天使たちのシーン

「君は天使に会ったことがあるかい?」

 すっかり通い慣れたバーの片隅。壁際の特等席にそっともたれかかるようにしながら、彼は唐突にそう尋ねるのだった。




「あいにく、信心深い方では無くってね」

 苦笑い混じりにそう答える僕を前に、柔らかにまぶたを細めるようにしながら、彼は答える。

「いや、そういう意味ではないんだ。勿論、何かの宗教の勧誘でもない。誰でももしかしたら会ったことがあるはずの天使の話だよ」

「僕みたいな、生まれてこの方つきに見放されたような人間でも?」

 おおげさに首を傾げてみせるこちらを前に、得意げな口ぶりでの返答が投げかけられる。

「ああ。それに、もしかしたら君だってこれから幾らでも誰かの天使になれるのかもしれない。そういう話だよ」

「……興味深いね」

 僕の返答に気を良くしたのか、ブランデーグラスを片手に、こちらへとそっと身を乗り出すようにしながら言葉は続く。

「今から話すことは僕にとってはある種の真実だ。でも、君にとってもそっくり同じとは勿論限らない。それでも僕は、君がこのほら話みたいな話を最後まで聞いてくれたら少しは救われた気持ちにもなれるんじゃないかと思っている。そんな話だよ。それでも良ければ、すこしだけ君の時間を貰っても構わない?」

「ああ、勿論」

 にこりと微笑みながらそう答えれば、いかにも気を良くした、とでも言いたげにやわらかにほほ笑みながら、滑り出すような語り口で言葉は続く。

「たとえば幼い子どもの邪気の欠片もない微笑みを見た時、『天使の微笑みだ』なんて言うことがあるだろう? あれは本当に彼らに、天使が宿っているからこそ言える台詞なんだ。どうしてそんな風に言えるのなんて言えば、答えはひとつ。例えばあるところに、生きることにひどく投げやりになってもう死んでしまっても構わないと命を投げ捨てる覚悟をしていた若者がいたとする、そんな彼が自らの死に場所を探すように気まぐれに外に出た途中、ふいに公園で偶然すれ違った幼い子どもと視線があう。無邪気な微笑みの歓迎を受けたその途端に、こんな日に死ぬのはやめようと、彼はそう思いとどまる―もしそんな出来事があったのだとすれば、ひとりの若者を救うきっかけになったその瞬間、幼子は彼にとっての天使だったと言える」

「成程ね……」

 ゆるやかに息を吐き出すようにしたのち、僕は答える。

「いまの話を聞いて思い出したことがあるんだけれど、聞いてもらってもいい?」

「あぁ」

 あたたかなまなざしに促されるように、僕はそっと話を切り出す。

「僕の知人に、ある日、ひどく気持ちが塞ぎ込んでもういっそこのままホームに身を投げて死んでしまえたらどれだけ楽だろうかと思った男がいたんだ。『そんなバカげたことをしてたくさんの人に迷惑をかけて、どう償うつもりだ。』理性でどうにか食い止めようとしても、いちど目覚めた衝動はそう簡単に拭い去れるものではなかった。もうどうなったっても構わないと足を踏み出そうとした、その瞬間だった―彼の耳に飛び込んできたのは、ホームで電車を待っていたたくさんの子どもたちの割れんばかりの歓声だった。目を上げたその瞬間、ホームに今まさに滑り込もうとしてきているのは沢山の子どもたちを乗せたテレビで活躍するヒーローの絵柄に包まれたラッピング列車だった。その時、彼は思ったそうだよ。『ああ、自分は一体何をするつもりだったんだろう。これじゃあ子どもたちのヒーローを危うく殺人者に仕立てあげた挙句に、彼らの思い出のひと時をズタズタに引き裂く所だったじゃないか。こんな後先も考えられない身勝手な自分に、死ぬ資格なんてないんだ』って」

 時折小さく頷くようにしながら僕の話にひとしきり耳を傾けていた彼は、満足げにそっと微笑みながらこう答える。

「素晴らしい話だね」

「この場合の天使は電車とそれを楽しみにしていた子どもたちと、どちらになるんだろう?」

「そこはやっぱり、その電車に宿ったヒーローに軍配が上がるんじゃないかな」

 にこり、と穏やかに微笑みながら彼は続ける。

「まぁ、少し深刻なケースばかりになってしまったのは否めないよね。でも、決してそんなことだけじゃないんだよ。例えば仕事の前に立ち寄るコーヒースタンドの女の子に穏やかな笑顔で『いってらっしゃい』を言われたり、朝の散歩中に出会った犬を連れた老人に『おはよう』の挨拶をされたり。そんな些細なことで、なんだか少しだけ気分が晴れるなんてことはない? そんな些細な幸福の瞬間をもたらしてくれるのが天使の存在なんだよ。時折、『自分はもうツキからは完全に見放された、生きていてもいいことなんてひとつもありはしない』だなんて嘆く人がいるだろう? そんなことはないんだよ。ただ、彼らは日常に潜む天使の存在に気づいていないだけなんだ」

「そんなきみ自身だって、誰かにとっての天使になれるかもしれないのにって」

「そう、そういうこと」

 カラリ、とグラスの中の氷を傾ける音を立てながら、得意げな口ぶりで彼は答える。屈託のないその笑顔は、どこか年齢不詳な彼の存在感をより一層際立てているかのようにも見える。

「ひとつ尋ねてもいい?」

「あぁ」

 淡い琥珀色の瞳をじっと見つめながら、僕は尋ねる。

「君の今までの話を総括させてもらえば、天使っていうのは何か特別な存在ではなくって、人々の中に存在する概念のような物だってことになるよね? それなら、僕らが数多の絵画や神話の中で見聞きした天使の役目は一体何なのか、君には分かる?」

「……あくまでも、僕が耳にした話でよければ」

 ぱちり、と遠慮がちなまばたきをこぼしたのち、彼は答える。

「天使だなんて存在は本当はとても無力で、あくまでも人間たちの生活を天上からそっと見守ることくらいしか出来ないそうだよ。せいぜい出来ることがあるとすれば、ちょっとした悪戯程度だそうでね。例えばほら、この店を出て少し南に行くとゆるい坂道があるでしょう? そこを歩く女の子の買い物袋からオレンジをひとつ零して、転がったその先にいる男の子に拾わせるだとか」

「俗に言う『運命の悪戯』ってやつ?」

「そうそう」

 子どものように無邪気にほほえむ姿に、こちらまで心を温められるかのような心地を味わう。


 満足げに口元をゆるませるようにしながら、穏やかな言葉は続く。

「例えばこのバーに、ほんとうは心から思い合っているはずなのに、些細なすれ違いをきっかけに別れ話を切り出しにきたカップルがいるとするだろう? もしそこに居合わせた天使に出来ることがあるとすれば、そこで生演奏を披露するピアニストにアドリブで彼らの思い出の曲を演奏させることくらいなんだよ。その結果、彼らの心をほんの僅かに解きほぐすことくらいは出来るかもしれないけれど、だからと言って、凍てついた関係そのものを溶かすことは出来ないんだ。皮肉な話だとは思わないかい? 今この瞬間にだってきっと、世界中で『神様お願い、どうにか私を救って下さい』だなんて切実な祈りを捧げている人たちは沢山いるはずなのに、全知全能の神の使いであるところの彼らに出来ることと言ったら、せいぜいほんの一滴のきっかけを与えてやることくらいなんだ」

「……神様なんていない、世界は残酷だと世を儚む若者が増えるわけだ」

「そうそう君たちに都合のいい神様がいてたまるか、って返してやりたいところだね」

 皮肉めいたそんな台詞と共に浮かべられたうっすらとした微笑みを、僕は素直に心地よく受け止める。

 グラスをそっと傾けたまま、どこか遠い場所を夢見るかのようなまなざしを手向けるようにしながら、おだやかな言葉は続く。

「結局、人を動かせるのは人だけってことなんだよ。神なんて存在は、所詮は大元の創造主に過ぎないんだからね。よくよくみんな、運命だなんて好き勝手なことを言いたがるだろ? あれだって不確かな物だよ。世の中で起こりうる大抵の出来事は皆、人と人が複雑に絡み合ってぶつかり合って起こした波紋に過ぎないのに、人は何かと言えばそれらを神の筋書による運命だとか『神が与えたまえし試練だ!』なんて言いたがる。それもみんな、そうした方が楽だからだよ。そんな風に言ってひとまずは神様のせいにしてしまえば、責任なんてとらなくたって済むんだからね」

「そして、振る舞い次第で天使にも悪魔にもなれてしまうのが、そんな神様が地上に放った人間ってわけだ」

「さすがは神の作りあげた最高傑作だよね」

 答えながら、目を伏せたまま乾いた笑い声をあげる美しい横顔を、僕はグラス越しにそっと盗み見る。

「それにしても面白い男だね、君は」

 ゆるやかにほほ笑みかけるようにしながら、たおやかな言葉は続く。

「こんな茶番にここまで丁寧に付き合ってくれる物好きだなんて、君が初めてだ」

「君の話が魅力的だったからじゃないかな?」

「おまけに褒め上手ときたもんだ。そのスキルはもっと他の場面で使った方が有効だとは思うけれどね」

「ご忠告どうもありがとう」

 答える代わりのように、見えない帽子をひょいと持ち上げるようにして、綺麗な会釈が返される。

「ああ、もうこんな時間なんだね」

 ちらり、と壁時計の方を見つめながら彼は言う。

「すまないね、この後約束があったのを思い出したんだ。僕は今日はこれで失敬させてもらうことにするよ」

 君は、という問いかけを前に、手にしたグラスをそっと傾けながら僕は答える。

「もう少し呑みたい気分なんだ。どうぞお構いなく」

「……そう」

 ガタリ、と音を立てながらそっとその場を立ち上がろうとする彼を前に、僕は尋ねる。

「ねえ、最後に一言だけ構わない?」

「ああ」

 まなざしをそうっと傾けるようにしながら、僕は続ける。

「ここに、ひとりの男がいる。男は世の中の全てに絶望した挙句、衝動的に命を絶つことを決意した。どうせなら死ぬ前に、行きつけのあの店でボトルに僅かに残したままだったウィスキーを飲み干してしまおう。そう思いたち、顔なじみの酒場に行った彼はそこで偶然出会った男と他愛のない与太話に花を咲かせるそのうちに、当初の目的が何だったのかなんてことをさっぱり忘れてしまう。彼がそれに気づいたのは、相手をしてくれた男が酒場を去ろうとしたその時、ふたりで飲み干してしまったウィスキーの空瓶が目に入ったその瞬間だったとする。もしそんなことが地上のどこかで起こっていたのだとしたら―死ぬつもりだった男を地上に引き止める役割を果たした彼は、死に損なった男にとっての『その日の天使』だったのかもしれない。そんな風には思わない?」

「……奇跡みたいな話だね、まるで」

 溜息を漏らすかのように穏やかにそう答える彼を前に、僕は続ける。

「今この瞬間、この夜にも、きっとこの地上では沢山の小さな奇跡が起こっているんだ。恐らくその何割かは、無自覚な天使たちの気まぐれによってね。この世に生きる全ての人たちの悩みや苦しみが消え去ることなんてありはしない。それでも、彼らの身近にいるはずの天使たちのくれる小さな奇跡はきっと沢山あって、それに気づかないうちに救われている人たちは沢山いるはずなんだよ。そう思うだけで、なんだかワクワクしてこない?」

 こくり、と小さく頷くその仕草に、音もなく心がほどけて行くかのような安堵感を僕は覚える。こんな感情を抱いたのなんて、思えばいつ以来だろうか。

「君の神様によろしく頼むよ」

「ああ、こちらこそね」

 穏やかに瞼を細めるようにしながら答える彼を前に、僕は残り少なくなったグラスをそっと傾けながら、笑顔でそう返す。


 その時、彼に気づかれないようにそっと、しなやかなその足元に伸びる影を見た僕は、思い通りの答えに思わずにっこりとほほ笑む。

 一体このバーにいるうちの幾人が、それに気づいていただろうか。勿論、たとえ気付いたとしても見て見ぬふりを貫き通した優しい人ばかりだとそう信じてはいるけれど、ね。


 ひらりと軽く身を翻すその背からそっと、薄くやわらかな羽根がひとつ、舞い落ちるのを僕は見た。

 勿論、それは誰にも見つからないように拾ってしまったけれどね。

 この手帳の裏表紙にこうして挟んであるのがその時のそれだと言って、信じてくれる人は果たしてどのくらいいるんだろうか。


「要するに、彼は天使だったってこと?」

「そう、そして僕も。勿論君もね」

 目配せとともに答えれば、どこかさめたようすの口ぶりでの返答がかぶせられる。

「そんなこと言ったら、地上が天使だらけになっちゃうわ」

「それでいいんだよ。違いがあるとしたら、未だ背中に翼を隠し持ったままひっそりと人の世に紛れて暮らしているか、とうの昔にそんなことすら忘れてしまったのかのそれだけなんだから」

 からり。グラスの中の氷を揺らして微かな音を立てる僕を前に、どこか悪戯めいた笑みを微かに浮かべるようにしながら、彼女は答える。

「……ねえ、もしも。もしもの話よ。例えば、私の隠し持っている翼が漆黒の色だったとしたら、貴方はどうするわけ?」

「和平交渉でもはじめるんじゃないかな? 思想が違うからと言って無惨に跳ね除けたり、こちらの色に無理に染めたりはしたくないんだよね。日和見主義だなんて呆れられるかもしれないけど、僕はそうやって生きてきたし、これからだってそうするつもりだから」

 ぱちりと、と目配せを送るようにしながら答えれば、つややかな唇からは途端に、ぬるい吐息がそうっと吐き出される。

「……おかしなひと、ほんとうに」

 笑いながら、微かに揺れる肩越しに僕は、幻の翼がすらりとその姿を現すのを見つける。それが何色だったのは生憎、間接照明の淡い色に遮られてわからなかったけれどね。



 今日の天使よ、いつもありがとう。

 まるで呪文を唱えるかのように心の中だけでそっとそう呟きながら、僕は飲みかけのグラスを宙にかかげる。

 その時微かに耳に届いたカチリという音は君たちのうちの誰かの悪戯だったと思っているけれど、合っているかい?

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