゃん。

 そのかおは今、地面にくっついている。

「おきてよ」

 ニスケはイチオのかおを見ようと、前足をかけた。

 そこに今度は黒い車が。

「ニャアアアアア」

 ニスケは逃げた。道のどっち側にきたのかもわからなかった。


 どのくらい歩いただろう。

 なんにもかんがえられないまま、気づいたら犬おばさんのまえにいた。

 なみだをにじませながらニスケが必死にはなすのを聞いて、犬おばさんはだいたいわかった。そしてため息をつく。

「それは死んだということよ」

 死について、犬おばさんだってたくさんは知らない。ただ小さいころのことをぼんやりおぼえている。

 ペットショップで、そういうことがよくあったような。昨日までうごいていた仲間が、次の日にはねむったままになり、いなくなってしまう。

「イチオをどうしたらいいの」子猫にそう聞かれても、なんにもこたえられない。

「かわいそうだけど、イチオは死んだのよ。もうどうにもできないわ」

「でも、でも」ニスケはなにかいいたかったけど、言葉はつづかなかった。

「おなかすいてない?ドッグフードたべる?」

「いい」

 ニスケはとぼとぼ歩いていった。


 夜になって、空き家の軒下でニスケは休んでいた。兄弟のいつもの寝床で、もちろん見つけてくれたのはイチオだ。

 このあいだまで暑いくらいだったのに、ちかごろはなんだか空気が冷たい。冬、とかいうのがまたくるんだろうか。

 こういうとき、いつも兄弟はくっついていた。それだけでけっこうあたたかかったのに。

 おなかがすいてきた。まえになにかたべたのはいつだったっけ。

 今日はえさにありつけるチャンスが二回あった。さっきの犬おばさんのドッグフード、やっぱりもらっておけばよかった。あとは、あのゴミすてば。

 ニスケはぺしゃんこのイチオを思い出して、ふるえた。

「明日からどうしよう」そうつぶやく。


 いつのまにかうとうとしていた。とてもつかれていたのだ。

「おい、おきろ」だれかにゆすぶられている。

「にゅあ」なんとなくそう返事をしながら、ゆっくり目をあける。

 まっくらななか、ぼんやりと猫のかおがうかんでいた。

「おまえは見たことがあるな。たしか、イチオといったっけ」

 おとなのぶち猫だった。

「だれ」ニスケはたずねた。

 ぶち猫はじっと見つめてくる。

「おれをわすれたのか。あれだけいたい目にあわせてやったのに。イチオ、ついこのあいだのことじゃないか」

 ニスケはほかの猫とはなすのが、あまりうまくない。すっかり目は覚めたのに、あわあわ口をうごかすことしかできなかった。

「おまえからうばってやった、あの魚のほね、うまかったぜ」ぶち猫はえらそうに、にやりとわらう。

 思い出した。たまに町で見かけるいじわる猫だ。よくいやがらせをされ、イチオは立ち向かっていったけど、からだの大きさがぜんぜんちがうんだもの、毎回めちゃくちゃにやられてしまった。

 ニスケは、こいつをこんなにちかくで見るのははじめてだった。

「お?まだねてんのか?なんとかいいやがれ」

「ぼく、イチオじゃない」すごまれたニスケは、やっと言葉をふりしぼった。

 ぶち猫はうたがわしそうだ。

「うそつけ、イチオじゃなかったら、だれだってんだ」

「ニ、ニスケ」

「はあ?だれだそりゃ。おまえはイチオじゃねえか。そのむかつくかお、めざわりな黒い毛並み、こっちはわすれてねえんだよ」

 ぶち猫はニスケのことなんて、ぜんぜんおぼえていなかった。イチオといつもいっしょにいたのに。

 ふるえが止まらない黒い子猫のようすに、やっとぶち猫はなにかへんだと気づいた。

「ぼく、弟なの」ニスケはなんとかそうこたえた。

「なんだ、そういうことか。けっ、それでイチオの野郎はどこにいるんだよ」

「死んじゃった」

「はあ?」ぶち猫はちょっとびっくりして、くびをかしげた。

 しばらく二匹はだまっていた。

 ぶち猫はどうしてやろうかかんがえているらしい。ニスケはびくびくしながら、なにかいわれるのを待った。

「まあ、いいや。おまえ出ていけ。今夜からここはおれの寝床だ」

 意味がわからず、ニスケはぼんやりしていた。

 すると急にぶち猫がどなった。「さっさと出ていかねえか。おれはほかの猫がいるとねむれねえんだよ!こんないい場所、おまえみたいなちびにはもったいねえっていってるんだ!」

 そしてニスケのかおをなぐりつけた。

 ふっとばされたニスケは、すぐにそのまま逃げ出した。


 なにがなんだかわからない。ニスケは夜の町のなか、どこへいけばいいかもかんがえられなかった。

 くやしいとさえ思えない。

 ああいういじわるな猫とたたかってくれるのは、イチオの役目だった。

 えさをさがして確保するのも、寝床をさがすのも、こわいことがあったときなぐさめてくれるのも、ゆく道をえらぶことさえ、ぜんぶイチオがやってくれた。

 兄弟は、お母さんのかおもおぼえていない。

 ものごころがついたときから、ずっと二匹で生きてきたのだ。

 いや、そうじゃない。ニスケは、ただイチオにたすけられてきただけだ。

 イチオはつよくて、勇気があって、あたまがよく、明るくて、はなしがじょうずで、生きるためになんでもできた。

 ニスケは、お兄ちゃんについていく以外、なにもできなかった。

 見た目はそっくりなのに、そんなにもちがう。

 ニスケは今日までのイチオのすべてを思い出そうとした。

 とってきてくれたえさのこと。

 見つけてくれた寝床。

 どこからか聞いてきたおもしろいおはなし。

 かわりに相手になってくれた猫や犬。

 そのやさしさ。

 そのぬくもり。

 そして今日、はっきりと見た、車につぶされた、かお。

 もう二度とあえない。

 ニスケは大声で泣いた。夜のあいだずっと、そのはげしい泣き声がやむことはなく、町じゅうの猫や犬やいろんないきものの耳に、とどくほどだった。

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イチオとニスケ 祥一 @xiangyi

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