三千年の枝はいずれが

汀こるもの

本文

三千年みちとせの枝はいづれが手折りても

去年こぞ笹百合さゆりの匂ひ忘れじ


「男の子を生んだのだからお家の顔は立てました。女の務めは終えました。後はわたしの自由にしていいですね」


 王朝の時代と言えど皆が皆、絵巻のような恋物語を繰り広げているわけではない。

 小百合の場合、生まれたときにはもう決まっていた。親戚に年頃の合う男がいる、となったらもうそこで話はおしまい。どちらか死ぬか大病でもなければ路線変更なし。三下の役人だが最終的にほどほどの受領にでもなれればまずまず、という程度の男。

 この生まれたときから決まっていた夫、見慣れないほど不細工ではなかったが美男子と言うには鋭さが足りなかった。何より気が弱かった。役人として出来がいいかどうかなど小百合の知ったことではない。

 近頃、誰に取り入ったのか国司の身分を得て米や絹だけは持ってくるようになった。任国は紀伊だか伊予だか摂津だか、とにかく海のあるところ。

 まあこんなものなのだろうと思っていた。世の中、皆、そこそこで妥協して生きているのだと。夫など位禄を運んでくるだけのものなのだと。任国でせいぜい海の幸でも満喫してやると。

 だがそれは過去のことだ。


「わたし、これからは恋に生きるわ!」


 小百合は三千年の運命を見つけてしまった。


「受領の妻でも美人の噂が立てば三位中将さんみのちゅうじょうさまがお通いになったりするのでは? わたしまだ二十二で少し年下で丁度いいし、あちらは立派な家柄の美姫は食傷のはずだわ! 空蝉とか夕顔とかその辺りになるのよ!」

「夕顔になったら死んじゃうじゃん」

「ということで受領、わたしと別れて! 離婚して! 任国に行ってる場合じゃない! 子供なんて兄たちが育ててくれるわ!」

「夫に堂々と……何て大胆なんだ」

 しかしこの夫は二人きりで夫婦の寝所にあるというのに小百合がまくし立てても脇息にもたれて苦笑とも呆れともつかず顔を歪めるだけで、怒りも諫めもしないのだった。不愉快かどうかもわからない。

「どうせそっちだって家の決まりだから通ってるだけでわたしに興味なんてないくせに! 夜離よがれした不実だって怒られたくないだけのくせに!」

「そ、そうなのかなあ……」

「何よ、子供なら生んだでしょ、まだ何か足りないの!?」

「は、はい……」

 うなだれるばかりで一言も反論しない辺りがもう。

「中将さまは確かに光源氏の如き好き者のお方で彫りの深い美男子だし小百合さんは美人と思うけど、別れたら通ってくるという確証もないのに見切り発車できるその度胸はいっそ尊敬に値する。よくそんなことが言えるなあ」

「わたし、あの方を愛しているの! 女から伝えることができないって不便だわ。お前、わたしの代わりにどうにか言えないの!」

「どうにかってうちの妻があなたのこと大好きなんでつき合ってやってくださいなんてどこの夫が言うんだよ……あの人は人妻好きだから離婚はしない方がいいと思う」

「そうなの? じゃあ離婚はしないけど、お前あの方と口を利いたりできるの」

「まあ一応、受領の仕事は公卿さまのご機嫌を取って取って取りまくることだから」

「何か、わたしのことをものすごくできた美人妻とか吹聴して中将さまの気を引くとか」

「夢みたいなこと言ってるなー……」

「受領の妻だって公卿さまの愛人になれるはずなのよ。あの方が忍んでいらしたらわたし、空蝉のように逃げたりはしないのに!」

「どこの世界に間男の斡旋を夫に頼む妻が……他人の悪口は言いたくないけど顔がいいのに驕って底が抜けたように遊び歩いてるろくでなしだよ」

「言いたくないって全部言ってるじゃない。何よ、嫉妬してるの?」

「どうだろう。しているのかもしれないしそうでもないのかも」

「お前のそういう煮えきらないところが嫌い」

「ぐうの音も出ない。煮えきらないのは事実だ」

 少し眠そうに目を擦ると、この受領如きは畳に土下座して。

「何にもしないから眠るだけだから寝床に入れてくれませんか小百合さん。この期に及んでよそに床を延べてもらうとか超恥ずかしいし二人揃ってお父さんお兄さんに怒られる。あなたのお兄さん超怖いから」

「何にもしないでよね」

「なるべく遠ざかって寝るから……」

 それで装束を解いて小袖一枚になって、本当に衾の端に遠ざかって何もしない辺りがこの男の甲斐性のないところだ。一刻も早く紀伊でも伊予でも行ってほしい。そうなれば大手を振って浮気してやる。

「……そもそも小百合さんは中将に会ったことあるの? いつの間に? 邸から出たことないのにどうやって。愛してるってどれくらいの何?」

「邸から出たことくらいあるわよ。親戚が中納言さまの姫君の女房をやっていて、その付き添いで賀茂祭に行ったのよ。張り切って早くから牛車で出かけて場所を取っていたら、早すぎて野犬に吠えられて。うまく追い払えずにいたら中将さまの従者が助けてくださったのよ。その後、中将さまが隣に御車をつけて、綺麗な男の童を寄越してお歌をくださったの」


「〝奇犬きけん花に吠ゆる声、紅桃こうとうの浦に流る〟と申します。

 三千年みちとせになるといふ桃の今年より咲きたる花はいかになるらむ」


 神仙の住まう桃源郷では桃の花が咲く谷間に不思議な犬が吠える声が響くと言います。

 三千年に一度咲く西王母の桃の花に出会ったようですが、この恋はどのような実を結びますか?


 夫は目をすがめて呆れているようだった。

「な、何で野良犬に吠えられたのが桃源郷だの西王母だのの話になるんだ?」

「お前、西王母知らないの!? 役人って漢文読むんじゃないの!?」

「知ってるから戸惑ってるんだよ! 〝奇犬花に吠ゆる声〟って都良香の『神仙策』? 陶淵明『桃花源記』の本歌取りで原典は……〝阡陌せんぱく交り通じ、鶏犬けいけん相聞あいきこゆ〟……」

 何だかんだ漢詩をそらんじる能力はあるくせに、この男。

「外国の田舎の村によく手入れされた畑があって、野獣じゃない飼い慣らされた鶏や犬の声がして牧歌的で平和でのどかだなあって意味だけど? 桃源郷って言うけどその村が桃の木に囲まれてた程度の場所なんだけど? 奇犬って桃源郷ならではの珍しい瑞獣とかじゃないんだけど? 西王母の桃の花?」

「つまり理が勝ちすぎて折角漢詩を知っているのに飛躍する詩心がないのよ、お前には! 犬に吠えられるなんてみっともない姿を晒したわたしたちを詩の引用と和歌とで慰めてくださったのよ。何て機転、何て情緒なの!」

「そ、そういうもんなの」

「この世にあんな男君がいらっしゃったなんて、わたし本当に生きていてよかった! 西王母の桃の花ですって! お前、こんな褒め言葉思いつく? つくわけないわよね」

「わ、わけがわからない。西王母の桃の花って、息するように女を口説くんだな……そんな恥ずかしい言葉が嬉しいのか……」

 だから駄目なのだこの男は。恥ずかしがってないで見習え。

「その調子で情人が十人も二十人も掃いて捨てるほどいるって話だよ」

「その十人二十人の一人になれるかもしれないって、夢のある話じゃないの」

「ゆ、夢があるのそれ」

「今、都にいる受領の妻や娘は皆、もしかしたら自分のところにも中将さまがお通いになるかもと期待に胸躍らせて変わり映えのない日常を何とかやっていってるのよ。どこかの受領は賀茂祭になんか連れていってくれないし」

「そんな日に暇なわけないじゃないか。ていうかそれ、あなたが言われたわけじゃないんだろう。中納言さまの姫君あてなんじゃないか」

「最後に〝紫の〟っておっしゃったのが聞こえたわ。あれは従者じゃなくて中将さまご本人のお声だったわ」

「紫? 源氏物語?」

「何でもそう言っときゃいいと思ってるでしょ。万葉集よ」


〝紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも〟


「その中で人妻だったの、わたしだけよ!」

「じゃ独身の年下の女の子たちの中であなた一人が一番はしゃいでたのかよ……五文字で人の妻を口説くなよ……あなたも五文字で舞い上がるなよ」

「生受領のお前にはないこれが〝雅〟よ!」

「雅ねえ……外ヅラがいいんだからなあ……性格悪いよあの人。男相手だと慈悲がないものだからしょっちゅう無茶ブリされる」

「外ヅラさえも取り繕えない男の負け惜しみだわ。お前は性格がいいとでも?」

「返す言葉もない」

 つぶやいて、衾の中で身じろぎしたと思ったら横を向いて背を向けた。横を向かれると夜具に隙間ができて寒いのに。

「お迎えするときの台詞ももう決まってるのよ、〝お家を守るためと親兄弟に強いられて、夫も子もあれどまことの恋は未だ知らず〟!」

「やる気満々かよ」

「お前こそ何か雅な漢詩は知らないの。和歌は諦めたわ。代作はもううんざり」

「漢詩は知ってるけど何が雅なのかはちょっとよく……いやだって陶淵明の詩は戦に疲れた秦の民たちが山奥で密かに隠れ里を作っていて、それが数百年後に一瞬見つかったけど二度と訪れることはできなかったって話で、不思議だけど西王母がどうとかじゃないしあなたが喜ぶかどうかは……」

 駄目だこいつ。教養はあるのにそれを生かす才がない。詩の閃き、霊感が欠けている。ものを知っていてこれなのだからむしろ今から誰かに何か教わっても無駄ということで絶望的だ。

「去年の賀茂祭以来あなたに懸想している美人妻が……やっぱりフツーは言えませんよ小百合さん」

「女から男に愛を語っちゃいけないなんて世の中は間違っているわ!」

「うん、まあ、それは間違っているのかもね」

「大体お前はわたしの兄弟が怖いだけでわたしが怖いのですらないくせに! その程度の根性でわたしの夫を名乗り続けるつもり!?」

「……正論だ」

「さっきから世間体ばっかり! 何よ兄に叱られるって、一緒に寝ている女がよその男の名前を呼んでるのよ、嫉妬の一つもしなさいよ!」

「確かに嫉妬じゃないなこれは。嫉妬じゃない」

 納得するな。反論しろ。

「あなたのことを愛しているものすごい美人妻が……中将の興味を引くように?」

 何かぶつぶつ言っているが、背を向けているのでよく聞こえない。

「……本当に中将に通ってもらいたい?」

 こんなことを尋ねる夫があるか。

「風采の上がらない受領にはない雅があるからね」

「妻がぜひにと言うなら仕方ないかなあ。方違え先をこちらの邸にしませんかと言うくらいならできるよ、それこそ空蝉のように」

 そう言われた瞬間、心が冷えた。それを望んでいたはずなのに。

「――実際小百合さんには苦労をかけたと思っているんだよ。子供も生んでもらったし、任国は遠いから。行って帰ってくるだけで大変だし、あなたや息子に道中、何かあっても困るし。お兄さんたちに任せようと思っていたけど、そりゃあ中将さまにお願いできるならその方がいい。できるのは邸にお招きするまでで、その後は小百合さん次第だよ。こちらは寝たふりでもしているから」

 背を向けたまま、どんな顔で言っているのか。

 さっきまで出ていた声が出なくなった。

「あなたのことは子供の頃から見知っているんだ。幸せになってほしいよ」

 こちらに向けた小さな背中がやけに遠く見えた。

 ――最近ろくに触れ合ってもいない。疲れたとか言ってすぐ一人で寝入ってしまうから。

 この男と来たら小百合の父や兄に顔を見せに来て一緒に酒を飲むばかり。小百合より兄弟と一緒にいる時間の方が長いし、自分の実家にいる時間はもっと長い。

 きっと実家で、小百合がわがままだとこぼしているのだろう。任国について来る気がないとか。

 そんなにわがままだろうか。

 気の利いた万葉の歌の一つもほしいというのは。

 三千年の運命とは言わない。一言、「ついて来てくれ」とだけでも。

 付け焼き刃でも剽窃でも、たった五文字でいいから。


 ――お家を守るため親兄弟に強いられて、夫も子もあれどまことの恋は未だ知らず。

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