俺のご主人

木下青衣

俺のご主人

 俺の名前は、ぽんず、という。

 ご主人と初めて会ったとき、ご主人は俺の黄色がかった茶色の毛を見て「お前は今日からぽんず! ぽんずだよ」ととても嬉しそうに叫んでいた。ご主人と出会った頃の俺はご主人の膝にも届かないくらい小さくて、ふわふわだった。たぶんご主人は俺のあまりの可愛さに、「ぽんず」なんていう、漢気あふれる俺には似つかわしくないような名前をつけたんだろう。この家にやってきてすぐの頃は、「ぽんず」と呼ばれるたびに俺はそっぽを向いたりして、なんとかもっとかっこいい名前に変わらないかと努力していた。だけど、ご主人もパパさんもママさんももたいそう「ぽんず」という名前が気に入ったみたいで、ちっとも名前を変える気配はなかった。そのうちに俺もいつしか諦めて――いや、すっかり「ぽんず」という名前が気に入ってしまったのだった。


 俺の定位置は、庭の奥にご主人が作ってくれた小屋か、家の玄関だ。ご主人たちはなるべく俺には庭にいてほしいようだが、ずっと庭にいたらご主人たちを守れないだろう? だから俺は、夕方までは庭でご主人たちの帰りを待ち、帰ってきたご主人と一緒に散歩に行った後は、家の玄関に寝ころんでこの家を守ることに決めている。

 

 そういうわけで今日も今日とて俺は庭でご主人たちの帰りを待っていた。ご主人の父親がたまに手入れをしている庭では、甘い匂いを強く放つ花が咲き乱れている。この家に来てすぐの頃は、すべてが物珍しくて、毎日の庭を隅々まで探検したものだ。だけど十年近くこの庭で過ごしていると、いい加減飽きてくる。俺がいよいよ退屈になって欠伸をしたとき、不意に俺の鼻が馴染み深い匂いを捉えた。ご主人のにおいだ!

 すんすん、とご主人の匂いを感じながら、俺は庭の入り口の門へと向かった。しばらくすると案の定、ご主人がひょこっと門の向こうから顔を覗かせる。

「おー、ぽんず、ただいま」

 おかえり、ご主人。今日はいつもより早いんだな。それになんだか今日のご主人は嬉しそうだ。

「散歩、ちょっと待っててな」

 ああ、俺はちゃんと待っているから、ゆっくり準備してくるといい。俺はいつだって散歩に行けるが、人間というのは散歩をするにも準備が必要なんだろう?俺は賢明な犬だから、そういうことをちゃんとわかっているんだ。

 家の中に入っていったご主人は、しばらくして俺の首輪をもって出てきた。小さい頃の俺の毛とよく似た、黄色がかった茶色の首輪。ご主人が選んでくれたものだ。

「お待たせ、ぽんず。行こうか」

 ああ、行こう行こう! 俺はクールな犬だが、こうしてご主人と散歩に行くときは、どうしても自慢の尻尾がぶんぶんと揺れてしまう。

「楽しそうだな、ぽんず」

 ああ、楽しいぞ。ご主人も楽しいだろう?そう問いかければ、ご主人は「ああ、楽しいな」と微笑んだ。世の中に犬と暮らす人間はたくさんいるらしいが、その中で犬の言うことがわかっている人間はいったいどれくらいいるのだろう? 俺のご主人は、俺の言うことをいつだってちゃんとわかってくれる、なかなか才能のある奴だ。

 ご主人がリードを持てば、準備万端。俺はご主人が開けた門からさっと外に出ようとして、

「おい、大丈夫か、ぽんず?」

 問題ない、少し段差に躓いてしまっただけだ。だからご主人、そんなに心配そうな顔をするな。

「やっぱり、ぽんずももう年だもんなぁ」

 おいおいご主人、そんな言い方はないんじゃないか? 確かに俺は、犬としては長生きな方だ。だけど、年だなんて、おじいちゃんになったみたいな言い方はよしてくれ! 今のはただ、うっかりしただけだ!

「やっぱりあんまりぽんずに負担をかけるのは……」

 何が言いたいんだ、ご主人? まあいい。楽しい散歩の時間なんだから、気を取り直して歩こう。

 リードを握るご主人の少し先を、俺はご主人を導くように歩いていく。ご主人の家を出てからしばらくまっすぐ歩くと、大きいけれど穏やかな川が流れている。川の横の階段を降りて、川辺を歩くのがご主人との散歩の定番コースだ。程よい固さで俺の足を受け止める土、柔らかな草の匂い。川が近づいてくると、思わず歩く速度が速くなってしまう。

「ぽんず、さっきみたいに転ばないように、気を付けて階段降りるんだぞ」

 ご主人は心配性だな。ご主人こそ、俺の速度についてこようとして転ぶんじゃないぞ。

 ご主人の足音を感じながら、俺は川辺をずんずん歩く。左手には川がちょろちょろと流れていて、そのほとりには小さな花が一面に咲き誇って、夕暮れの風に揺れている。なあ、ご主人。俺の目に見えているよりもずっと、この世界はきれいだと聞いたことがある。俺には同じ色のグラデーションにしか見えないこの川や花も、ご主人には違って見えているんだろう?

 歩きながら振り向いてみると、ご主人は目を細めて景色を見渡している。

 「きれいだなぁ、ぽんず」

 ああ、やっぱり俺とご主人はつながっているんだ。俺が見ているものを、ご主人もいつだって見ている。

 「ぽんず、ちょっと待って」

 なんだ、ご主人?急にご主人が足を止めた。くっとリードを引っ張られる感覚。俺も振り返って、ご主人の方へ数歩戻る。ご主人はしゃがみこむと、たくさん咲いている小さな花に手を伸ばして、ぽきっと根本から折り取った。

 「ほら、ぽんず。きれいだろ? 菜の花っていうんだ」

 なのはな?ご主人が差し出してきた花をすんすんと嗅いでみると、こういう植物特有の甘いにおいに交じって、数軒隣の犬のにおいがした。あいつ、またここでマーキングをしたんだな。ここは俺のテリトリーなのに! 今度会ったら注意しないと。って、くすぐったいぞ、ご主人。俺の頭にその「なのはな」を乗せるのはやめてくれ。

 「ぽんずには黄色が似合うなあ。なかなか可愛いぞ、ぽんず」

 ご主人、俺は勇敢なる雄犬だぞ? 可愛いなんて俺にとっては褒め言葉じゃないんだ。まあでも、ご主人が俺のことを好きな気持ちは伝わってくるから、我慢しておいてやろう。「なのはな」が頭の上で揺れてむずむずとくすぐったくて、頭をぶるぶるっと振ると、ぽとりと「なのはな」が落ちた。そうか、ご主人にはこれが「黄色」に見えるのか。俺にはわからないけれど、ご主人がきれいだと言うから、俺にもなんだかものすごくきれいなものに見えるよ。

 さあ、もっと先まで歩こう、とご主人を促すと、ご主人は少し顔をしかめて手首に目をやった。知っているぞ、その小さな機械を見ると、「なんじ」がわかるんだろう? 俺たち犬にとっては、昼と夜、そして散歩の時間がわかっていれば十分だが、人間はとても細かく時間を切り刻んでいるらしい。まったく、そんなにセカセカせずにもっとゆっくり生きればいいのにな。

 「うーん……」

 どうした、ご主人?

 「悪いぽんず。今日はそろそろ帰ろう」

 おいおいご主人、まだ散歩は始まったばかりじゃないか! もう帰るなんて、一体どうしたんだ?

 俺の憤慨をご主人がわからないわけがない。けれど、よっぽどの理由があるのか、「ほら、帰るぞ」と言いながらご主人は踵を返し、俺のリードを引く。まったく、しょうがない。人間というのはつくづく我が儘で、俺たち犬の都合を無視しがちだ。だが、ご主人は普段は俺の希望をちゃんと聞いてくれるし、今日くらいはいいだろう。

 俺はふんっと一つ鼻息を鳴らしてから、ご主人の後を追う。見慣れたご主人の足どりが、今日はなんだか浮き足だっているように見えた。


 俺とご主人が家に帰ってくると、パパさんとママさんも帰ってきていた。パパさんは居間のソファーで、テレビを見ているようだ。帰ってきた俺たちに気づいたママさんが、ニコニコしながら近づいてきた。

「ぽんず、お散歩いってきたの? よかったねぇ」

 ああ、よかったぞ。だからママさん、香水の匂いが漂う体のまま俺に近づくのはやめてくれ! すると、俺が顔をしかめているのに気がついたのか、

「母さん、ぽんずが香水くさいってさ。部屋着に着替えてくればよかったのに」

 さすがご主人だ。ママさんは悪い人ではないし、毎晩俺のご飯を用意してくれるんだが、いかんせん俺の嗅覚の鋭さを把握できていないところがある。人間が思うよりずーっと、俺たち犬はいろんな匂いを強く感じているんだぞ?

「でもねぇ、もうすぐ美織さんいらっしゃるんでしょ?部屋着なんて……」

「もう何回会ってると思ってんの、今さらそんなの気にしないよ」

「そうはいっても……」

 何を話しているのか詳しくはわからないけれど(何しろ人間の生活には、俺たち犬には想像もつかない余計なものが多すぎる!)、俺の敏感な耳は気になる言葉を捉えていた。「みおり」。それは最近になってこの家に現れ始め、その上俺の大切なご主人にちょっかいを出している妙な女のことだ。しかもどうやらあいつは、俺のご主人と「結婚」とか言う、何かの儀式をするらしい。どうやらあいつがこれから、この家にやってくるようだ。なんだか面白くない。俺は玄関の隅の定位置に、ぺたりと寝転んだ。と、その瞬間俺の耳が足音を――少しだけ馴染みのある足音をとらえた。ああ、これは。次の瞬間家の中にぴんぽーんという間抜けな音が響くと、ご主人がすぐに玄関のドアへと手を伸ばし、がちゃりと開けた。その向こうから顔を覗かせたのは、案の定――

「こんばんは!」

「ああ、いらっしゃい」

「まぁまぁ美織さん、いらっしゃい! よく来てくださったわねぇ、ほら、あがってあがって」

「あ、はい! 今日はお世話になります」

 そう、こいつが「みおり」だ。高さはご主人と同じくらいなのに、ご主人よりも薄っぺらい体をしていて、ママさんともパパさんとも違う雰囲気の、変な女。香水のにおいがしないところは評価できるけど。

「ぽんずくん、こんばんは。お邪魔するね」

 みおりはそろそろと手を伸ばしてきて、俺の下顎をわしゃわしゃと撫でてきた。まあ、及第点といったところか。これでもみおりは俺に触れるのがだいぶうまくなった。初めて会ったときなんて、ひどいものだったんだ。「私、犬は好きなんですけど飼ったことがなくて……」なんて言いながらおっかなびっくり、だいぶ離れた所から手を伸ばしてきたみおり。よりにもよって俺の視界を遮りながら俺の頭を撫でようとするものだから、いくら温厚な俺でもあまりに苛ついて思わず吠えかかるところだった。まあ、そのときはご主人がなんだかとても大切なものをみるような目で(そう、まるで俺を見るときのような目で!)みおりを見つめていたから、吠えるのは我慢してやったけど。

 ともかく、そのときからもう何度もみおりはこの家に来ていて、その度に少しずつ成長している。俺の目線に合わせて話しかけてくるようになったし、撫でる位置や強さも程良くなってきた。ようやく半人前になってきたというところだろうか。まぁ、俺の大切なご主人とずいぶん仲が良さそうにくっついているのはなんだか気に入らないが。

「それじゃあぽんずくん、また後でね」

 ばいばい、と俺に向かって手を振りながらみおりは居間へと向かう。

「今日はねぇ、美織さんがいらっしゃるからお寿司とっちゃったのよ」

 「そんな、すみません、お気遣い頂いてしまって……」

 「母さん、そんなにしなくていいって言ったじゃん」

 「あらいいじゃない、みんなで食べたかったのよ」

 みおりに続いてママさんも、そしてご主人も居間へと入っていって、がちゃりとドアが閉じられた。入っていった、とはいっても、居間は玄関と一つドアを隔てただけの距離にある。だから、寝そべりながらピンと耳を立てると、俺の耳にはご主人たちの話す声がよく聞こえてくる。聞き慣れた、穏やかなご主人の声に耳を傾けながらも、同時に俺は玄関の外に対しても注意を怠らない。なんてったって俺は優秀な番犬だからな。

 と、そんな風に俺が家の中と外に神経を張り巡らせてしばらく経つと、肉の匂いが漂ってきた。そういえばそろそろご飯の時間だ。少しして、ママさんが俺専用の銀色の器を手に持って現れた。ジューシーな肉の匂いに、思わず自慢の尻尾がぱたぱたと揺れる。

「ぽんずちゃん、お待たせ、ごはんよ」

 からん、と軽やかな音とともに玄関に置かれた夕食を見れば、今日のご飯はなんだかいつもより豪華だ。毎度お馴染みのカリカリに加えて、柔らかくほぐした肉が乗っているじゃないか! いいのか、ママさん?

「なぁに、そんな顔して。嬉しいの?」

 ああ、嬉しいんだが、それより今日は何かあったのか? ママさんが肉を乗せてくれるのは何かいいことがあったときなんだろう?

「それじゃ、ゆっくり食べてね」

 やっぱりママさんに対しては、俺の気持ちが伝わらないことがある。とはいえ、ママさんが悪いわけじゃない。ママさんが普通の人間のレベルなのであって、俺の言いたいことをわかってくれるご主人がすごいのだ。

 いかにご主人が素晴らしい飼い主かということに思いを馳せながら、柔らかい肉と歯応えのあるカリカリを食べる。悔しいことに最近の俺はなんだか胃が小さくなってきたようで、今日もカリカリを半分くらい残したまま、お腹がいっぱいになってしまった。ママさんはまた「こんなに残したの? どうしちゃったの、ぽんず」と悲しそうな顔をするかもしれないが、少ない食べ物で同じだけ動いているんだから、いわゆる燃費がいいってことだろう?

 食事を終えた俺は、再び玄関の隅の定位置に戻る。ご主人たちは、まだ居間で何か話しているみたいだ。その声に耳を傾けていると、俺の鋭敏な耳が何やら不穏な言葉を捕らえた。

――結婚を機に、

――引っ越しをして、

 引っ越し?引っ越しって、この家からいなくなるっていうことだろう?いつだったか、ご主人のお兄さんも「引っ越し」をして、それ以来この家からいなくなってしまった。なんだか嫌な感じがして、俺は居間の会話に耳を澄ませた。

――美織と、俺で

――でも、ぽんずが

 ああ、くそ。なんだかよく聞こえない。俺なら、居間の会話なんて一言一句はっきりと聞き取れるはずなのに。

――もう、年だから

――寂しい思いを、

 なんだかよくわからない。わからないけれど、聞こえてきた言葉とこれまでの経験から推理して、俺は一つの結論に辿りついた。それは、みおりと「結婚」することで、ご主人は「引っ越し」をする、ということ。そうしたら、ご主人のお兄さんのように、ご主人もこの家からいなくなってしまうのか?俺のご主人が? ご主人が、俺の大切なご主人がいなくなってしまうなんて、俺には到底耐えられない。俺とご主人はずっと一緒だったんだ。ずっと一緒に育ってきたし、俺はずっとご主人を見守ってきた。嬉しいことも嫌なこともたくさんあって、俺はご主人が何より大事なんだ。それなのに、みおりと「結婚」するからって、ご主人は俺を置いてどこかにいってしまうのか?嫌だ。そんなのは嫌だ!

 人間でいうところの現実逃避、ってやつなんだろう。俺は玄関の隅でいつもよりもぎゅっと体を丸め込ませて、お腹と尻尾の間に顔を押し込んだ。

 

 俺たち犬には、飼い主を守るという崇高な使命がある。玄関で体を丸めて眠っているときに俺が熟睡せずにいるのは、つまりいつでもご主人のもとに駆けつけてご主人を守るためのなのだ。だからその日の深夜、抜き足差し足でそっと俺に近づいてきたみおりに俺はすぐに気づいた。俺のもとからご主人を奪っていく、嫌なやつ。

「ぽんずくん」

 そう囁いたみおりは、どうやら玄関に座り込んだらしい。俺に何か用でもあるのか? 俺が黙っていると「ぽんずくん、寝ちゃった?」とみおりがまた話しかけてくる。生憎だがみおり、俺は心の広い優しい犬だが、ご主人のこととなると話は別だ。俺からご主人を取り上げるお前とは、あまり話したくないんだ。

 俺が狸寝入りを続けていればみおりはすぐいなくなるかと思いきや、しばらくしてみおりは誰にともなく小さな声で話し始めた。

「私、本当に彼と結婚していいのかなぁ」

 いつもご主人やママさんに話しかけているときとは違う、心細そうな声だ。まるで、はぐれた子犬のような。

「ねぇ、ぽんずくんはどう思う?」

 なんだ、やっぱり俺に話しかけているのか? だが、返事はしてやらないぞ。

「ぽんずくんにも迷惑をかけるし、いろいろ環境も変わるし、私、うまくやっていけるのかな」

 いつまで俺に話しかけるつもりなんだ、と少しうんざりし始めたとき、俺のふわふわの背中に柔らかい温もりが触れた。何度も何度も、ゆっくりと俺を撫でる手。その手が少し震えているような気がして、俺は仕方なくゆっくりと起き上がった。

「ぽんずくん、ごめんね、起こしちゃった?」

 起こしちゃったも何も、俺はみおりが近づいてきたときから起きてるさ。みおりはどこかを怪我したみたいな顔で、俺の背中を撫でている。ご主人もたまにこういう顔をすることがある。だから賢い俺は学んだんだ、人間がこういう顔をするときは何かが辛かったり寂しいときで、そんなときに俺を撫でると気持ちが落ち着くんだと。ご主人が「ぽんずを撫でると、辛いこともなくなっちゃうよ」と言っていたんだから、間違いない。

「ぽんずくんはふわふわだねぇ」

 ああ、そうだろう? 何しろご主人が定期的にブラッシングしてくれているんだ。もっとも、昔の俺は今よりももっとふわふわだったがな。

 しょうがない、今だけは特別だ。みおりが今辛い気持ちでいるのなら、それがなくなるまで俺を撫でているといい。みおりのことはやっぱり気に入らないが、たぶんみおりが辛いままだと、ご主人もつらくなってしまうんだと、賢い俺にはなんとなくわかる。

 みおりの方に近づいてそっとその薄っぺらい体に寄り添うと、みおりは「ふふ」と小さく笑った。なんだ、何がおかしいんだ?

「ぽんずくん、今日は優しいね」

 そうさ、俺は優しい犬なんだ。だが、みおりにこんなに優しくしてやるのは今日だけだからな。だけどみおりは相変わらず嬉しそうに「ふふふ」と笑いながら、ぎゅっと俺を抱き締めた。そのまま俺の背中を、頭を、ゆっくりと撫でる。そうして俺はその夜、みおりの辛い気持ちがなくなるまでずっとずっと、みおりに身を任せて撫でられ続けていた。


 いよいよ、この日がやってきた。ご主人が「引っ越し」をする日。俺を置いていなくなってしまう日。しばらく前から、ご主人もパパさんもママさんも俺の前で平気で「引っ越し」の話をするようになった。そして昨日の夜、俺はとうとうママさんが「いよいよ明日が引っ越しだなんて、早いわねぇ」と言っているのを聞いてしまったのだ。

 俺はあれからずっと寂しい気持ちを抱え続けているというのに、ご主人はなんだかやたらと楽しそうで、そわそわしている。さっきもご主人は俺に「ほらぽんず、朝の散歩行くぞ」だなんて、元気に声をかけてきた。俺は、ご主人との散歩はこれが最後になるのだとしみじみ考えて、こんなにも足取りが重いというのに。優しく流れる川も、今日ばかりは俺の神経を逆撫でるだけだ。そんな俺を見て、ご主人は「どうしたぽんず? 元気ないなぁ」なんて言ってくる。元気なんてあるわけがないだろう? 大好きなご主人と離ればなれになってしまうんだから。ご主人は俺を置いてみおりと一緒に暮らすんだから、そんなふうにニコニコしていられるんだろうけどな。っていけない、俺としたことが、ご主人相手に拗ねてしまうなんて。ぶるぶると体を震わせて気持ちを切り替える。見上げれば、ご主人はなんだかすべてを見透かしたような顔で俺を見つめている。ああ、ご主人。俺はご主人が大好きだ。ご主人のその顔も声も手も、ほんとうに大好きなんだ。小さい体で震えていた俺を見つけてくれたご主人。俺の茶色い毛を大胆に、でも優しく撫でてくれるご主人。毎日散歩に連れていってくれるご主人。雨の日だって雪の日だって、ご主人と一緒ならどこまでだって歩いていける。ご主人だってそうだろう?

「ああ、そうだな、ぽんず」

 でもな、ご主人。俺はご主人が本当に大好きだし賢い犬だから、ご主人が一番幸せならそれでいいんだ。

「ぽんず、今日はもうちょっと歩こうか」

 なんだ、ご主人、今になって俺との散歩が名残惜しくなったのか? 俺がすんすんと鼻を鳴らすと、ご主人はくしゃりと笑って、そのままずんずんと歩みを進めた。

 どんどん、どんどん、川の上流へと歩いていく。俺もご主人も何も言わない。ただ黙って二人で歩く。どれくらい歩いただろう。不意にくっとリードが引っ張られたかと思うと、ご主人は川辺の道を逸れて家が建ち並ぶ道へと進んでいった。なんだご主人、どこに行くんだ? もう散歩は終わりなのか?

「大丈夫だよ、ぽんず。心配しないで、ついてきて」

 ご主人が大丈夫だと言うならそうなんだろう。俺を促すご主人について歩いていくと、不意に俺の鼻が覚えのある匂いを嗅ぎ取った。

「どうした?」

 なぁご主人、どうしてこっちの方からあの匂いがするんだ? 本当にこっちでいいのか? 俺の言っていることがわかっているだろうに、ご主人は俺の方を見ない。そして急に、一軒の家の前で立ち止まった。赤い屋根の、小さな庭のついた家だ。この家に見覚えはないし、嗅ぎ覚えもない。けれど確かに、あの匂いはここから漂ってくる。いったいなんなんだ? 見上げてみれば、ご主人はニコニコと笑いながら目の前の家をみつめている。すると突然、

「あ、ぽんずくん! 待ってたのよ」

 降ってきた声。それは俺の鼻が嗅ぎ取っていた通り、みおりの声だった。なんだ、どうしてみおりがこの家に玄関から出てくるんだ? ご主人は驚く様子もなくみおりに「遅くなってごめん」なんて声をかけている。おいご主人、俺にも少しは説明したらどうだ?

「まぁまぁぽんず、とりあえず庭に入ってみな」

 そう言いながら、ご主人はリードを外して家の門をあけ、俺を中へと手招きした。しょうがない。よく分からないがご主人の言うことだ、何か意味があるんだろう。俺は家の門をくぐり、右に曲がって庭へと入っていった。ふかふかに敷き詰められた土。なかなかいい踏み心地だし、骨を埋めるのにもちょうどよさそうな柔らかさだ。庭の奥へ行ってみると、小さな小屋が建てられていた。見ればそこには、「ぽんず」と書かれた札が貼り付けられている(なんで字が読めるのかだって? むしろなんで犬だからって人間の文字が読めないと思うんだ?)。ぽんず、つまり俺の名前だ。俺と同じ名前の犬が別にいてこの家に住んでいるという可能性もあるけれど、この家からみおりが出てきたこと、ご主人が俺をつれてこの家にきたことと合わせて考えると、俺は一つの可能性に辿りついた。けれどそれは俺にとってあまりに嬉しいものだったから、俺は自分に都合のいいように考えすぎているんじゃないかと不安になって、ご主人の元に駆け寄った。するとご主人は、まるで「やっと気付いたか?」とでも言いたげに、ニコニコと俺のことを見ている。その横に立つみおりは、俺とご主人を交互に見比べると、突然「ちょっと、もしかしてぽんずくんに言ってなかったの?」といきなり大声をあげた。ご主人の表情と美織の言葉で、俺は自分の考えが正しいことを思い知った。

 なぁ、ご主人。俺はこれからもずっと、ご主人と一緒にいられるんだよな?

「あぁ、ぽんず。前の家とは違うからしばらく慣れないかもしれないけど、これからはこの家で一緒に暮らそうな」

 わしゃわしゃと、ご主人が俺の頭を、首を、大胆に撫でる。俺は嬉しさと気持ちよさで目を細めた。

「ごめんな、ぽんず。賢いお前のことだから俺がいなくなると思って拗ねてたかもしれないけど、お前を驚かせてみたくて」

 まったく、ご主人は子供だな。驚かせてみたい、だなんて。あいにく、俺は拗ねてた訳ではなくて、ただ少し寂しかっただけだけどな。

「ちょっと、今まで黙ってたなんてぽんずくんが可哀想じゃない?」

 なんだみおり、俺のことを心配してくれているのか?

「ねぇぽんずくん、寂しかったでしょ? 意地悪だよね、今日まで隠してるなんて」

 みおりは俺の横にしゃがみこむと、そう言いながら俺に笑いかけた。

「結婚して一緒に暮らそうってなったときに、ぽんずくんを置いていっていいのかって、聞いたのね。最初はあの人、ぽんずくんはもう年だから、住む環境を変えるようなストレスのかかることはしたくないって言ってたんだけど」

 おい、みおり、それは本当か? 骨の隠し場所をこっそり教えてくれるような、悪戯っ子めいたみおりの微笑み。

「飼い主である貴方と離れる方が、ぽんずくんにとってはストレスなんじゃないかって言ったら、考えを変えたみたいで」

 みおりの言葉に、俺はまじまじとみおりの顔を見つめてしまった。俺はみおりのことを勘違いしていたのかもしれない。俺への触れ方はまだまだ一人前には程遠いが、俺とご主人の絆を、よくわかっているじゃないか。

「あのときはありがとうね、ぽんずくん」

 わしゃわしゃと俺の頭を撫でながら、みおりが俺の耳元で囁いた。あの夜と違って、今のみおりは、ふわりと微笑んでいる。やっぱり、俺のふかふかの毛を撫でたのが効いたんだろう。

「改めて、これからもよろしくね、ぽんずくん」

 ああ、みおり。お前は案外いい奴そうだし、うまくやっていけそうだ。ただし、あくまでもご主人は俺のご主人だからな? そこの所を勘違いするんじゃないぞ?

「わかってるよ、ぽんずくん」

「なんだ、美織とぽんず、いつの間にそんなに仲良くなったんだ?」

 なんだ、ご主人のそのふくれっ面は。俺がみおりとばかり話しているから、拗ねてしまったのか? 心配しなくても、俺にとってはご主人がいつだって、いつまでだって一番なんだ。ご主人にとって俺がそうであるように。

 ご主人のもとへと駆け寄ると、その大きな手で「よーしよし」と頭を、体を撫でられた。その手の暖かさからは、確かにご主人の俺への愛情が伝わってくる。そして振り向けば、みおりが俺と同じ目線で微笑んでいる。

 ああ、俺は幸せな犬だ。ご主人に愛され、そしてご主人が愛した人間も、俺のことを好きでいてくれている。なんだか無性に嬉しくて、俺は高く、高く遠吠えをした。



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俺のご主人 木下青衣 @yuukiaoi

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