コスモス

鯖みそ

コスモス

古い電話の受話器を片耳に預ける。ゆっくりと、ダイヤルする。機械的な信号音が、反復する。

しばらく、静寂の後。

やがて、年配の女性の柔らかい声が聴こえてきた。

「はい、柳瀬です。」

「あ、お久しぶりです。亘理です」

「どうしたのかしら、急に電話なんかよこして」

「実はですね、預かってもらいたい猫ちゃんがいてですね」

「子猫?」

「ええ、アメリカン・ショートヘアの、可愛い子です」

「いいけど、どうしたの」

「一匹いるので、お願いします。好きですよね、猫ちゃん」

「えぇ、大好きよ」

「なら、良かった。ではお願いしますね、柳瀬さん」

「けれど、どうして」

「お願いします、お願いします」

「なんでなの、亘理ちゃん」

「すみません、すみません。」

「亘理ちゃん」

「すみません」

私は、受話器を静かに置いた。


愛猫が死んで、もう三年になる。

灰色の毛並みをしたアメリカン・ショートヘアーの彼女。

彼女はいつも不器用だった。甘えてきたと思うと、膝にごろんと横になったと思うと、強く爪を立てて足を踏みつけてくる。あまりに痛かったから追い払う。すると、寂しそうに目を細めながら、私のことを睨みつけてくる。今思えば、愛情の裏返しで、自らの愛を受け取って欲しい、と願っていたに違いなかった。彼女が付けた、引っ掻いた痕は、強く残っている。それだけが、彼女が生きていた証だ、と時々思う。私の愛撫も情熱的で、彼女の顎を執拗に擦りながら、何も考えないような温かな時間が好きだった。彼女の暖かい喉の鳴りが心地よかった。彼女はFIPで、ほとんど見込みのない難病だった。

今思えば、自分の死を自覚していたような生活だった。彼女はリビングや自室の押し入れの隙間に潜り込んで、死んだように息を立てずに眠っていた。そこは果てしのない暗闇だった。光の差し込まない場所へ、自らで望んだように、入り込んでいた。


「寒いよ、そこ」

彼女が私を見詰めてきた。まるで見つけられたがっていたみたいに、馬鹿みたいに、僕だけを、見つめていた。安堵していたように思えた。これで、一人で死なないで済む、と。

間もなく彼女は死んだ。安らかな最期だった。ひどく苦しむことなく、眠るように。モルヒネを投与しての安楽死だった。優しげな愛撫だけが、私と、彼女を繋ぎ止めていた。

あの頃と同じように、ただ、ただ、優しく。


「ね、ありがとうね、ありがとう」

彼女の舌はだらしなく出ていて、涎が少し垂れていた。息は薄くなり、か細く苦しそうに喘いでいた。けれど瞳は、私をずっと映し続けていた。それだけが、彼女にとって、私にとって、救いのような気がした。

「うん、ありがとう、本当に。ありがとう」

死なないで、とは言えなかった。時間の問題だ、死は。彼女が私を看取るか、私が彼女を看取るか、それだけの事だった。

「せめて、温かい場所で、殺してください」

僕の最後のお願いは、それだけだった。

朝、窓から光が差し込む部屋で、彼女は息を引き取った。


まるでお互いの寂しさを埋め合わせるように、私たちは生きていた。彼女の気が逆立っていたら、私が彼女を愛した。私の気分が落ち込んだ時は、彼女が膝で寝息を立てていた。

「コスモスってさ、どうして集まって咲いているんだろうね」

一人で生きられないからだよ、と彼女が笑った気がした。

そうだね、と私の言葉は、光に溶けて聞こえなくなった。

愛していた人は他には居ない。昔、彼女を強く抱き寄せたら、酷く指を噛まれたことがある。私の指からは血が溢れてきて、彼女は獰猛に唸っていた。赦してほしい、と思った。

だって、君のことが好きなんだよ。どうしてそんな目で、私を睨むの。やめて、それは。やめて。

愛は所有することなんて出来やしない、と君が教えてくれたのに。一人では生きていけない、と君が教えてくれたのに。


「もうすぐ、春が来るよ」

彼女は死んでから、私は脱け殻だった。

まるで右腕がもがれたように、どこか不具を抱えたように生きていた。食事も喉を通らなかった。地獄の季節だった。そんな生活が何ヵ月か続いた。


彼女のささやかな報せを聞いた。私は、誰の声も届かない夜に、静かに涙を流した。

彼女の子供を引き取ったのは、その年だった。


今なら、彼女の気持ちが少しだけ理解できる。どうしてそんな場所で、眠っているのかが。

「寒い方が良かったんだね」

彼女の子供を撫でる。決して離れないように、匂いを擦り付けるように、鼻を指に寄せてきた。ごろごろと、喉を鳴らしながら。

彼女は、優しかった。密やかに息を引き取って、誰にも、知られないように。

赦してくれ、とは言わない。ただ、悲しみを少しでも、和らげるために。この子だけを、笑わせるために。


「では、この子をお願いします」

「はい、頼まれました」

柳瀬さんは柔らかく笑っていた。私の仔猫を優しく抱き抱える。みぃみぃと鳴いていた。私の方を向いて、小さな手をありったけ伸ばしてくる。

「あら、離れたくないのね」

「たくさん、可愛いがりましたからね」

「いいのかい」

「えぇ、いいんです。すみません」

私は頭を下げた。柳瀬さんは、悲しそうに、けれど私の望みに応じて、仔猫を引き取ってくれた。


コスモスが、一輪咲いていた。光の眩し朝だった。

人ってさ、一人では生きていけないけど、それでも愛する人のためなら。誰だって。

私はベッドに力なく横たわった。

それが愛と呼べるなら、いつまでも、君のことを思えば、それだけで。たとえ、離れていても、私たちは。

子供の鳴く声が聴こえた気がした。

それでもう、救われた気がした。

「ねぇ」

私は一人ごちた。

「あのコスモスってさ、どうして一輪だけで、咲いているんだろうね」

離れていても、根っこで、繋がっているからさ、と彼女は笑った気がした。


喜んで私はゆっくりと、眠りについた。









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コスモス 鯖みそ @koala

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