Small town talks

高梨來

ある幸福な男の話

その昔、ある人から伝え聞いた話をしようと思う。あるひとりの男が、とても幸福な生涯を終えるまでの話だ。



 男は、ひとたびギターを爪弾き歌いだせば、たちまちにその場に居る誰をも惹きつけるかのような歌うたいの才能を持ち合わせていた。

 幾重にも重ねられた感情の色を潜めたかのような深みを帯びた色鮮やかな音色に、やわらかに響く歌声。

 楽器を手にしたのはいったい幾つの頃だったのか、人前で歌を歌おうと思ったのは――そんなことは、彼自身ですら覚えてはいない。

 まるで必然の出来事であるかのように、彼は自身がいつの間にか手にしていた神様に与えられた宝物を生業とすることで、日々を暮らしていた。

 神様はみなに平等に、生まれ落ちたその瞬間にそれぞれひとりひとりだけが得ることの出来る宝物を授けるのだと聞いたことがある。彼にとってはきっと、ギターを弾き、歌を歌うことがそのたったひとつの宝物だったことにほかならない。

 ――逆を言えば、彼はそれ以外の持ち物をてんで持ちあわせては居ない男だった。

 財産などろくになければ、帰りを待つ家族もいない。ひと時の逢瀬を楽しむ相手はいくらでもいたって、決まった恋人と呼べるような相手はついぞいなかった。それだけならまだしも、みながあたりまえのように持っているはずの、帰り着くためのすみかすら持ち合わせていなかった。


 いつの間にか流れ着いた酒場、名前も知らない誰かの部屋、時には街の外れの寂れた教会。

 さまざまな場所へと気まぐれに赴いては、唯一の相棒とも言えるギターを弾き、歌をうたう事でその日の酒代と眠る場所をどうにか手にいれる。口数は極端に少なく、彼の歌を聴いたことはあっても、喋る声を聞いた事はついぞ無いだなんて人間すらも多くいたほどだ。

 冬になれば北風から逃げるように南を目指し、夏になれば照りつける日差しを遮りながら北を目指す。

 話すように歌い、ギターを弾き、それ以外の事にはまるで興味がないとでも言いたげに、極端に自分のことを語ろうとはしない。

 まるでギターを弾き、歌をうたっているその間だけこの世界と繋がっているように見えた、と彼を知るものは皆そう語っていたのが印象的だ。

 そう、確かに彼の世界には歌をうたうこと以外は存在しないように見えたのだ。生きているのなら、この世界の上で共に過ごしているというのなら、そんなはずはありはしないのにだ。



「朝起きて、視界に飛び込んできた見慣れない天井を眺めて。いや、屋根があるならまだいい方だ、時には雲ひとつない青空が視界に飛び込んでくるようなそんな日々を過ごして―そんな繰り返しの中で、自分が今果たしてどこにいるのか、何者なのかすらもよくわからなくなるような感覚って分かるかい?」

 問いかけを前に、いやにおおげさに首を傾げて見せるようにしながら彼女は答える。

「あいにく、見飽きるくらいに同じ天井ばかり眺めているから」

「君は気づいていないかもしれないけれど、それはとても幸福な事だよ」

「ありがとう」

 艶やかな唇は、そっと弧を描くようにゆるやかに微笑む。


 ギターを弾いて歌をうたう、そのくらいしか興味もなければすることだって見つからない。だから彼は、毎夜歌をうたう事を許された場所を訪れ、日々を切り刻むようにうたう。

 眠る場所、ほんの少しの食べるもの、そして、自らの歌に耳を傾けてくれる僅かばかりの聴衆。

 それさえあればもう充分で、他には何もいらない。それが本心からのものだったのか、精一杯の虚勢のつもりだったのか、もう彼以外には真意は分からない。

 酷く孤独であやふやで、それでいて何にも縛られない気の遠くなるような自由に彩られたその日々はいつしか、彼を蝕むようになっていた。

 それでも、その切実さは彼の歌をより研ぎ澄まされた美しいものへと変え、耳を傾けるものたちをより一層魅了するようになっていったというのだから皮肉な話だ。

 いつしか心ごと覆い尽くしていた孤独の深さや鋭さこそが美しさの源になっていただなんて、なんて残酷な話だろう。



「それで、彼はどうなったの?」

 長い睫毛をしばたかせるようにしながらかけられる問いかけを前に、ぱちり、と控えめな目配せをしながら僕は尋ねる。

「本当に知りたい?」

「もう、勿体つけないでよ」

「オーケイオーケイ、すまないね」

 唇を尖らせてそう答える彼女を前に、なだめるようにそっと笑いかけながら、僕は答える。

「彼はある日、本当に突然にその命を絶つことになった。その姿を見つけたのは偶然散歩をしていた見ず知らずの老婦人だったそうだよ。持ち物らしい持ち物もろくに持たないまま、公園のベンチで眠るように息を引き取っていたらしくってね。傍らには首輪をしていない白い犬が寄り添っていたんだって。動物を飼っているだなんて話、それまで誰も聞いた事も無かったのにね。誰かが言った『天使だったのかもしれないね』なんて戯言もあながち間違いではないような気もするんだ。だってそう考えた方が素敵じゃない? 肉体が朽ち果て役目を終えるその時、彼の傍らには天使がそっと寄り添っていた。それだけで全てが超消しになるだなんて馬鹿な事は思いはしないけれど、人生の幕引きにはこれ以上無いほどの美しい結末だよね」

「彼はどうして死んでしまったの?」

「空っぽの胃の中を調べてみたら、大量の安定剤と睡眠導入剤とアルコールが検出されたらしいよ。外傷はほとんどなかったそうだよ。おおかた、生きることに飽きてしまっただなんてところだろうね」

「だからって、死んでしまうことなんてないのに」

 嘆くように囁く横顔の美しさに、僕は思わずぼうっと見とれる。

「ねえ、どうしてこんな悲しい話をするの?」

 拗ねたような口調でそう尋ねる彼女を前に、僕は答える。

「君はこれが悲しい話だと思うの?」

「だってそうじゃない。家族も友達も恋人も居なくて、最後は気が狂ってしまってたったひとりで」

「途方もなく自由で、途方もなく孤独で―その末に、自分らしいとしか言いようのない人生を全うして。それが出来る人間なんてそういないよね」

「でも……」

 口ごもる姿を前に、努めてにこやかに僕は答える。

「僕はそれに憧れるんだ、自分には到底選べない生き方だからね」

「それがどう見たってぶざまで不幸な生き方にしか見えなくても?」

「人の人生を第三者が幸福かそうじゃないか定義づけるだなんて、ひどく不毛な話だとは思わない? それを知っているのはきっと、彼自身と彼の天使だけだと思うね」

「天使、ね」

 琥珀色に輝くブランデーの注がれたグラスをそっと傾けながら、彼女は答える。

「貴方って、見かけによらずロマンチストなのね」

「君にはそう見えるみたいだね」

 涼やかに答えれば、きっぱりと強気な口ぶりでの返答がかぶせられる。

「嫌いじゃない、とだけ言っておくわ」

 微かに潤んだそのまなざしは、夕暮れ時の海のような静けさと美しさに満ち溢れている。

「ところで君を見込んで、ひとつ頼みたいことがあるんだけれど」

「なあに?」

 しなやかなワイングラスの脚へとそうっと絡めるようにされたほっそりとした指先をぼんやりと眺めながら、僕は答える。

「今夜は帰る場所がないから、一晩だけ僕に付き合ってくれないかなって」

「……もう」

 そっと顔を赤らめ、拗ねた子どものような表情を作りながら彼女は答える。

「初めからそのつもりだったのね?」

「さぁどうだろう? それは君に任せるよ。ただ、僕には君が今日の天使に見えたんだ」

「よく言うわね」

 微かに上気した頬をそっと緩ませながら、彼女はそろりと僕の肩へと身を寄せる。鼻先をくすぐるうっすらとした甘い香りと、程良い重みが火照った体に心地よく響く。

「良いけれど、ひとつだけ約束してくれる?」

「ああ」

 ひそやかなささやき声をひっそりと落としていくようにしながら、彼女は答える。

「私を退屈させないでいてくれること。それさえ約束してくれるのなら、一緒にいてあげたっていいわ」

 濡れた瞳の奥が、微かに揺らぐ。その奥にそっと灯るあたたかな光をじっと覗き込むようにしながら、僕は答える。

「じゃあ早速次の話をしようか。これは、僕が前世で出会ったある老婦人の話だよ」

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