ピアノ弾きと寡黙な友人の話

「ねえ、古い友だちの話をしてもいい?」

 飴色のカウンターをとんとん、と叩くその仕草と共に彼が語りだしたのは、いつか会えるのかもしれない大切な『友だち』の話だ。



 僕が彼のつま弾くピアノの音色に出会ったのは、行きつけとなったバーでのことだ。

 これはあまたの無礼を承知の上で言うことではあるけれど――こんな場末の安酒場にはとてもじゃないけれど不釣り合いに感じられる軽やかさと優美さをたたえた彼の演奏は、たちまちに僕を捕らえて放してはくれなかった。

 眠りに就くほんの少し前に聞きたくなるような優しいララバイのように、音符の上を軽やかに飛び回る蝶のように、ひとりの夜、寂しげにすすり泣く女が唇に乗せたか細い歌声のように――演奏される楽曲ごとに軽やかに姿形を変え、めくるめく色鮮やかな景色を繰り広げていくその音色に僕はたちまちに魅了されていた。

 楽器の単体の奏でる音が、ただの空気を震わせた軌跡を遙かに越えて、心ごとここではないどこかへと誘ってくれる――そんな思いも寄らない体験があることを僕はその時、はじめて知った。

いつしか、彼の奏でる音色に耳を傾けることを、そこで酌み交わす杯よりも何よりも心待ちにするようになったその頃―僕は、いまさらのように、彼がいつも欠かさない奇妙な風習に気づく。

 几帳面なたちに見える彼はいつも演奏を一通り終えると、トレードマークとなったビロードの山高帽を手に取り、長身の体躯を折り曲げるように丁寧なおじぎをする。その時いつも、ぐるりと四方八方を見渡すようにあたりを見回しては、誰もいない壁へと向かって丁寧なお辞儀をして、どこかまぶしげにまぶたを細めて見せるのだ。 

 ――まるでそこに、ずっと昔からの古い馴染みの親友の姿を見つけたかのように。

 やはり芸術家には常人に見えない何かが見えているのだろうか。いつもどこか寂しげに見える彼のまなざしにやわらかなぬくもりを落としていくかのような、何かが―嫉妬にも似た感情が胸をくすぶらせていくのを感じながら、僕はただ、彼の少しだけ尖った靴のつま先が木の床をそっと蹴るその姿を目を凝らすようにじっと眺める。



「ねえ、君」

 何度目かの夜、カウンターの隅に腰を下ろす彼を前に、どこかうわずった気持ちを抑えきれないままにそうっと僕は尋ねる。

「ああ――」

 こちらから会話を切り出すよりも前に、ゆるやかな会釈と共に、やわらかな言葉が紡がれていく。

「よく聞きに来てくれているよね?」

 その通りではあるのだけれど――どこか気まずい心地を隠せないままでいれば、促すような目配せが送られる。

「一杯くらい奢らせてもらっても構わない? 君の演奏の価値には到底適わないとは思うけれど」

「光栄だよ」

 どこか照れたように答えるその声に合わせて、微かに震わされた喉のあたりをじいっと眺める。

「この街には、いつくらいから?」

「一ヶ月と少し前かな? 残れるのもたぶん、そのくらいになる予定だけれど」

 突如あっけなく告げられる別れの予兆を前に、いっそ分かりやす過ぎるほどにこちらの表情は曇る。

「―絶えず旅を続けているんだ。元々、同じ場所に留まっているのが平気な質じゃあないみたいでね。父親がそうだったものだから、生きること自体がそうだと思っているのかもしれない」

「あなたのお父さんも、ピアノを?」

「アルトサックス吹きだよ」

 薄い唇をゆがめるように、にやりと笑いかけながら彼は答える。

「音楽家とか芸術家だとか――それ以外にも、ひとつの場所に留まって根を張って生きることも出来ないような生き方は絶対選ぶなって、じゅうじゅう念を押されていたんだけれどね」

「内心ではなってほしいからそう言ったんじゃないの?」

「……大いにあり得る」

 くすくすと喉の奥を転がせたような笑い方は、鈴を転がしたように軽やかだ。

「ねえ、聞いてみたいことがあったんだけれど」

 飴色のスツールの上を、つつ、と指先を滑らせながら僕は尋ねる。

「君が演奏を終えたあと――いつも、あたり一面を丁寧にぐるりと見渡してから、誰も居ない壁際に向けてお辞儀をしているよね?」

 指摘したその途端、どこかばつが悪そうにウールのジャケットを羽織った肩が微かに震わされる。

「そんなにおかしかった?」

「そんなこと」

 ぶんぶん、と首を横に振り、僕は答える。

「素敵なことだと思ったんだよ。君にしか見えていない客人が居るのなら、どんな人なのか教えてほしいなって」

 どこか躊躇うように、帽子のつばをぎゅっと指で押さえつけるようにしながら彼は答える。

「――僕にも見えたことがないって、そう言ったら?」

「え」

 戸惑いを隠せないままのこちらを前に、うっとりとまぶたを細めるようにしながら穏やかな言葉は続く。

「少しだけ、昔話をしてもいいかな。うんと古い、僕の大切な友だちの話なんだけれど」

 微かに濡れた瞳を揺らし、どこか遠い場所を夢見るかのような儚げな語り口でつま弾かれるのは、『いつか』の彼の前を通り過ぎていったささやかな物語だ。



「小学生の頃のことだよ。その当時から演奏旅行であちこちの町を転々としていた父に着いては出会いと別れを繰り返していた僕は、新しく籍を置くことになった片田舎の小学校ではどうにも自分の居場所を見つけられない、異端の存在だった。言葉遣いや立ち居振る舞いがすかしてるだの、男のくせにピアノなんて軟弱だ、だの―何かにつけては嫌みばかり言われては肩身の狭い思いをしていたんだ。それでもそんなこと、父親に言えるわけもなくってね。僕の安らげる唯一の場所は、手入れの行き届いたグランドピアノのある音楽室だった。休み時間の大半を僕はもっぱらそこで過ごした。学校の建物の外観も、教室の光景も、廊下や階段も―どれひとつ取ったってちっとも思い出せやしないのに、がらんどうの音楽室のくたびれた椅子に、歓声を送ってくれる満員の観客が押し寄せるところを想像した時のことも、日に焼けて色褪せた肖像画一枚一枚も、少し埃っぽくて日向の匂いがした分厚いビロードに金のブレードのついたカーテンのことも……なにもかも、憶えているんだ。いまでもありのまま、瞼の裏に描き出せるくらいにはね」

 行き場のない孤独を癒すかのように、どこにもいない観客に向けてピアノを奏でるそんな日々に登場したひとりめの観客―それが『彼』だったのだと、囁くような優しい口ぶりで彼は語り続ける。

「ねえ君、いつもピアノを弾いてるよね? 隣の自習室でいつも楽しみにしてたんだよって。まさか観客がいるだなんて思いもしなかった僕は拍手と共に現れた彼の姿を目にした瞬間、見る見るうちに耳まで熱くなるのを感じた。まぁ、肝心の彼にはうろたえている僕の無様な様子が見えていなかったのがまだしもの救いなんだけれど」

「……どういう意味?」

 微かに首を傾げるこちらを前に、グラスの中の液体にもどこかよく似た、微かに濡れた琥珀の瞳を揺らすようにしながら彼は答える。

「彼の瞳は僕と出会う数年前から、光を喪っていた」

 カラリ。溶け落ちる氷の音を響かせるグラスをくるりと指先で弄ぶようにしながら、たおやかな言葉が紡がれていくのにそうっと身を任せる。

「見えないのは確かに不便だけれど、悪いことばかりでもないんだよ。だって、目の前に広がる光景に囚われないで済むってことじゃない?」

 囁くようなその口ぶりは、舞台の上で台詞をそらんじて見せる役者のように滑らかでどこか優美だ。

「心の瞳だけをこらしていれば済むんだよ、それって神様からの贈り物みたいでしょって。うんと得意げに笑いながら彼は答えるんだ。後から聞いたことではあるけれど、彼もまた、自らに背負わされた境遇をかさによからぬからかいの標的になっていたらしいんだ。それでも、持ち前の明るさと前向きさでひとかけらも堪えたところなんて見せたことなんてなかった。はみ出しもの同士で馬があったのか、彼はいつしか、僕のいちばん最初の親友になった」

 ビロードの帽子に燦然と輝くカラフルな羽飾りを、弄ぶように指先でそっとなぞって見せる―照れ隠しか何かのように見えるそんな仕草と共に、彼は続ける。

「ある日彼に言われたんだ。君のピアノを聞きに来ている観客が僕以外にもいるんだよって。そんなこと言われたって、僕の瞳には彼以外は見えない、彼にだって、音楽室の様子は見えていないはずなのに。なんのことなんだか、いぶかしげに首を傾げる僕を前に、彼は続けるんだ」

 たおやかに瞳を伏せるようにしながら、やさしい言葉は続く。

「僕がひとたびピアノを奏でだすと、いつも決まって、彼の世界にはふたりの観客が現れる。ひとりは中肉中背でぱりっとしたスーツにアッシュブラウンの少しくせのある巻き毛、シルクハットをかぶって馬の飾りのついたステッキを手にした年の頃は三十代半ばに見える紳士、もうひとりは、金髪のボブカットに羽飾りのついた帽子、体にぴったり沿ったラインを描くドレス姿でハイヒールを履いた、連れの男と同世代に見える女優みたいな優美な姿の淑女だっていうんだ。彼らはいつしか音もなくその場に現れては彼からは少し離れた席に座って、じっと集中した様子で僕のピアノの音色に耳を傾ける。時折涙ぐんでいる男に、連れの女がハンドバッグから取り出したレースの縁飾りのついたハンカチを差し出してやることもよくあるそうだよ。一曲終わるごとに息を呑むようにしながら盛大な拍手をして、曲の合間にはなにやらひそひそおしゃべりをしていることもあるけれど、ひとたび演奏が始まればぐっと集中してうっとりした様子で耳を傾ける。時折瞳があうとしっと口元に指を当てながら会釈をしてくれることはあるけれど、彼らがこちらへと視線を向けることはほとんどない。ひとたびピアノの蓋を閉めてその日の演奏を終えれば、いつの間にか彼らもまた、ひっそりと姿を消している―」

「イマジナリーフレンド?」

「少しニュアンスが違う気がするんだけれど、そんなところかな」

 にこり、と口元を微かに緩ませたようなほほえみを浮かべながら、彼は答える。

「きょうは端の方に座っていたよ。きょうは喧嘩でもしていたのか、少し気まずそうにしていたけれど帰る時には笑顔になっていたよ、今日は靴を新調したらしくって、ぴかぴかの上等な革靴でステップを踏みならしながら登場したよ――ほんとうに見えていたのか、僕を楽しませるつもりのリップサービスだったのかは定かではないし、それでも構わなかった。三人の観客をどう楽しませるのか……僕の演奏家としてのはじまりがあの音楽室だったと、いまでもそう思っている」

うっとりと語って見せるまなざしの奥で、幾重にも重なり合うかのようなやわらかな追憶の色が滲む。

「――その後、彼とは?」

 不躾を承知にそう尋ねれば、過ぎ去った時間を懐かしむかのようにたおやかにまぶたを細めたまま、やわらかな言葉はこぼれ落ちる。

「次の町に移り住んだその後、一度か二度、葉書のやりとりをしたよ」

 いるはずもない誰かの姿を追い求めるかのように―いつも見せる、どこか寂しげで、それでいてうんと穏やかな色を宿したまなざしでぐるりと周囲を見渡すようにしながら、彼は答える。

「それから数十年の時が経ち、僕はあの頃の父と同じように方々を旅しては音を届けるようになった。それ以来いつも、いちばんはじめに僕の観客になってくれた三人の姿を探すくせが止められないままなんだ。ほら、ひとりは実体を持っているから簡単に見つけられるけれど、残りの二人を僕は目にしたことがないからね。もしいまも演奏を聞きに来てくれているのに無視しているだなんてことになったら失礼でしょう? だから演奏を終えるそのたび、四方八方をひとしきりぐるりと見渡してお辞儀をするようにしているんだ。もちろん、演奏仲間にはそんな話、笑われるだけだろうからいちいち話したことはないけれどね。『神様にお礼を言っているんだよ』なんて言ってはみたけれど、首を傾げられたままだったね」

 肩を揺らして笑うその姿に、いつしか、ちいさな音楽室でたった三人の観客のためだけにピアノを弾いていたという幼い演奏家の影が滲んで揺らいで見えることに僕は気づく。

「……どうして僕には、ほんとうのことを?」

「さぁ、どうしてだろう?」

 琥珀色の瞳を微かに滲ませ、くすくすと声を立てずに笑いながら彼は答える。

「もしかすれば、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれないね。だって、ひとりで抱えている過去なんて夢や幻とおなじでしょ? それでも、共有してくれる相手がひとりでも出来れば、宝箱の奥底にしまい込んでいたそんな儚い幻に輪郭をもたらすことが出来るような気がするよね」

「……光栄だよ」

 うつむいたまま、少しだけ熱くなった喉を潤すようにクラッシュアイスをそっと口に含み、瞳を合わせないようにと、上着の袖口から微かに覗いた少し骨ばって痩せた手首のあたりをちらちらと盗み見る。

「それでね君、少しだけ思い出したことがあったんだ。良ければ、これも何かの縁だと思って聞き流してほしいんだけれど―」

 淡いぬくもりを溶かしたかのようなおだやかな声に導かれるままに視線をふいにあげた、その瞬間のことだ。


 あ。

 思わずちいさくそう声をあげそうになった瞬間、女は艶やかな紅い紅をさした口元にそうっとひとさし指を当てて、いたずらめいたほほえみをこちらへと傾けて見せる。その傍らには、彼女をエスコートするように寄り添いながら、そっと会釈を送ってくれる紳士がいる。


 中肉中背の背格好に上等そうなウールのスーツ姿、シルクハットからこぼれる癖毛のアッシュブラウンの髪、手入れの行き届いたことの伝わる、馬の飾りのついた革張りのステッキ。傍らの女はと言えば、うんと高いハイヒールのおかげなのか、エスコート役の紳士よりも少し背が高い。

 暗がりでも艶めく光を放つ豊かなブロンドのボブカットにレース飾りとぴかぴかと光るブローチのついたトークンハット、滑らかな肢体を包み込む黒のドレス姿はそのままどこかの映画から抜け出した女優のような気品に満ちあふれている。

 そう、まるで、彼の話に出てきた『彼ら』そのままのような―

「どうしたの?」

「……いや」

 目をこらそうとしたその瞬間、視界の端にほんの僅か一瞬だけ現れたその姿はたちまちに立ち消えてしまっている。

「ねえ、それよりも君の話を聞かせてくれない?」

 興味深げに尋ねるこちらを前に、肩を竦めるようにしながら、ひそやかに彼は答える。

「すまないね、なんだか。どうしてだろう、君とこうしていると、心の奥がほどかれていくみたいだ」

「かいかぶりすぎじゃないかな? 僕はただの君の一ファンだよ?」

「演奏家なんて職業が成り立つのは、聴衆となってくれる人がいてくれるからだよ。誰にも耳を傾けてもらえないのなら、どんな美しい音色だってただの雑音に過ぎない」

 彼の奏でる唯一無二の芸術品としか言えない音色はずっと昔、三人の聴衆に届けるために羽ばたきだした道のその先で、いまもこうして輝いている―まるで、長い時間をかけて地上へと届く星の光のように。


「ピアノなんて止めてしまおうって、そう思ったことだって、ほんとうのことを言えば何度だってあるよ。でも、そのたびに踏みとどまったのは彼らがいてくれたからなんだ。止めてしまえば、彼らはどこで生きればいいんだろう? 彼の、それに僕にとっても大切な友達を裏切ったりなんてすれば、きっと一生後悔するだろうって」

「彼らがいなければ、僕がこうしてあなたのピアノに出会える可能性もなかったのかもしれないってこと?」

「……そうかも」

 グラスに隠された口元は見えないけれど、きっとやわらかに心を砕かせたかのような笑みを浮かべてくれているのであろうことが、少し細められた穏やかなまなざしが如実に伝えてくれる。

 秘密の宝物を差し出すかのようなそんなたおやかさは、僕の瞳の奥をなぜだか、微かにつんと熱く火照らせるのだ。

 ねえ君たち、どうして隠れてしまったの? 彼はいまでも、君たちの姿をこんなにも探しているんだよ。どうして僕の前にだけ、いたずらみたいに姿を現したんだい?

 独り言めいたそんなささやきを暗がりの闇にゆるやかに溶かしていけば、答える代わりのように、革靴とステッキ、ハイヒールのかかとが踏みならす小刻みなリズムがそうっと返される。(――ような、気がする)

 ほんの一瞬だけ瞼を閉じ、すっと息を呑むようにする。

 その瞬間、まなうらに写るのは、目にしたこともないはずの大人になった『彼』と、彼が見つけてくれたという観客ふたり、そこに並ぶ僕と―そして、そのたった四人のファンの為だけに、鍵盤の上を軽やかに舞い踊るようなやさしい音色を奏でる彼の姿だ。




「もし彼らに会えたとしたら、なにを話すの?」

「決まってるよ、そんなの」

 にっこりと得意げに笑いながら、彼は答える。

「ねえ、ずいぶん上手くなったでしょう? 君たちにとびっきりの演奏を聞いてもらう為に、きょうまで精進してきたんだからねって」

 微かに滲んだまなざしのその奥には、いつかの孤独な少年の面影がゆらりと音もなく揺れる。

「――次の町では」

 ちいさく息を吐き、僕は答える。

「次の町では、会えるといいのにね」

 答えるその代わりのように、彼はただ黙ったまま、ゆっくりとまぶたを細めてみせる。

 どこか遠い場所をまなざしながら口元をやわらかに持ち上げたその笑顔はいつも演奏を終えたその後、解き放たれたかのような様子でやわらかにつむがれるそれと何ひとつ変わりない、同じあたたかさを潜めているのだった。

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Small town talks 高梨來 @raixxx_3am

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