何気ない短編集

Palmette Lotus

わたしのリクエスト

「琥珀、明日から帰り遅くなるからね」

 瑠璃のその言葉は、目前に迫った大学生活で自堕落と不摂生の極みを謳歌しようとしていた琥珀の脳髄に突き刺さった。高速のタイピングを見せていた右手の指は全機機能停止し、SNSで飛ばそうとしていたリプは未完成のまま捨て置かれる。

「お、お姉ちゃん……うそ、嘘だって言ってよ……!じゃないと、あたしっ!!」

 ポテチの袋に突っ込んだままだった左手を引き抜き、鋭い動作で姉にびしっと向けた。油と粉にまみれた指先につままれた詰問のポテチが、瑠璃の鼻先に突き付けられる。

「――なに馬鹿丸出しの反応しているのよ。貴女だって知っていたじゃない」

 そう言った瑠璃は、ポテチを口だけでぱくっと受け取った。知ってはいたが、改めて口に出されるまですっかり記憶から消え去っていた琥珀にとっては、予想以上にショックが大きかった。この一か月近く、久しぶりに姉と水入らずの愉快で幸せな日々を送っていたというのに。まだまだやり切れていないことは山ほどある。一昨日から公開の映画を観に行くのも、駅にオープンしたドーナツショップに行くのも、海外旅行だってまだ先週の台湾ぐらいで、ヨーロッパやアメリカだって回ってない。余りにも早すぎる、モラトリアムの終焉。

「琥珀も明日は入学式でしょ?朝早くにお母さんが来るんだから、準備しておきなさいよ」

「うー、分かってるよ……はぁ……。お姉ちゃんともっといっぱい色々したいことあったのになぁ……やだなぁ」

 瑠璃から現実を突きつけられ、琥珀も渋々嫌々といった様子で明日の予定を確認する。母を迎えて、入学式で、健康診断で。その次の日は学部別の説明会で、年間講義計画で。

 最初の数日さえ乗り切ってしまえば後は、なあなあの大学ライフ。空いた時間は大好きな姉と、目いっぱい同棲生活をするはずだった。

 姉の瑠璃とは容姿が似ているだけで、性格も、趣味も、通う学校も違ってばかりだった。両親はそれぞれがどちらかに似たんだなと呑気に言っており、実際琥珀の面倒くさい性格は母から、分かりやすく超がつくほど真面目な瑠璃の性格は父由来のものだろう。それでも、琥珀と瑠璃は仲良しだった。生まれた時からずっと隣にいた姉とは喧嘩と仲直りの輪廻を永劫と繰り返してきた。その果てに、今の大好きがある。理由なんてない。大好きだから、大好きだ。



 同い年の双子だからつい忘れていた。姉は、永峰瑠璃は明日から就職するのだ。




 永峰琥珀。18歳。数分先に生まれた双子の姉、永峰瑠璃の妹。元高校生。今月頭に市内の高校を無事卒業し、春からは隣市のそこそこ有名な大学への進学が決まっている。趣味は珍しい柄の着物集めで、大学でも服の文化について学ぼうかなとぼんやり考えていた。それ以外は特にサークルやバイトも考えてはおらず、脳内をとにかく占めていたのは、同じく高校を卒業した姉との自由な毎日だった。琥珀は、姉の瑠璃が大好きだった。

 もうひとつのシークレットな趣味として、彼女は日々己が妄想を平面の世界へと創造……つまるところイラストレーターの端くれをしている。姉にも内緒な絵師の世界の門を叩いたのは高校生となってすぐの頃だが、別に美術が得意だったとか絵が好きとかそういった理由ではない。始めてみたら結構楽しくて、今もアイデアが尽きない、それだけだ。

 彼女にとってイラストは趣味で、楽しんで描くものである。自らの生み出した作品を送り出すのも、SNSに限っていた。ネットは良い。ネットに漂う者たちは、皆等しく「無色」だ。言葉を尽くした称賛も、偏った理論武装での批判も、琥珀には響かない。顔も、ましてや琥珀の人生を知る由もない者達から何を言われたところで鼻で笑ってしまう。称賛には一応形だけはリプを返すことにしていたが、スカスカの文字の羅列でしかない。適当な絵文字でも付けておくのがいつもの返信だった。




「ぎぎぎ……あーもー描けないー……ぐぎ……ごごごご」

 仮にも明日からは花の女子大生の発する言葉とは思えないうめき声を漏らしながら、琥珀は自室の机に突っ伏した。日課のSNSへのイラスト投稿も、今日ばかりはだめかもしれない。思い描いていた未来を根こそぎ奪われ、愛すべき姉は日の出と共に社会の歯車となる。そのせいで、頭の中は先ほどから憂鬱と悲嘆が渦巻き、それは末梢神経にも影響を及ぼした。ペンを握る手に、いつものノリを感じないのだ。琥珀は自身のイラストのテーマに、常に趣味の和装を取り入れていた。投稿した作品にはむしろ人物の顔の出来より、来ている着物や袴の模様やデザインを褒められたものも少なくない。日頃から描きたい模様や構図は絶え間なく湧いてくる。生き生きと走るはずのそれが、今は微動だにしていない。

「お姉ちゃん……なんでなのお姉ちゃん」

 答えは返ってこない。部屋には琥珀しかいないのだから当たり前なのだが。徐々にペンを握る指が緩み始める。



「もう、寝ちゃおうかな」

 どうせ、楽しみにしていた毎日はやって来ないのだから。

「だったら少しでも」

 楽しかった昨日までの夢を、長く見られるように。

 瑠璃におやすみの挨拶をしていなかったが、構うものかとスマホ片手にそのままベッドへと転がる。途端襲って来る眠気に、琥珀は身を委ねた。







 ぴこーん、と、スマホの通知が鳴った。



「――ふぇ?」

 船を漕いでいた琥珀は、ギリギリでその音に気付いて覚醒する。枕元に置いたスマホの画面上、イラストを投稿しているSNSアプリに「1」の数字。タップして開いてみると、琥珀自身へのDMのようだった。

「なんだろ、リクエストとかかな」

 申し訳ないが、今日はもう店じまいとさせて欲しい。とてもそんな気分ではないし、適当に返事して後日にしてもらおうと、会話を開き、琥珀はその文面に釘付けとなった。

 



 

 突然のDM、申し訳ありません。Amber Hornさんのイラストは、常に拝見させて いただいていました。どれも素敵な作品で、毎回楽しみにしています。

 本日は、イラストのお題の依頼をさせて頂きたく、連絡しました。

 もし、お時間と関心を割いて頂けるなら――





 自然と、身体は動いていた。ベッドから飛び起き、放り投げていたペンを取り、タブレットに向かい合う。描かなければ、と思ったのだ。そう強く感じた琥珀の中で、デザインが、色合いが、表情が、次々と創造まれてゆく。

「このイメージ、これって……!」

 今まで、どんな言葉でも心を動かされることなんて無かった。なのにあのリクエストを見た瞬間、頭のてっぺんからつま先まで、電流が走ったのだ。

 描きながらも琥珀は考える。結局、瑠璃と一緒にいられる時間はこれまでよりずっと少なくなる事実は変わらない。なら自分に出来ることとは一体何であるか。

「お姉ちゃんが帰ってくるこの家で、これからはもっともっと、お姉ちゃんを支えられるようにならなきゃ……!」

 炊事でも洗濯でも、何でもやってみせよう。辛い目にあったなら、抱きしめて受け止めてみせよう。あたしに出来ること、全て。

 寂しくはないのかと問われれば、寂しいに決まっている。正直に言えば、朝起きると瑠璃の出社する会社に隕石でも落ちていてくれないかなと割と本気で思っていたりもする。

「大人って凄いんだね。楽しいこと、大好きな人といる時間が減っちゃうのに、それでも毎日頑張ってるんだから」

 いや、むしろ会えなくなるからこそ、限りある大切な時間を、めいっぱい過ごすのかもしれない。頭の隅でそう得心しつつ、琥珀は脳内に満ちるイメージをこの世界に具現化させていった。







 黒いスーツ姿の集団が、何百人と忙しなくうごめいている姿は圧巻だ。恐らく今日という日は、日本中そこかしこでこんな光景が見られるだろう。期待、不安、緊張、希望あるいは絶望、十人十色の表情をした新社会人の初陣の日となる4月1日、永峰瑠璃はスマホにメモした入社式のスピーチを確認していた。齢18、大学も出ていないのに新入社員代表の座を勝ち得たのはひとえに大卒重視の世が移り変わった故か、あるいは彼女自身の実力か。

「まあ、どうだっていいけれど」

 任された以上はきっちりやり遂げてみせると、瑠璃は心の中で戦意を鼓舞した。

「おーい、永峰さーん!」

「あら、神宮路さん」

 同期の神宮路紗雪が、小走りに駆け寄ってくる。どこかの貴族のような仰々しい名前だが、彼女の家系はいたって普通の家柄らしく、両親は教師とのことらしい。充分育ちはいいのでは、と瑠璃は内心思っている。

「もー、苗字はなんかどっかの貴族みたいでやだから、紗雪でいいって言ってるじゃん」

「そんなこと言っても、入社すれば基本は苗字でさん付けなのよ?」

「そーなんだよねー……」

 項垂れる紗雪を余所に、瑠璃は改めてスマホの画面に目を落とした。スピーチのメモを閉じ、画面を待ち受けだけにする。

「あれ?それ何かのイラスト?ていうか超センスいいねー!」

「……大好きな神絵師にリクエストして、描いてもらったの」


 描かれているのは、ラピスラズリで出来た花をあしらった着物を着て、穏やかに眠る女性。そして、まるで彼女を守るかのように包み込む、琥珀色に輝く花畑。




「琥珀、私だって寂しいわ。でも、貴女が描いてくれたこの絵があれば……私は」

 


 ――私は、頑張れる。


 ――何より大好きな貴女が、いつも待っていてくれるから。


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