第11話 レスター
「はい、できたわよ。」
そう言ってミモザがコルクとポトフの目の前に、本日の夕飯となるお手製スープを差し出した頃には、辺りはすっかりと暗くなっていた。
テーブルの上へと置かれた柔らかなランプの光が、より一層ミモザの手料理を美味しそうに照らし出す。
『…チャチャ、元気ガナイネ。』
コルクがそのスープをすくって口元へと運ぼうとしたその時、チャチャの様子じっとを眺めていたポトフがコルクに向かってそう告げた。
それを聞いたコルクは、スープを食べようとしていた手を止め、ポトフと共にチャチャの姿を静かに眺めはじめた。
ミモザはすでに、コルクとポトフにもう一品自分の自慢の料理を振る舞おうと、調理場へと戻っている。
調理場からはそんな彼女の可愛らしい鼻歌が、こちらの部屋にまで届いてきていた。
一方チャチャは、相変わらず窓辺に佇んでじっと静かに外を眺めていた。
窓の外では本来ならば深く続くはずの暗闇の中を、いくつものヒカリムシが舞い上がり、その体から発する淡い光で庭の中をほのかに照らしていた。
しばらく窓の外を眺めていたチャチャであったが、すっと静かに立ち上がると、そのまま少しだけ開いていた窓の隙間から、するりと外へ出て行ってしまった。
『…チャチャ!』
何も告げず突然外へと出て行ってしまったチャチャの事を案じたポトフが、すぐさま彼女の事を追おうとしたが、コルクはそれを静かに手で制した。
「そっとしておいてあげましょう。誰しもひとりになりたい時だってあるものです。」
そう言ってコルクは両手でスープの皿を持ち上げると、鼻元でその香りを充分に楽しんでから、静かにスプーンでスープを口へと運んだ。
「あら、チャチャは?」
こんがりと焼けたカシマドリのソテーを食卓へと運んできたミモザが、すぐにチャチャの姿が見えなくなっている事に気がついた。
「大丈夫ですよ、チャチャさんなら庭にいます。」
そう言って窓の外を眺めながら話すコルクの目線の先に、庭でちょこんと座っているチャチャの姿を見つけたミモザは、ほっと胸を撫で下ろした。
「ミモザさんは、今までにチャチャさんの他に別の子猫を飼ってみたいとか思ったことはありますか?」
チャチャが席を外している今の間にと、コルクはミモザに対して以前から自分の中で抱き続けていた一つの疑問を投げかけた。
チャチャはこの一連の猫拐い事件が解決したら、この家にチビの事を招き入れるつもりでいるらしいが、実際にコルク達がその子猫を救出してこの家に連れてきたとして、果たしてミモザが突然現れたその子猫の事をすんなりと受け入れる事などできるのだろうか。
チャチャと会話が出来るコルクだからこそ、チャチャの真意やその意図するところが理解できる。
だけどミモザは…
そんな不安を抱いていたコルクは、まだ十分に温かいスープへと口をつけながら、ミモザからの返答を待っていた。
「あ、でも数年前に一度だけチャチャが妊娠した事があってね…」
そう言ってとても懐かしそうに語りはじめたミモザの表情はどこか哀しげなものへと変わっていた。
◇◇◇
こんな夜は、
ふいにあの時の事を思い出す————…
庭へと出たチャチャは、夜空に舞う無数のヒカリムシの姿を眺めながら昔の事を思い出していた。
数年前のネズミ達との争いの後、祝賀会として使用していた空き地でも、こんな風にヒカリムシが飛んでいた。
祝賀会ではその日の勝利を祝って、街中の猫が集まり、みんなその喜びから深夜である事すらも忘れて陽気に、そしていつも以上に浮き足立っていた。
特に若いメス猫達なんかは、久々に開かれるこの会合がとても嬉しかったらしく、尚更他愛もない会話に花を咲かせていた。
チャチャは、そんなみんなの様子を少し離れた土手に座りながら静かに眺めていた。
『…お前は混ざらないのか?』
そんなチャチャの隣に一匹の猫がそう声をかけながら腰をおろした。
均等な光沢を持つ、美しい灰色の毛並みのその猫は、レスターというこの群れのNO.2のオス猫だった。
レスターのエメラルド色の瞳が、月夜に照らされて淡く光る。
『私は、ああいった集まりが苦手でな。』
そう伏せ目がちにはにかむチャチャに向かってレスターは、
『…というかお前!さっきのあの戦い方は一体なんなんだ!?あんな事をしていたら命がいくらあっても足りないぞ!』
そう言って突然大声でチャチャの事を怒鳴りはじめた。
『…で、でもあれで戦況が変わったのは事実じゃないか…』
レスターの突然のそんな剣幕に、チャチャは思わず体勢を低くしながら、いつもはピンと勇しく立てていたはずの両耳を、しおらしくペタンと倒しながら言い訳をしはじめた。
今回の戦いに参加したのは猫40匹に対してネズミの数は数千以上。
いくらネズミが体が小さく力も弱い生き物であるとはいえ、その数の差は歴然であり、多勢に無勢。
猫達の方も、全く気が抜けない状況であった。
だが、ネズミのボスと猫のボスとが同時に戦いの狼煙をあげたその瞬間、いち早くチャチャが動き出し、しなやかかつ俊敏な動きで、前線にいたネズミ達の大半を撃退していった。
それにより戦況は一気に猫達が有利なものへと変わり、ボス猫であるモスガンだけはかなりの深手を追ってしまったものの、それでも十分に快勝といえる結果であった。
『大体なぁ…!女のクセに戦いに出てくること自体がなぁ…!』
『えー!?ターナ、赤ちゃんできたのー!?』
レスターがチャチャへの説教を続けようとしたその瞬間、まるでそれを打ち消すかのように近くにいたメス猫達の集団が一斉に喜びの声をあげた。
『いつ産まれる予定なのー?』
『うーん、来月の終わりくらいかな。』
『いいなー』
そう言ってその若いメス猫達の集団はますます明るい声を沸かせた。
そんな彼女達の様子に、レスターは溜息を一つ漏らすと、先程とはうって変わって落ち着いたトーンで言葉を続けた。
『…本当ならば俺は、お前には戦いなんかではなく、ああいった会話の中に混ざっていて欲しかったんだがな。』
そう話すレスターの横で、チャチャは少し間をあけると、戸惑いながらこう答えた。
『なぁ、レスター…もし、もしもさ…私達に子供が生まれたなら、その子は一体どんな柄をして生まれてくるんだろうな…』
そんな小さなチャチャの呟きが自分の耳へと届いたその瞬間、レスターは不審そうな表情で目を細めると、そのまますっかりと固まってしまった。
『…お前まさか…』
険しい表情のままようやく声を絞り出したレスターに向かって、チャチャは少し怯えた表情で再び自分の耳を倒しながらこう答えた。
『…やっぱダメだよな…お前は今大切な時期だし…』
そう言って寂しそうな表情を浮かべたチャチャの横で、レスターは、
『ははっ…俺が父親になるのかぁ…』
と、いまだ湧き上がったままでいるメス猫達の事をまっすぐ見据えながらその表情を次第に喜びに満ち溢れたものへと変えていった。
『…いいのか?』
そんなレスターの表情を見て、おそるおそるそう声をかけるチャチャに向かってレスターは、
『もちろんいいに決まっているだろう!でかしたぞ、チャチャ!』
そう言ってレスターは嬉しそうにその場で高く飛び跳ねると、チャチャに寄り添いながら優しくその頬を寄せた。
『…レスター、私元気な子供を産むよ。』
『頼んだぞ。そうなれば俺もお前の家の近くに住処を移さなきゃならないな。』
耳元で聞こえるレスターのそんな優しい声に、チャチャの心は寄り添う体と共に安らいでいた。
『ありがとう、レスター。そんなに大切に思ってもらえて私はとても幸せだよ。』
『…俺もだ。これからはお前とそのお腹の子の為にもあまり無茶な事をしないようにしないとな…ってお前、腹の中に子供がいるクセにあの戦いに参加していたのか!?』
それまで優しく語っていたはずのレスターであったが、今回の争いにチャチャが参加していた事を思い出したレスターは再びチャチャの事を叱りつけはじめた。
『私も今日の戦いの途中で気がついたんだ、仕方がないだろ…』
思わずチャチャが罰が悪そうな表情を浮かべながら苦しい言い訳を並べはじめた。
『すごぉぉぉぉぉぉい!』
すると、そんな二匹のやりとりを遮るようかのように再び例のメス猫達が黄色い悲鳴をあげた。
『なんかね、妊娠中にラクティナの泉で泳いでいる金色の魚を食べると、お腹の中の子供も妊婦も元気になるっていう言い伝えがあるみたいでね、彼が毎日その魚を届けてくれてるの。』
『それでターナ、妊娠中なのに毛艶がいいんだー!』
『羨ましいー!』
メス猫達は口々に喜びの声をあげている。
『悪かったよ、これからは私もそんな無茶はしない。約束する。』
『…頼むよ。俺にとってお前は、こんな地位や立場なんかよりも、もっともっと大切なものなんだからな。』
大きな満月の下、沢山のヒカリムシ達がとめどなく舞い上がるその中で、チャチャとレスターは身を寄り添い合いながらそんな彼女達といつまでも続く宴を幸せそうに眺め続けていた。
◇◇◇
その悲しい報せが届いたのは、ある雨の昼下がりの事だった。
その日は一日中晴れのはずで、きっと雨なんて降らない予定だった。
まさかそんな悲しい報せがこんなに早く届くだなんて、チャチャ自身、思ってもみない事だった。
『…一体、何があったというんだ…』
目の前に横たわる傷だらけのレスターの姿を見て、チャチャはそう呟いた。
空から絶え間なく降り注ぐ大粒の雨は、激しい雨音を立てながら、地面とその上で動かなくなってしまったレスターの体を冷たく叩きつけていた。
あの日から、レスターは毎日ラクティナの泉から金色の魚を獲って来てはチャチャの家に届けていた。
ミモザもチャチャの妊娠と、毎日訪れて来るレスターの存在に密かに気づいていたようで、レスターが庭先へと現れるその度にチャチャが外に出やすいようにと、そっと玄関の扉を少しだけ開けてやったりもしていた。
その日は朝からとても良い天気だった。
たまに吹く風も暖かく、レスターの鼻先を優しく撫でた。
ラクティナの泉の水はとても透き通っていて、沢山の色とりどりの魚達の中から金色の魚だけを捕まえる事など、もともと器用なレスターにとっては何の造作もない事だった。
レスターが無事に金色の魚を獲り終え、いつものようにチャチャの家へと向かっていると、突然雨が降りはじめた。
はじめは小降りだったその雨も、次第に雨足を強めていき、ついには強く地面を打ちつける程にまでなっていた。
強い雨によって上手く目が開けれず、そればかりか口にくわえていた魚が滑って、何度も落としそうになってしまう。
仕方がなくレスターは近くの商店の軒下へと入り込み、しばらく雨宿りをする事にした。
突然のその雨に、街の中の人達の動きも一気に慌ただしくなる。
軒下で体を休めているレスターの瞳には、いつしか大きな荷台がうつっていた。
荷台の周りにいる人間達も突然降り出したこの雨にすっかりと予定が狂ってしまったようで、かわるがわる慌ただしく荷物を荷台に積み込んでいた。
ちょうどその側を見慣れない猫が横切ろうとしたその瞬間、荷物の中から小さな魚が数匹ポトリと地面に溢れ落ちた。
その猫はよほど腹を空かせていたのだろう。
すぐにその事に気がつくと、無心にその小魚へとかぶりついた。
『…あのバカ…!』
それを見ていたレスターは、すぐにある事に気がつくと、一気にその猫に向かって駆け出し、そしてそのまま体当たりをしてその猫を遠くへとはじきとばした。
突然のその出来事に驚いた野良猫は、せっかく自分が見つけたこの獲物をレスターが奪いに来たのだと思い込み、すぐさま反撃の姿勢へと自分の体を整えた。
だがその瞬間…
突然荷台の荷が崩れ、レスターは下敷きになってしまったのだった。
『積荷をしている荷台の近くには近づくな』
この猫は他所から流れついてきたがために、貿易港であるこの街独自のルールを知らなかった。
だが、この街で生まれ育ったレスターには、その言い伝えが自然と身に染み付いていた。
大きな荷を運んでいる人間は自分の足元が見えず、不注意となりやすい。
それに加えてキツイの仕事の割に繰り返される同じ作業の連続。
とかくこんな雨の日なんかは、荷台の近くでは事故が起きやすい状況であった。
実際にこの時も、荷台の上の荷物を麻縄で縛ろうとしていた人間が足を滑らせた事にいち早く気がついたレスターが、この野良猫に向かって体当たりをかけたのだ。
「大丈夫か!?ダズさん!」
そう言って荷台の上で足を滑らせ地面に尻もちをついてしまった初老の男性に、作業をしていた男達が集まってくる。
「あいたたたた…ワシは大丈夫じゃ。じゃが猫が…」
強く打ちつけた自分の腰をさすりながら立ち上がったその男性の目線の先には、崩れ落ちた荷物の下から覗いた小さな4つの足が映り込んでいた。
人に飼われていないオス猫の人生がとても過酷な事などチャチャはきちんと理解していた。
レスターのように力が強く、地位も高い猫でさえもそれは平等に訪れるものだと頭では理解できているはずだった。
だけど…
目の前に横たわるレスターの姿を眺めながら、チャチャはこの訃報を知らせにきた猫に向かって思わず自分の思いを溢れ出さずにはいられなかった。
『なぁ、ランディー。もしもあの時あのまま雨が降らなくて、あの時レスターが魚を取るのが少しだけ手間どって、そしてあの時、レスターがこの道を通るのがほんの数分だけ違っていたら、こんな事にはならなかったのかなぁ…』
いまだ降り止まぬこの日の雨は、まるで涙を流す事のできないチャチャの変わりを果たすかのように、この街中を濡らし続けていた。
◇◇◇
「死産ですね。」
小さな子猫の体に聴診器を当てていた獣医は、静かな表情でそう告げた。
数週間後、チャチャは密かに寝床で小さな子猫を生んでいた。
だがその子猫はあまりに小さく、生まれた瞬間から全く動く事はなかった。
チャチャの出産に気づいたミモザが急いで獣医を呼んでは来たが、とても残念な事にその子猫が助かる事はなかった。
「幸い母体の方には異常はないみたいですね。」
そう言ってその医師は子猫の遺体に真っ白なシーツを掛けた。
「その子猫は…何か重たい病気かなにかだったのでしょうか…」
そう言ってミモザが悲しそうな表情で医師に尋ねた。
「ここではなんの検査も出来ないから詳しい事はいえませんが、妊娠初期には強い心因的なストレスとか環境の変化でもかなりの影響が出やすいですからね。何かその猫にとって強いストレスとなる事があったのかもしれないですが、我々には猫の思いの全部は汲み取ってやることができません。とにかく今はゆっくりとその子の心と体を休ませてあげる事が先決ですよ。」
そう言って医師は深く頭を下げると、ミモザの家を後にした。
チャチャにとっての強いストレス…
ミモザの頭の中には、いつしか数日前からとんと訪れなくなったあの灰色のオス猫の事が浮かんでいた。
「…辛かったね、チャチャ。」
そう言ってミモザはチャチャを優しく抱き寄せた。
だがチャチャの瞳は、ただ真っ直ぐにその真っ白なシーツの中に包まれたその子猫の姿だけを捉えていた。
まだ毛の生えそろっていないピンク色のその子の肌を眺めながら、チャチャはミモザには決して分からない言葉でポツリと呟いた。
『…お腹の中の子供は、一体どんな柄をして生まれてくるんだろうなって、あの時二人であんなに話していたのにな。』
チャチャがこの街の猫の群れから抜けたのは、その頃からだった。
キジマ魔法堂〜キジネコのヒゲ〜 むむ山むむスけ @mumuiro0222
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