わたしのついたうそ

りんこ

第1話



倦んでしまった自分をふいに諦めたくなった。そして勢いに任せ、土日を合わせて一週間の休暇をとったはいいが倫子は休暇初日からその休みを持て余していた。

急な旅行に行くような元気もない。

かといってワンルームの狭い自宅にいると気が滅入る。

会いたい友人もいない。そして結局、逡巡し、正月以来帰っていなかった実家に戻ることにした。

都心から電車で二時間。特急の止まらない小さな駅。

あたりには田んぼや畑、無人の野菜販売所などが点在し、空に鳥の羽音や鳴き声が響いている。

東京に比べて圧倒的に建物の数が少なく、空が高く、退屈でのどかなこの街を出たのは、大学に進学した年のことだ。もうあれから十年近くが経とうとしている。

駅からしばらく歩いていると、初夏の太陽の刺すような熱気が倫子の黒い頭髪に集中し、帽子をかぶってこなかったことを後悔した。

日陰を探すが、あたりは開放的な景色が広がっているだけだ。

小さなヒマワリが沢山、「いないいないばぁ」を、するかのように、少しだけ顔を開いていた。



「百合雄が帰ってきているのよ」と、昨日、電話で兄の帰還を母から聞いて驚いた。

二歳年上の百合雄は倫子の高校在学中、「ガンジス川で身を清めたい」と、身内も鼻白むような言葉を残し、家を出た。その後は何年もの間、音沙汰が無かった。

「ちょっと、色々あるから、倫子はびっくりするかもしれないけど」

電話口で母は話しにくそうに口ごもっていた。

駅から徒歩二十分の道のりを、ローンで買ったリモワの赤いカートをひきながら歩き、やっとのことで実家に辿りついた。

一軒家の白い壁は所々禿げてヒビ割れていて、母の植えた蔦が外の壁に絡まっている。

二十年前、父が会社を辞め、小さな洋食屋を開店させた際、せっかくだからと工事の人に家の壁も白く塗り替えてもらったのだが、その古くなった家の様相に自分も歳をとったのだと感じた。家の呼び鈴を鳴らすと中から階段を駆け降りる音がどたどたと聞こえドアが開いた。

兄の姿を目にした瞬間、母が口ごもった理由が、なんとなくわかった。

「倫子、久しぶりだな、マイシスター! 」

純朴で内に籠った青年だったはずの兄の頭にはアフロのようなパーマがかかっていて、声は陽気で髭が伸びていた、麻の葉っぱをモチーフしたような大きな半そでTシャツを着ていて、腕にはびしりと刺青が彫られている。

「へーい」と、ハイタッチを求められて、倫子は手をあげ、手のひらを兄と合わせた。

倫子があまり関わりたくない系の容貌だった。

兄じゃなければ、街で声をかけられたとしても完璧にシカトするようなタイプ。

一体、会っていなかった空白の期間に、百合雄になにがあったのだろうか。

「お前帰ってくるって聞いたから、部屋片付けておいたよ」

百合雄は、倫子のスーツケースを持ちあげ、玄関の棚からスリッパを出してくれた。

部屋の奥から、かなり大きな音量のレゲエミュージックが聞こえる。

ずん、ずん、と身体に響く音、茶色い木目の廊下を歩き、部屋の奥に進むと見知った居間に見知らぬ女性。

祖母の仏壇の横に、腹を大きく膨らませたその人は座っていた。

「倫子、こいつがおれの相方のハル、ハル、これが妹の倫子」

相方のハル。と、百合雄に紹介されたのは、色素が薄く、腹以外の身体の線は驚くほどに細く、垂れ目がちで黒目がちな整った顔立ちの綺麗な女性だった。

「こんにちは」

と、ハルは座りながらお辞儀をした。前にせりだした腹が苦しそうに見えた。

「こん、にちわ」

倫子も慌てて座り、同じ姿勢で挨拶をした。

「倫子ちゃん、顔が百合雄ちゃんに似てるね、うける」

好奇を含んだような眼差しを倫子に向けてハルが言った

「昔からよく言われるよな、それ」

と、百合雄が言って祖母の仏前のリンを鳴らす。チーンと高い音が響き、重低音のレゲエミュージックと融合していた。

スーツケースは百合雄が上の部屋まで運んでくれた。

百合雄とハルがいるからか正月に帰って来た時とは家の様子が違って思えた。

無事についたと母に連絡をすると、帰るのは夜中だから適当になにか食べなさいと言われて慌ただしく電話を切られた。

「ってかお兄ちゃん、いつ帰って来たの? インドは? 」

倫子が質問をなげかけると、その質問を待っていましたとばかりに百合雄は嬉々とした表情で喋り出した。

大きなお腹を抱えたハルはその横で座布団を丸め、頭に敷き、横になりながらテレビを見ている。

「いやさ、インド行ったんだけど、ガンジス川、結局入れなくてさ、あと、俺お腹弱いし、飯も合わないからさ、海外向いてないなって、すぐに気付いて、だからすぐ帰ってきたんだよ」

「帰って来て、どこ行ってたの? 」

「横浜」


「は? なんで横浜? 」

「いや、まぁ、なんとなく横浜に行ったら住み込みの従業員募集のチラシみつけて、んで、そのまま面接してもらってさ」

「店って」

「いや、ホストだよ、伊勢佐木町のホストクラブだったんだけどさ、でもやっぱり向いてなくてさ」

ホストと言われて倫子の頭に浮かんできた映像は、先週の日曜日の昼間に放映されていたドキュメンタリー番組だった。

ナンバーワンホストになって大金を得るという夢を描き、青森から上京した十八歳の新米ホストがタコ部屋のような雑多な部屋で暮らし、先輩ホストに怒鳴られ、泣きながらトイレ掃除をしている様子だった。

金髪頭にスーツを着た若い男の子が、母親から届いた「いつでも帰っておいで」という手紙を読みながら泣いている光景に倫子は、一体どうして容姿も人並み以下で人づきあいも下手そうな彼がホストになろうかと思ったのかを疑問に思いながら自分を客観視できないということがひどく哀れに思えた。

百合雄もあの男の子のように一攫千金を夢見たのであろうか。

「いや、ホストはすぐやめたんだよ、俺、酒弱いし、営業もうまくなくて、んで色々転々としてさ、まぁハルに子供が出来たって聞いて、堅気になろうって決めて」

カタギ・・・。

そうだった。その腕の彫り物は確かにカタギとは言い難い。

「その腕の刺青は、いつ彫ったの? 」

「え? これ? 刺青じゃなくて、タトゥ―だよ、先輩にいれた方が良いって言われて行ったんだけど、こっちは筋ぼりだけで、色いれてないんだよなぁ、色入れなきゃいけないんだけど、なんか途中で痛くて嫌になっちゃって」

痛くてやめたと聞き、相変わらず色々なことを成し遂げられない人だと思った。とにかく兄は会っていなかった長い年月、普通の道筋から外れた生活をしていたらしい。

「倫子は全然変わってないね、お前、ほんと小さいときから全然変わらないね」

そう、確かに百合雄の言う通りだ。背も低く痩せていて、おかっぱ頭で黒髪の自分の見た目は、小学校の頃からあまり変わっていないのだろう。

大学を卒業した後は都内にある中堅の広告代理店に就職した。

テレビドラマで観るような華やかな社会人生活を夢見ていたのに、倫子に待ち受けていたのは恐ろしく単調な毎日だった。

残業も多く仕事は忙しく会社以外での出会いなんて殆どなかった。

そんな中、田中に出会ったのは四年程前だ。

取引先の偉い人。そんな認識しかなかった田中だがある日突然、ご飯を食べに行かないかと誘われた。

「いつもうちのほうで無理言ってばかりだから、少しお礼でもさせてください」

申し訳なさそうに言った田中の誘いに乗ったのは、彼の醸し出す雰囲気に少なからず憧れを抱いていたからであった。

人形町にある和食の店に田中は連れて行ってくれた。

酒を酌み交わしながら、自分にはあまり友達がおらず、上京してからは、映画を観に行くのもショッピングに行くのも、なにをするのも常に一人だと話すと田中は、

「山形さんの、そういうところ、素敵だなぁ、僕も映画は一人で観に行くのが好きなんです」

と、言いながら顔をほころばせ人懐こい笑顔を見せた。

田中は倫子より十五歳も年上で中学生になる子供もいた。叶わぬ恋だとわかっていたのに、倫子はその笑顔に完全におちてしまった。

笑顔にときめいたのか、そういうところが素敵だと言われたからおちてしまったのかは定かではないが、とにかく倫子は田中に心を奪われた。

妻帯者。しかもかなり年上の田中を好きになってしまうなんて、どうかしていると、何度も自分の考えを制した。

不倫なんて先は無い、未来のある自分にそんなことはさせてはいけない。

そう自分に言い聞かせながらも、倫子は田中の漕ぐ船に乗り込み、彼に舵を任せるようになった。

船に乗りながら身体で感じる風は気持ちが良かった。今までに感じたことのない類の優しい時間を田中は与えてくれた。

普段、あまり一緒にいる事はできないかわりに田中は常に倫子を気遣ってくれた。二人だけで過ごす限られた時間は甘美で切なく、その代わりいつも新鮮で穏やかだった。


「なに? 倫子の会社、夏休みなの? 」

百合雄に聞かれ、倫子は「うん」と即答した。

初めから誰に聞かれてもそう答えるつもりでいた。

ヘタに正直に答えてを理由を詮索されるのが嫌だった。

「丁度良かったよ、俺らも丁度、三日前に帰って来て、倫子にも連絡しようと思ってたからさ」

百合雄の腕の刺青は確かによく見てみると藍色の線が入っているだけで色の入っていない箇所が目立つ。

ずんずんと、レゲエミュージックの重低音が響き、隣の家の犬が吠えている。

「お兄ちゃん、仕事は? 」

倫子が聞くとハルの大きな笑い声が聞こえた。

ハルの方に目を向けると、どうやらテレビを見て笑っているようだった。

「いや、ほんとは父ちゃんの手伝いしようと思ってたんだけど、人足りてるって言うから、せっかく後継ぐ気で帰ってきたのにさ、父ちゃんも頑固だよな」

なにをいまさら、と思った。

父は居場所の無かった兄の為に金を貯め、調理師の学校に行くことを勧めていたのに急にその資金を旅の資金に充てたいと言いだしたのは百合雄だった。

ひきこもりだった百合雄の「インドに行きたい」という突拍子もない申し出に、両親は戸惑っていた。

しかし久しぶりに自分の意見を主張し生きる意欲を見せた百合雄を父は信じたのだろう。

その結果、帰って来たのはホスト崩れで中途半端な彫り物をいれたレゲエメンもどきのチャラい男。しかも妊婦を連れているときた。

父や母の落胆は想像に容易い。

「赤ちゃん産むお金とかは、あるの?」

倫子が聞くと百合雄は、にかっと、黄色く変色した歯を見せ笑った。

「なんとかなるよ、ケセラセラ」

能天気な兄の言葉に嘆息を漏らしそうになるのをこらえていると、寝息が聞こえてきた。

テレビを見ていたハルが目を閉じ、薄い寝息を立てていた。


夕飯を百合雄たちと食べるのは気が進まず、倫子は二駅先にある父の経営している洋食屋に足を伸ばした。

洋食屋『ガーリック』は、夜遅くまで営業しているので、肉体労働者やタクシー運転手の客に重宝されているらしい。

ガラス張りの扉の向こう白いブラウスに黒いエプロンを纏ったふくよかな身体の母がせわしなく動き回っている。

倫子が店の扉を開けると母は少し困ったような嬉しそうな顔を倫子に向けた。

「ちょっと、そこ座ってて」と、カウンター席に座らされ厨房で作業をしている父の薄汚れたコックコートの後ろ姿に見入る。

父はもくもくとフライパンをふったりボウルに野菜をいれたり、ソースと野菜を合えたりしている。

『ガーリック』という店名のまんま、この店の売りは特製ニンニクソースを使ったオムライスやピラフ、ハンバーグなどだった。

客層は殆どが匂いをあまり気にしない男性だ。

煙草を吸い焼酎を飲みながら、つまみに洋食を食べている作業着姿の五人組が倫子に気付く。

「あれ、娘さん? 」

頬を赤くした男が話しかけてきた。

「こんにちは」

倫子がお辞儀をすると「あはは、やっぱり娘さんだ、変わってないなぁ、マスターそっくりだもんな顔」と、作業着の団体に笑われた。

慣れている。父や兄に似ていると言われるのは、この街に帰って来る度に言われ慣れている。

が、少しだけ胸が重くなる。

細い奥二重の目に、あまり高くない鼻。男だったら味のある顔の部類にはいるかもしれないが、女としてはまるきり自信の持てない顔。

それにくわえ、母の身長の低さを受け継ぎ、童顔でロリータ系と呼べば聞こえはいいが、はっきり言って、『美しさ』というふるいにかけられたら、はじめのほうに落ちていくような容姿。

「あれ?娘さんて、もしかして山形倫子? めちゃ久しぶりだな」

団体の中の一人、一番若く見える爽やかな顔立ちの男が倫子に話しかけた。

倫子は目を凝らすが、彼が誰だか思い出せない。

「おれおれ、うっちーだよ、内田」

うっちー、内田。言われて遠くにあった記憶の紐が少しずつ手繰り寄せられ、小学校の同級生で坊主頭に半ズボンを履いていた、うっちーこと内田の姿がぼんやりと脳裏によみがえる。

「え、うっちー? 」

内田は小学校の頃、クラスの人気者だった。誰もが知っているような有名な私立の進学校の中学部を受験し合格と共に都内に引っ越した。

なのにどうして、作業服を着た男達に交り、地元にいるのだろうか、一瞬頭が混乱した。

「山形、本当に変わってないな、昔のまんまだ」

内田も頬を赤らめている。きっと酔っているのだろう。久しぶりに会った小学校の同級生に気軽に話しかけてしまえるくらいに。

「倫子、何食べる? 」

内田たちの座るテーブルの向いにいた家族連れが帰り、母がカウンターに注文を聞きにきた。

「サイコロステーキピラフ」

と倫子が答えると、母が大きな声で「サイコロステーキピラフワンで」と父に呼びかけた。

父は返事をせず、作業を続けている。金属と金属が重なり合う音や、炎の柱が上がる音、脂の爆ぜる音が耳に届く。

母はフォークやスプーンを拭きながら大きな嘆息を漏らした。

「百合雄たちは、どう? 」

いつもはつらつとしていた母の口は歪み、顔は疲れているように見える。

「ピザ頼むって言ってたよ」

「倫子もビックリしたでしょ、百合雄はなんであんなにふうになっちゃったんだろうねぇ」

母は、搾り取られるような声で「ねぇ」の部分を伸ばしながら顔を横に振った。

父や母の子供たちに対してのスタンスを間違っていたとは思わない。

ぶっきらぼうで頑固だが、心根の優しい真面目な父はきっと浮気などもした事はないだろう。

母だってそうだ、健気にずっと父をサポートし続けてきた。

郊外だが一軒家を持ち、存続するのが難しいと言われている飲食店を二十年も続けている。

子供と真摯に向き合い間違った子育てをしていなかった筈なのに間違った道に進んでしまった子供が二人。

煙にまみれながらフォークを拭き袖で汗を拭く母の顔を見ながら申し訳ない気分になった。

「夏休み、いつまでいるの? 」

大皿に盛られたサイコロステーキピラフがカウンターに置かれた。

ニンニクのきつい薫りが食欲をそそる。脂でコーティングされた白米がつやつやと光っている。

倫子は匙でピラフを掬いながら、「一週間くらいかな」と答えた。

「じゃぁ、その間、赤ちゃん生まれてるかもね」

と、母が言い、それを聞いた瞬間、気管に米がつまり、むせそうになった。

確かに大きなお腹をしていたが、産まれる寸前という感じでは無かった。

ハルが痩せていたからそう見えただけか。

「ママさん、焼酎、もう一本いい?」

作業着の男たちが母に話しかけ、母は笑顔で「はーい」と答える。

焼酎の置かれた棚から母は黒霧島のボトルを取り出し、プラスチックでできたアイスペールに氷を注いでいた。

夜が深くなってくると、店は洋食屋というより、居酒屋に近くなる。

赤いチェックのテーブルクロスに、吸殻の溜まった灰皿はなんだか、ひどく不似合いに思えた。

サイコロステーキピラフを平らげ、倫子は勘定を置き、忙しそうな母には声をかけずに店を出た。

大皿のピラフを胃に収めたので、身体が少し重い。

電車で二駅だが、歩いてもいいかなと、そのまま歩みを進めていると、後ろから声が聞こえた。

「山形!おーい! 」

振り向くとそこには内田がいた。

薄紫色の内田の作業着には「内田運送」と黄色い刺繍が縫われている。

「なに? 帰るの? 家、双葉町だろ? 一緒に帰ろうぜ」

内田の身体からは燻製のような匂いがする。微かな酒の匂いが混じっているがニンニクの匂いはあまりしない。

困った。と、倫子は思ったが、内田は、やはり相当酔っているようだ。

懐かしい顔を見かけて気持ちが高揚しているのだろう。

歩きながら、内田は空を見上げた。

「夜は涼しいなぁ、そういえば、山形は東京に住んでるんだって? 」

内田の問いに倫子は「うん」と、頷く。

「俺はさ、最近東京からこっちに戻ってきたんだよ、山形は、夏休み? 」

「うん」

それ以上、内田の事情を深く聞くつもりはなかった。他人の深い話しを聞くと、足が絡みとられてしまいそうになる。

「なんか、山形が変わってなくて安心しちゃったよ、お前可愛いなぁ」

内田の重い腕が倫子の肩に圧し掛かってきた。

ほこりと燻製と汗と油の匂いの混ざったような匂いが鼻にかぶさる。

「ちょっと、重い」

と、言いながらも、可愛いと言われて少し気持ちが浮足立っていた。

内田の手を振り払おうとしたのに、倫子はそのまま内田に抱きかかえられ、持ち上げられてしまった。

「体重、軽いな、ちゃんと飯食ってんのか」

内田に抱きあげられ、困惑と嬉しさが交った気持ちが自分の中に湧いて出た事に驚いた。

いつのまにか内田は強く、倫子を抱きしめていた。

見上げた内田の顎には、太い髭がまだらに生えている。

下から内田の顔を見上げていたら、急に内田の唇が覆いかぶさった。

唇のすきまから、ねろりと舌が絡みこんでくる。自分の口から発せられるにんにくの臭いが気になったが、まぁいいか、と倫子は目を閉じた。

道を逸れ、雑木林に向い、地面に倒れこむようにして寝転び、そのまま、内田に身を任せた。

「俺さ、昔、山形のこと好きだったんだよ」と言いながら内田は、それが自分の一番魅力的な顔だと知っているように眦をさげ、唇を歪ませた笑みを浮かべた。肉体労働者の人がよくつけているような安物ベルトをカチャカチャと鳴らし、ズボンを脱ぎ、赤黒い照りのある性器をまだ充分に湿っていない倫子の洞へと、あてた。

挿入時、陰部にひきつるような痛みが走ったが、何度か性器が洞を往復しはじめると、しだいに痛みは和らいでいった。

内田のほうが女の人のような声をあげていて、行為の最中、倫子は目線をどこにむけていいのか分からずに目を閉じた。

「いっちゃう、うっ」と、内田は高い声をだし、果てるときに倫子の服の裾をまくった。

「うっ」という声とともに目を開けると、外れてしまったホースから水が飛び散るようにして、白濁した精液が倫子の腹や腕に飛び散った。

「やっべ、ティッシュなかったわ、ごめんな」

と、言いながら内田は自分の作業着で倫子の腹を拭いた。

寝転んでいた倫子の目の中には東京では見ることのできなかった懐かしい星空が広がっている。

しばらく、ほんの十分くらいだっただろうか、内田も共に寝転び、二人で空を見た。

「山形さ、連絡先教えてよ」

ああそうか、連絡先すら知らなかったのだ、と倫子は言われて気付いた。

「うん」

「昌也、覚えてる? 昌也が、いろり通りで居酒屋やってるんだけどさ、しょちゅうみんなで集まるんだよ、明日多分行くからさ、山形もおいでよ」

「うん」

内田の話しを聞きながら倫子は、ひりひりした陰部の溝に指を沿わせた。

自分の指は冷たくて、熱を持った襞に心地よかった。


帰ると風呂から出たばかりのハルが大きなお腹にクリームを塗っていた。

「お帰り」

「ただいま、あれ?お兄ちゃんは?」

「寝てるよ、百合雄ちゃんは、ちょっと飲んだらすぐに寝ちゃうんだよね」

食べ終わったピザの箱とビールの缶が乱雑に台所に置いてある。

二階の兄の部屋を除くと、月あかりの差し込む暗い青白い部屋の中、緑色のTシャツを着て寝ている百合雄の後ろ姿があった。

暖色の灯かりに照らされた居間に降りると、ハルがテレビを見ながらストレッチをしている。

「倫子ちゃんてさ、東京のどこらへん住んでるの? 」

「五反田のあたりだよ」

ふぅんと、ハルが身体を捻じ曲げながら相槌を打つ。

「あそこらへん、家賃高くない? 」

「会社の寮だからそんなでも」

倫子は冷蔵庫から、紙パックのオレンジジュースを取り出し、コップに注いだ。

「倫子ちゃんさ、わたし多分同い年だよ」

「ああ、そうなんだ、タメかぁ」

さほど興味はなかったが、一応同調した。オレンジジュースを飲んで、やっと、さっきの出来事が輪郭をともなって倫子の中に出現した。

田中以外の男とセックスをしたのは、初めてのことだった。

「わたしはさ、実家、九州のほうなんだよ、全然帰ってないけどさぁ」

気を使ってくれているのか、ハルは昼間会った時よりも饒舌に自分のことを喋った。

「そうなんだ」

 倫子は台所に立ったまま、相槌をうつ。身体はここにあれど思考は定まっていない、下腹部にまだ、内田の陰部の感触が残っているような気がした。

「百合雄ちゃんてさ、ほんと、お人よしだよね、この子さ、百合雄ちゃんの子供じゃないんだよ」

「え?」

倫子はハルの発した言葉を理解できずに、台所から居間に歩を進めた。

大きなお腹のハルが上体を反らし、倫子を見ている。

「この子ね、実は百合雄ちゃんの子供じゃないの、あ、でもこれ、ママさんとかパパさんには内緒ね」

ハルはお腹を擦りながら、照れたような笑みを浮かべ言った。

ハルの言葉を受け、口の中がネバついているような感じがした。

倫子はニンニクと、内田の唾液、そしてオレンジジュースがまじり合った唾液を呑み込み、ハルに対し張り付けたような笑顔を向け、「へぇ、そうなんだ」と平静を装った。

居間を出て、二階にある百合雄の部屋に駆けあがり、肩をゆする。

「お兄ちゃん、起きて」

百合雄は半分目を開け、ロバが草をついばむときのように口を歪ませて寝がえりを打った。

「なんだよぉ、倫子か」

「なんだよじゃないよ、ハルさんのお腹の子って誰の子なの」

怒りに似たような感情が自分の中で沸騰していた。

「え? ハル、そんなこと言ったのか」

「どういうこと? なんで自分の子供じゃないのに」

「あぁ、まぁ、困ってたからさ、俺の子供でいいんじゃないの? って」

はぁ?と、倫子は明らかに侮蔑を含んだ声を荒げた。

「なにそれ? あったまおかしいんじゃないの?」

「もしかしてあいつ店のことも喋った? いやぁ、まじかよ」

「え? なに? 店って」

百合雄は、やばいと、言いながら手で口をふさいだあと、起きあがり、傍にあった灰皿を引き寄せ煙草を咥えた。

「いや、実はさ、倫子にはぶっちゃけるけど、ホストのあとさ、風俗でボーイやってたんだよ」

風俗と聞き、倫子は身体の毛が逆立って行くような感じがして口をつぐんだ。

「それ、言わないでおこうって話し合わせてたんだけどなぁ、妊娠中は女性ホルモンがあれだから情緒不安定になったんだなぁ」

ハルは、店のことなんか言っていなかったのに、なにをこの人は先走ってしまっているのだろうと思いながら倫子は百合雄から目を反らした。

しばらくの沈黙の後、顔をあげると百合雄は煙草の煙をゆっくりと鼻と口の両方から吐き出しながら遠い目をしていた。

「お兄ちゃん、色々、意味分かんないよ、とりあえず最初から全部説明してくんないと、お母さん達には? どこまでが内緒なの? 」

「まぁ、ほとんどが内緒、でもちゃんと働いて、ハルの面倒も子供の面倒見るつもりだよ」

眩暈を起こしそうになった。風俗で働いていたような女を嫁にして、自分の子供ではない子供を育てるだなんて。

「変だよ、そんなの」

倫子が言うと、百合雄は寂しげな笑いを浮かべた。

「確かに、倫子には変だって思われるかもな」

月あかりに照らされ、理解しがたい言葉を発するアフロヘアの兄はまるで言語の通じない異なる国の住人のように見えた。


翌日、内田からメールが来ていた。

『今日、六時半にいろり通りの「昌」に集合ね、道わかんなかったら一緒にいく?』

 倫子は、そうしてくれるとありがたいという趣旨のメールを返信した。

父と母は、夜遅くに帰って来て、朝も仕込みや仕入れの為に早く出かけてしまう。

ハルと百合雄はまだ寝ていて、倫子は自分のために簡単な朝食を作った。

昨夜食べたニンニクの匂いが毛孔から発せられているような気がして、何度も腕の匂いを嗅いだ。

トーストをかじりながらスマホに指を滑らせていたら、スマホが震え、着信の名前が表示された。

『田中さん』

画面の中、輪郭しかもたない灰色の人間がこちらをみている。

なんども震えを手のひらに感じながら、その震動をまるで人ごとのように静観し、止むのを待った。

あんな別れ方しなければよかったなと、バターの染み込んだトーストをかじりながら、ぼんやりと考える。

考えた途端に滲むような痛みが胸の中に出現した。忘れたいのに水に浸けた瞬間、痛いのを思い出してしまう擦り傷の様な痛み。

忘れてしまおうと思って帰って来たのに、田中の片鱗に少しでも触れてしまえばまだ、かさぶたにもなっていない傷口の表面に倦みが重なる。

テレビを点けると、朝のワイドショーが三十二インチの画面に映し出された。

『夫婦になって良かったことはなんですか?』

朗らかな夫婦のイラストと共にそのテーマについて話すコメンテーター。

銀座の街並を歩く夫婦にインタビューをするリポーター。

『やっぱり、一緒に乗り越えてくれる相手がいるってことですかね』

六十二歳の夫婦。

『子供の成長を一緒に見届ける相手がいてくれたってことですね』

五十歳と四十八歳の夫婦。

『なんだかんだいっても一番の理解者で、同志だと思ってます』

六十五歳、五十八歳の夫婦。

幸せそうに話す夫婦の姿をみて、倫子は自分の目の奥が透明になっていくような感じがした。

もし、田中夫妻がこの画面に映っていたら、彼らはなんて言うのだろう。

きっと同じ様なことを言うのだ。

愛している、倫子ちゃんとずっと一緒にいたいと発した器官である同じ口から、『妻と子供の存在がなによりの宝です』なんて、言ってのけるのだろう。

「おはよ」

目を擦りながらパジャマ姿のハルが倫子の向かいに座った。

「何食べてんの? 」

と聞かれ、トースト、と答えると「ハルも食べたいな」と、甘えた目線を投げかけられた。

「チーズのっける? 」

倫子が聞くと、ハルは目尻を下げながら「うん! 」と元気のいい返事をした。

温めた牛乳とチーズトーストをハルに作った。

トーストをかじると、溶けたチーズが、よよよん。と伸び、ハルは美味しそうにそれを平らげ、手についたパンくずを口で舐めた。

「百合雄ちゃんさ、前の仕事のこと言ったんだって? 」

「え? 」

「風俗」

ハルの口からはっきりと風俗という言葉が出てきて、瞬間、目の前にいるお腹の大きなハルが卑猥でなまめかしい引力を持っている人間に見えた。

「うん」

「軽蔑するよね? 」

倫子は言葉に詰まった。

仏壇の中に鎮座している写真の中、祖母が笑っている。

「軽蔑っていうか、そういうの、正直言ってあんまり理解できない」

倫子は、冷めてしまったパンの耳をかじりながら言った。

冷めたパンはボソボソとしていて喉が渇く。

「わかるよ、倫子ちゃんの気持ちは、すごいわかる」

ハルは大きく頷いた。

「むしろ、昔のわたしが倫子ちゃんの立場だったら、もっと嫌悪感まるだしにしてると思う」

風俗嬢だったハル本人に、そんな風に言われて返答に困った。

「でも、こうやってさ、ご飯とか作ってくれてさ、ありがとね」

色素の薄いハルは綺麗だ、たとえば東京ですれ違っていたとしたら、その姿に目を奪われていただろう。

「お腹の子どもの父親って、誰なの? 」

聞くとハルは少しだけ口角をあげて笑みを浮かべた。

「それは、内緒」

ハルはお腹だけが大きく、白く透き通った肌に華奢で細い腕は白い鳥をイメージさせた。

近づいていったらはるか遠くに飛んでいってしまうような、そんな幻みたいな鳥。


昼間はだらだらと過ごした。近所の区役所に併設する図書館で時間をつぶし、内田との約束の時間を待った。

図書館の横にあった『子ども文化センター』は取り壊されたのか、更地になっていた。

確かにそこにあったものが無くなっているその光景はなんだかひどく寂しいものに見えた。

夕方、内田から電話がかかって来て、倫子の家の最寄りの駅で待ち合わせることにした。

内田はラフな紺色のシャツにベージュのハーフパンツという私服を着てきて、作業服のときよりもずっと格好良い。

日に焼けているサーファーのような印象だ。

電車に乗り込む時、内田が倫子の手を握って引っ張った。

「山形、ちっこいからなんか電車の隙間はさまれそうで心配」

そんな風に言って笑った内田の目尻には細かい皺が沢山ある。

同い年だけれども、やはり日に焼けると皺が多くなるのかと考えながら内田の顔にじっと見入った。

「なに? どした? 」

田中よりも背が高く、がっちりとした体躯の内田。

「ううん、なんでもない」

電車の窓には夕景が広がる、もうすぐ本格的な夏だからか日が長い。

遠くに広がる、水彩画の赤を含んだ景色の中に、大きな光を放つ夕陽が沈んで行った。


いろり通りにある居酒屋『昌』の座敷で、懐かしい面々がすでに杯を重ねていた。

「お! まじかよ、山形久しぶりだなぁ! 」

店のマスターである昌也が、中学時代の面影を残しながらカウンターで串を焼いている。

総勢十人程。まだ小さな子供を連れてきている女子もいた。内田以外は中学でも一緒だった仲間だった。

「倫子ちゃん、久しぶりだね」

子連れの女子は、中学の頃、倫子とおなじくらい地味だったはずの女の子だった。

カラコンやつけまつげを装着しているので見た目はギャルのようだが、どこかあかぬけていない。

倫子の前にも生中が運ばれてきた。グラスを持ちあげ皆と乾杯をする。

すでに顔を赤らめた馴れ馴れしい男子達が質問を投げかけてきた。

「山形ってさ、東京住んでるんでしょ? 」

「なに? こっち、なんか用事で帰って来たの? 」

皆一様に日に焼けている。薄着で筋肉質なその姿はカブトムシなどの昆虫を思い起こさせる。

「てかさ、山形ん家の兄ちゃんも帰って来てんべ? すげぇ綺麗な奥さんつれてるっしょ? 」

まじでー?と、大きな声が湧きあがる。

「山形の兄貴ってあの人でしょ? あの霊能力事件の」

誰かが放ったその言葉に、倫子の臓腑が少し冷たくなったが、倫子は努めて明るい声で答えた。

「懐かしいなぁ、あれ、ある意味、事件になったもんね」

倫子の反応に、ぎゃははと、笑い声をあげる男子達。

「てかさ、倫子ちゃん、ねぇ、やっぱり東京は芸能人とか普通にいるの? 」

女子のその問いに話しが脇道に逸れてくれて内心ほっとした。

「いや、あんまり、普段は見ないけど、仕事ではたまに見るよ」

この間イベントに出演してもらったアイドルの男の子の話をすると女子が嬌声をあげ、その話題にくいついてきた。

良かったと、倫子はひくついた頬の筋肉を撫でた。幸いなことに兄の話題はそこで止まってくれた。


百合雄がおかしな言動をするようになったのは、倫子が小学四年で、百合雄が六年生の頃だった。

ある日突然、「霊が見えるんだ」と、言い出した。

おばけではなく、「霊」と発音したことで、言われた倫子の目に百合雄自身が青白く見えた。

可愛がってくれていた祖母が亡くなり、両親が店を始めたばかりの頃だった。

百合雄には霊が見えるらしいぞ。

そんな噂が、子供たちの間ではたちまちに広まった。

百合雄は放課後、体育用具室のほこりっぽいマットの上に座り、オーラや守護霊を見てほしいと言う同級生に霊視のまねごとをしたりしていた。

飼い犬を事故で亡くして辛いと嘆く同級生の女の子の手を握り、百合雄は震え、いきなり犬の鳴き声を発したりしていた。

その声があまりにも亡くなった飼い犬にそっくりだったと大袈裟に女の子がふれまわり、百合雄の霊視を皆が信じるようになった。

そして、百合雄の行動はエスカレートしていった。

ある日の休み時間、クラスメイトに言われて窓の外を見ると、百合雄が四つん這いで校庭を走りまわっていた。

「百合雄に狐がのり移ったぞ! 」と、叫びながら、五円玉に糸をつけた六年生達は、一丸となって百合雄を救おうとする熱気に包まれていた。まるで運動会の騎馬戦の時のような雰囲気が、砂ぼこりのまきあがる校庭からみてとれた。

しかし、自分の兄が狐につかれて校庭を走りまわっているその光景は、倫子にとって異常だった。

「山形の兄ちゃん、狐にとりつかれてるらしいぞ! 」

と、声変りのしていない男子がふざけた口調で言って、四年生の教室では笑いが起こった。

誰がそれを言ったのかは思い出せないが、言われたときの、酷く恥ずかしく気不味い想いだけが胸に残っている。

霊感少年百合雄は時の人となったが、百合雄ブームは突然に去った。

「百合雄のあれってさ、ちょっとおかしいよ、嘘じゃない?」

誰かが発したその一言に皆が、それこそ、憑きものが落ちたように正気に戻った。

百合雄自身も嘘を吐き、演じ続けることに疲れていたのかもしれない。

問い詰められた途端に、百合雄は「この何カ月かの記憶が抜け落ちている」と、記憶喪失の男児を装った。今度は嘘吐きだと罵られるようになり、百合雄はそのうち、登校拒否をするようになった。


「てかさ、東京ってそんな良い? 」

と、男子が少し卑屈でありながら羨望を含んだ声で内田に話しかける。

「いや、でも地元の方が落ちつくよ、東京まで行かなくても事足りちゃうし」

「だべだべ? みんないるしさ、なんたって俺らは昔からの仲間だからな」

いぇーい! と、赤黒い顔の男子が足元をふらつかせながら倫子のグラスに自分のジョッキを重ね、少しビールがこぼれた。

「でもさ、うっちーの奥さんもさ、やっぱり東京の人だから綺麗だもんね! 」

 倫子と少し離れていた所に座っていた女子が倫子や内田に聞こえるような大きな声で叫んだ。

奥さんいるのか。

と、倫子は、頬を赤らめて笑っている内田の顔に目線を送った。

彼は、特に倫子との間には、なにもなかったかのようにえだまめをつまみ微笑みを浮かべている。

「今、里帰り中だっけ? 二人目は男の子? 」

次々に投げかけられる内田への問いから明らかになる現実。

そうか、だからか。

頭の隅でパチンと音が鳴って、何かが割れたような気がした。その感触はゆっくりとの脳髄から降りてきて、倫子はそれを、ビールの泡と一緒に飲み込んだ。

地元飲みは、皆、上機嫌のまま、何人かはそのままカラオケへと流れていき、何人かは自転車で帰っていった。

電車で来ていたのは、内田と倫子だけだった。

薄暗い電灯の下、駅に向かって歩く道。

「山形さ」

倫子が歩きながら俯いて地面を見ていると、内田が倫子の手をとり、指に編みもの棒をからませるようにして握った。

「このまま、帰る? 」

内田の手は温かく、倫子は、内田の指が手のひらを沿う感触に何も言えなくなった。

「ホテル行かない? 」

と、顔を覗きこまれて、頷いてしまった。

どうせ帰ってすることも無い。内田は本気では無い。奥さんがいる、子供がいる。

そっちのほうが気楽でいいではないか、と己に言い聞かせる。

二度目の交わり。淫靡な照明に照らされた白かピンクなのかわからない色の、消毒液の匂いの香るシーツに絡まりながら倫子は内田を受け入れた。

昨日はわからなかった内田の肉体の細部に目を凝らす事ができた。

「舐めて」と言われて、彼の下にひざまずき、歯をたてないようにそっと、赤黒い性器を口に含んだ。

口の中で、内田の腰の動きに合わせ出し入れされる性器は、田中のそれよりも、やや細い気がした。

挿入してすぐに内田は果てた。寝転んだ倫子の胸元まで精液は噴射された。

ラブホテルの有線はJポップで、若い女の子の歌手が愛の歌を歌っている。

「山形って、彼氏いるの? 」

セックスをしたあとに変な質問だと倫子は思いながら、「別れたばかり」と、答えた。

「へぇ、なんで? 」

腕を自分の頭の下に置いている内田の脇から飛び出している毛は慟猛な獣のような雰囲気がした。

「なんでだろう」

答えながらラブホテルの天井に目を向けた。

ピンク色の空、蛍光の星のシールが所々に光る安っぽい天井。

田中と会うのはいつもシティホテルか倫子の部屋だった。田舎の安いラブホテルには初めて入った。

「そいつのことまだ好き?」

内田の獰猛な脇毛は、内田がこちらを向くとともに姿を隠した。

「うん、好きだよ」

「なんだそれ、妬けるなぁ」

言いながら内田は倫子の身体をまさぐり、唇を重ねてきた。

倫子はその舌を受け入れながら、もう内田に会う事はないのだろうと思った。

二度目の射精を終えたあと、眠ってしまった内田を置いて倫子はホテルを出た。

タクシーを捕まえようと道でしばらく佇んでいたが東京のように頻繁にタクシーが通る気配は無く、倫子は人気のあまり無い道路を歩いた。

空を見上げる。

いつもより月が大きく見えた。

携帯のカメラを月にかざして写真を撮ったが、そこに映し出されていたのは、街灯にも見えるぼんやりとした灯かりだった。

歩きながら、田中のことを想った。

彼はどちらかというと華奢で内田のように毛深くも無かった。

田中の身体は内田よりもよっぽど倫子に馴染んだ。

色も白く年齢のわりに皮膚もたるんでおらす髭も薄かった。

もしかしたら男性ホルモンが少なかったせいかと、他の男と比べてみて初めてわかった。


「子どもができたの」

と、田中に言ったときの彼の顔を思い出す。驚きと悲しみがないまぜになったような表情をしていた。

四年に及ぶ不倫に疲れていたという言葉は、いまさらいいわけにもならないかもしれない。しかしかろうじて自分を許せるとしたらそんな理由をこじつけるしかない。

嘘だった。子どもなんかできていなかった。

欲が出てきていたのだ。たまに一緒にいるだけで良い。そう思う事は損なのだと、日常に氾濫する「不倫」というカテゴリーの情報からついそんなことを考えてしまっていた。

大きな窓から日が差し込んでいた。倫子の会社のあるビルの中、二十五階のテナントに入っている外資系のコーヒーショップ。

倫子の言葉を一緒に飲み込むようにして田中はコーヒーを啜り言った。

「そうか、相手は? ちゃんとしてる人? 」

予想もしていなかった田中の返答に、顔が熱くなった。

「なにそれ、ひどい」

倫子が憤怒を露わにすると田中は頭を掻いた。

「いや、ごめん、少し動揺してしまって、いや、自分にそんなこと言う資格は無いんだけど」

「ねぇ、どうしたらいい?」

妻と別れるから一緒になろう。

その言葉を聞けたら充分だった。本当にそんなことをするつもりはないし、実際子供はできていない。でも言葉だけでもいい。田中の口から欲しかった。

「どうしたらって、倫子ちゃんは、その人のことが好きなの? 」

田中の表情に逃げは見当たらない、ただ、困った顔をしていた。

道で摘んできた花を差し出した相手に、なんてひどいことをするんだ花が可哀想だと怒られたときの子供のような。

「なんでそんなこと言うの? わたしは田中さんの意見が聞きたいの」

コーヒーショップのレジには夏の新商品、いちごのフラッペ風の飲み物を買い求める人達が列をなしている。

「僕に、なにかを言う資格はないよね」

喉の辺りが膨張しているような苦しさに見舞われ倫子は口をつぐんだ。

「田中さんの子供だよ? 」

自分でも、せいいっぱい悲壮感の漂う顔をして言ったと思う。

眉を八の字に曲げて、涙を目に溜め、自殺志願者を説得するような顔つきを作って向けた。

だからこそ、その後の田中の告白に居たたまれなくなって、その場を逃げ出してしまったのだ。

「倫子ちゃん、僕には、もう、精子が無いんだ」

田中は言った。倫子は絶句し、話しの途中で衝動的に席を立った、大きな窓から降り注ぐ西日を背中に受け倫子は恥を抑え込むのに精いっぱいだった。

「倫子ちゃん」

田中の声がこだまのように響いて聞こえた。

視界が揺らいだ、振り向きたくなかった。そのまま、速足で店を出た。

エレベーターに乗った途端に、つかえていた息が抜けた。抜けたあと、なぜだか、あの日、倫子に『霊が見える』と言っていた、青白い兄の姿を一瞬だけ思い出した。


結局、タクシーに乗らずに家まで歩いた。

「ただいま」

ドアを開けると両親はまだ帰っておらずハルは居間でいびきをかいて寝ていた。百合雄は台所に立っている。

「あ、倫子、余ったチャーハン食べるか?」

そういえば飲んでいただけであまり食べていなかったなと倫子は腹に手をあてた。

「うん」と返事をし居間に座ると、みじんぎりにされたピーマンやにんじんピンク色のハムや赤いパプリカ。鮮やかな具材に彩られたチャーハンが倫子の前に供された。

「沢山作ったから、ちょうど良かった、特製らっきょうチャーハンだぞ」

百合雄の作ったチャーハンは、予想に反して、大層美味しかった。

かりかりとしたらっきょうの歯ごたえが、また良かった。

倫子は、かきこむようにしてチャーハンを平らげた。

セックスもしたし、歩いたし、腹が減っていたのだと満たされてから気付く。

百合雄は、倫子の空になった皿を台所に持って行き、洗ってくれた。

 きゅっと、蛇口をひねった音がして水の流れる音が響いた。

寝ているハルの前にあるテレビからは、お笑いの番組が映し出されている。

テレビをみているうちに、洗いものをしているアフロ姿の兄がいったい誰なのか、よくわからなくなってきた。

ひきこもりと言っても部屋にひきこもるのではなく家から出ないだけで、家族とは普通に話せる人だったが、風俗で働いていた女の人を伴侶に迎えられるような度量は持ち合わせていなかったはずだ。

「横浜でさぁ、どんな生活してたの?」

倫子は大きな声で百合雄に問うた。

「うん? なにー? 」

テレビの中の笑い声と流水音、そして換気扇のまわる音に自分の声がかき消されているのかもしれない。

「お兄ちゃん、なんでそんなに変わっちゃったの?」

「なに? 聞こえなーい? 」

百合雄はこちらを振り向かないで洗いものをしている。

急いで洗いものを終わらせて、話しを聞いてくれようとしているのかもしれない。手を動かすピッチが速い。

キュッと、今度は蛇口の閉まる音がした、百合雄は換気扇の紐をひいて止めた。

急に部屋が静かになった。

沢山の笑い声が薄い画面の中から響いている。

「ごめんな、聞こえなかったわ、どした? 」

百合雄が自分の服の裾で手を拭いて裾の色が変わっていた。

「いや、なんか、やっぱいいや」

「なんだよ、気になるから言えよ」

まだ少し湿った手で百合雄に肩を抱かれた。

煙草の匂いと、らっきょうと汗の匂いが混じった百合雄のTシャツは少し臭い。

寝ていたハルが急に「ヨコハマ~」と歌を口づさみだした。

「なんでそんなに変わっちゃったの? って聞いてたんだよね」

言いながらとハルはへらっとした笑みを浮かべむくりと起きあがった。髪には寝癖がついている。

「おお、なんだ、そんなことか」

「なんで……地元に帰って来ようって思ったの」

「そりゃ、ハルと一緒に頑張るために」

「じゃぁ、別に、帰ってこなくても、ハルさんと二人で暮らせばよかったじゃん」

自分で発している言葉なのに、その棘は自分を刺した。胸が苦しくなった。

何を言ってしまってるんだろう?

「どうした、倫子、なんか嫌なことあったのか」

「意味わかんないよ、ずっと帰ってこなかったくせにさ、いまさら」

目の辺りが熱くなった、自分だって似たようなものだった。 

正月以外は殆ど地元に帰っていなかったくせに、なにを偉そうなことを言っているのだろう。

「帰れなかったんだよ」

ハルが、静かな優しい声で言った。

「百合雄ちゃんはさ、帰りたくても帰れなかったんだよ」

俯いた倫子の背中に、小動物のような温かい感触がかぶさった。

百合雄の手の平だった。

「どうしたんだよ、倫子、泣くなよ」

困ったような顔をしたアフロヘアの百合雄が倫子を覗きこむ。

倫子は流れてくる涙をこらえようと必死で顔を歪めた。

なぜ、このタイミングで自分が泣いているのかがわからなかった。

「百合雄ちゃん、倫子ちゃんにはさ、嘘つくのやめようよ、やっぱり無理があったんだよ」

ハルが言うと、百合雄は、気不味そうにうつむいた。

「嘘を重ねると嘘だらけになっちゃうんだよね、やっぱり」

「ハル」

百合雄の目の中に必死が見てとれる。

「いや、百合雄ちゃん、言おうよ、言った方がすっきりするよ」

「ハル、やめようよ、それは、約束と違う」

ハルの言葉を遮るように、百合雄は抵抗した。

「お腹の中の子の父親がさ、百合雄ちゃんの大好きな人の子供だったのよ」

お腹に中の子供は大好きだった人の子供? 倫子はハルの告白に対し、うまく言葉を咀嚼することができなかった。

「なに? それ」

「いや、だから、複雑なんだけどさ、まぁ、どうする? 百合雄ちゃんから話した方がいい? それともわたしが言っちゃっていい? 」

ハルに問われ百合雄は息を詰まらせたような顔をし「煙草吸ってくる」と呟いたあと、沈んだ顔のまま二階に上がった。

百合雄の気配が居間になくなったのを確認してから、ハルは少し小さめの声で話しを続けた。

「インド行ったときにさ、百合雄ちゃんは宗司に出会っちゃって、それで、そのまま帰国して宗司について、横浜に来たんだよ」

「宗司? 」

「百合雄ちゃんに墨彫らせたり、ホストやらせたり、風俗のボーイやらせたりした、ほんとさ、ろくでもない奴なんだけどさ、あ、んで、この子の父親」

ハルは倫子の手を持ってその手を腹にあてた。ぐにゅ、と手のひらになにか突起物の様な感触がした。

「ちょちょ、待って待って、なんで、お兄ちゃんはその人の言いなりになっちゃってたの? 」

うねるように腹が動く感触に驚いて、倫子はとっさにハルの手を振り払う。

「百合雄ちゃんさ、ゲイだよ、気付かなかった? 」

ゲイ? 百合雄が? 確かに、昔からあまり女の人に興味は無さそうだったけれども。

「嘘でしょ? 」

「まぁインドで宗司に出会ってからなのかもね、まぁ、これはわたしの勝手な推測だけど初体験も宗司だよ、多分」

初体験、そうか、え、え、つまり百合雄は男性と、そういうことを。

頭が追いつかない。それならなぜ、お腹の大きなハルを連れて?

「宗司はさ、ほんとに終わってるっつうか、人間のクズみたいなやつなんだけど、まぁ、えらい魅力的な男でね」

ハルの言葉が連なっていくにつれて、自分の中にいた百合雄の姿が薄くなり、形を変えていく。

百合雄は宗司との恋に溺れてしまい、その恋の許されぬ罪悪感で、帰って来ることができなかったというのか。

「百合雄ちゃんはさ、当時わたしが働いてた店のボーイだったのね、まぁ仲良くなって、飲みに行ったりしてるうちに、お互い、なんとなく事情がわかってきて」

倫子はうまく理解できない。宗司という男の様相がうまくつかめない。

「まぁほんと、色々あったんだけどさ、とにかく宗司はわたしの妊娠がわかった頃に急にばっくれちゃってね、んで、わたしが困ってたら、百合雄ちゃんが、自分が父親になるから産もうって、言ってくれたわけさ」

「なんで? 」

ハルの話しを聞きながら、頭皮の毛孔がきゅうと収縮した感じがして鼻の奥が熱くなった。なんで? なんでそこで百合雄が、父親になるから産もうなんて言ったの。

「なんでだろうねぇ? でもさ、やっぱり無理があるよね」

ハルは、言いながら膝をたて重そうなお腹を抱え立ち上がった。

「やっぱ、嘘つくの無理だわ、パパさんにもママさんにも悪いしさ、わたし出て行くよ」

「え? 」

「いや、すごくのんびりさせてもらったし、ほんとありがたかったし、こういうのもアリかなって思いそうになっちゃってたんだけど、やっぱりさ、駄目だよね」

お腹の大きなハルは綺麗、色素が薄くて細くて背が高くて。

「こういう、優しい人達につけこむような嘘はよくないよね、本当の孫じゃないわけだし」

ハルは少し憐れむような軽い笑みを浮かべた。

嘘はよくない。

その言葉が、倫子の胸を、匙一杯ぷんくらいにえぐる。

「百合雄ちゃん、全部話したかんねー! 」

上の部屋から降りてこない百合雄に向かってハルは大きな声で叫んだ。階上から、レゲエミュージックが流れている。

「今日は遅いからさ、明日出ていくよ いろいろごめんね」

階段を上がっていくハルのその言葉に何も言い返せなかった。

部屋のドアの閉まる音がして、ただいま、と、玄関から母の声が聞こえた。


その夜は、布団に入ってもうまく寝付けなかった。

目をつぶると霊能力事件の頃の記憶がフォーカスがかかった映像になって蘇ってきた。

あのとき率先して百合雄を救おうと五円玉を振っていたのは、百合雄と仲の良かった男の子だった。

もしかしたら百合雄は、ただ単にあの子の気をひきたくてあんな壮大な嘘をついていたのかもしれない。

自分が田中したことと同じように。

ただ、気をひきたかった。でも、嘘をついて一瞬その気をひけたとしても。その後もずっと嘘を吐かなければならない。

嘘がばれてしまったときの恥。そんなことまで気が回らなかった。百合雄もきっとあのときはただ光の中にいたかっただけだろう、誰かの想いを自分に向けたくて愚かな嘘を吐いた。

「倫子? 起きてる? 」

暗い部屋の外から、母の声がした。

倫子はタオルケットをはらいのけ、起き上がる。

「起きてるよ」

「ちょっと、いい? 」

「いいよ」と、言いながら布団の脇に置いておいたスタンドライトを点けた。

 母は、倫子が起きあがった膝のほうに腰をかけた。

まるっこくて小さな母は、どこかの土地のゆるキャラにも見える。

「あんた、元気でやってるの? 」

体育座りのようにして座った倫子の膝に母は手を置いた。

「うん」

なぜだか、気恥かしくて、不貞腐れたような口調になってしまう。

母は肩を落として長い嘆息を漏らした。

「百合雄はね、明日、出て行くんですって」

「え? 」

「お父さんが頑固だからねぇ、本当は、店継いでほしいんだろうに」

「お兄ちゃんが言ったの? 出て行くって」

倫子が聞くと母は頷く。肥っているから肌に張りはあるのだが目の下に青い隈と皺が刻まれている。

「詳しくは聞かないでって言われたから、聞かなかったんだけどねぇ、大丈夫なのかねぇ」

「……逆に、よかったんじゃん」

「よかったのかねぇ、まぁ、これからは、ちゃんと連絡、寄越すようには言ったんだけど」

だって、ハルのお腹の子供はお兄ちゃんの子供じゃないんだよ?

危うく騙されるところだったんだよ?

倫子は言いたかった。言って、母を安心させてあげたかった。が、そうすることは百合雄やハルを裏切ってしまうような気がして寸前の所でこらえた。

「赤ちゃん……無事に生まれるといいね」

倫子が言うと母は、倫子の膝に自分のひじを置きほおづえをついた。

「ほんとだね、それだけは、ほんと、そうだねぇ」

のんびりとした口調で言う母は自分の息子や娘が嘘つきだと言うことを知らない

知られたくない。と倫子は思った。

知られたくないようなことを沢山しながら東京で生きてきたことが悲しいほどに恥ずかしく思えた。

百合雄も同じ様な気持ちを抱えているのかもしれない。

母が部屋を出てから内田からメールが来ていたことに気がつく。

『次、いつ会える? 』と、ハートマークの入ったメールを確認し、倫子はそのまま、消去ボタンを押した。

寂しかったから身体を重ねてしまった。そんないいわけを心の中で一体誰に対してしているのであろう。

田中に対して? 内田の奥さんに対して?

いや、違う、自分に対してだ。

愛していない人とのセックスが、こんなにも自らの中に空虚を生み出すとは知らなかった。

穴を埋めようとしたのにその穴は身体を重ねる前よりもずっと大きく広がった

倫子は目を閉じ、田中を想う。

嘘という攻撃を受けて、コーヒーショップにいた彼は、とても困った顔をしていた。悲しそうな顔をしてこちらを見ていた。

秘密にしておこうねと言っていたふたりきりの約束を破られてしまった人のような目。

倫子は『精子、無い』と、スマホに打ちこみ検索をかけた。

無精子症、男性不妊。様々な聞き慣れない言葉が羅列されている

しかし田中には子供が一人いる。倫子の頭が混乱する。

もしかしたら、パイプカットしていたとか?

だとしたら、なぜ、それを今まで言ってくれなかったのだろう。

青白い光が網膜に映し出され、温度の無い文字たちが通りすぎる。

倫子はスマホの電源を切り、目を閉じた。

嘘つきはお互いさまなのか。所詮、そんな関係だったのかと、胸の中の痛みを抱えるようにして、眠りの淵へと足を浸けた。


翌日、目を覚ますとすでに昼になっていた。

隣の部屋からレゲエミュージックが聞こえてくる。

まだ、ハルも兄もいるのか。

乱れた髪に手ぐしをいれ、枕元で沈黙していたスマホの電源を入れる。

着信が二件、メールも二件、着信は両方田中からで、メールは内田と田中からだった。

『無事に帰れたか心配だよー。連絡ちょうだいね』

内田からのメールは、またもやハートマークが多用されていた。

倫子は、肌がざわりと粟立つのを感じて、消去ボタンを押した。

通知のきているもう一通のメールを開くのは、ためらわれた。

心臓の鼓動が速くなる、避けていた田中からの生きた文字に触れることが、怖い。

えいっと、心の中で掛け声をかけてメールを開くと思っていたよりも短い文面が表示され拍子抜けした。

『また電話します』

絵文字は、無い。

田中の感情の読み知ることのできないメールが倫子を動揺させ、その動揺は少しづつ、怒りと悲しみがないまぜになった錆びた鉛のような感情へと変わってく。

「痛い痛い、いったーい! 」

階下から叫び声のようなハルの声が聞こえた。様子を見に下へと降りると、ハルが険しい顔をして、額に汗を滲ませていた。

「どうしたの? 」

必死のハルに倫子の声は届いていないようだ。

それとも答えられないくらいに痛いのか。

百合雄が浴室からタオル類を持ってきてスポーツバックに詰めている。

「お兄ちゃん、どうしたの」

倫子の問いに百合雄は、これから戦いに向かう時の戦士のような勇ましい笑顔で答えた。

「陣痛だよ、さっき病院にも電話して、すぐきてくださいって、あ、倫子さ、丁度良かった、お前さ、運転お願いできない? 」

百合雄は車のキーを倫子に投げる。

「え? 」

「頼むよ、な? 」

言われて倫子は、口をとがらせ車に乗り込み運転席に座った。エンジンをかけてから腹が減っていることに気が付く。

「お腹空いたんだけど」

ハルを抱きかかえながら後部座席に乗り込んだ百合雄にそう言うと百合雄は子供を宥めるように言った。

「病院ついたら、なんか買ってやるからな、な? はい、出発進行! 」

倫子は大きな嘆息を吐き、アクセルを踏んだ。田舎の道路は交通量が多くなく、病院へすぐに着いた。

ハルは、着いてすぐ濃藍の病院着に着替えさせられ、看護師二名に抱きかかえられ、分娩室へとつれていかれた。

百合雄から看護師に渡されるハルが、駅伝のタスキのように見えた。

分娩室に入ったハルを見届け、一階の受付に入院手続きを済ませにいく。

倫子は百合雄に付添い、待合室に座った。

小さな頃、病気をするとこの病院に来ていたことを思い出す。

受け付けから見える中庭にはその頃と変わらず木の形をしているような銀色のオブジェがあった。

オブジェも病院も昔はとても大きなものだと思っていたが改めて見渡してみるとそれほど大きくもない。

自動販売機で百合雄にイチゴ牛乳を買ってもらいストローで啜る。

エレベーターで産婦人科病棟に向い二人並んで長椅子に座った。百合雄は、そわそわとせわしなく指先を動かしている。

「痛そうだったな、ハル、大丈夫かな」

心配そうに百合雄が呟く。

分娩室から、ほぁぁーと、器官から無理やりに絞り出されているような赤ん坊の泣き声が聞こえた。

向かいに座っていた男性が看護師に「生まれましたよ」と、声をかけられ分娩室に入っていく。

生まれたばかりの赤ん坊の泣き声は猫の鳴き声に似ているような気がした。

「産まれるまでって、どれくらい時間かかるんだろうな」

「わかんない」

百合雄は緊張しているように見えた。肩に力が入っている。

緊張を紛らわすみたいにして、とつとつと、百合雄が口を開いた。

「倫子」

「なに? 」

「ちょっと、誤解があるから、そこだけ話しさせて」

「お母さんには、なんも言ってないから安心して」

それだけ言って倫子は百合雄に背を向ける。

「そういうのに偏見はないつもりだけどさ、でも、いくらなんでもお母さんが可哀想」

低い声でそう言ってから振り向くと百合雄は眉根を寄せていた。

「ハルが俺のこと、ゲイとか言ったんでしょ?」

「うん……」

倫子が答えると、百合雄は肩を落としうなだれた。

「あいつ、そこ、ほんとに誤解してるんだよ、宗司くんと俺はそういうんじゃなくて」

「そういうんじゃないって? 」

「いや、肉体関係とか無いつうことでさ、なんですぐ女ってそういうふうにさせたがるのかなぁ……確かに本当に尊敬してたし、男が男に惚れるっていうのはあったよ、だけど俺、ちゃんと女の子とも付き合ったことあるし」

倫子は聞きながら、百合雄が早口になっていることに気が付く。

「だから、そこは言っておくけど、本当に誤解だからね」

「そっか、わかった」

わかったと返事をしながらも、それも嘘なのかもしれないと倫子は思った。

嘘の持つ、独特のかゆみが倫子の耳のふちを撫でたような気がした。

百合雄にはきっと、カミングアウトするほどの、度胸は無い。

「確かに実家に戻ってきたのは、甘い考えだったって反省してる」

「でも、お兄ちゃんなりにハルさんを助けてあげようとしてたんでしょ? 」

「まぁ、そうなんだけど、あいつもさ、ほんと色々大変でさ」 

アフロヘアの百合雄の横顔に、薄暗い廊下に差し込む蛍光灯の陰影が重なって、まるでアート展に飾られている絵のように見えた。

「じゃぁさ、いいことしようとしたんだから、別にいいんじゃない? 」

あくびをしたら悲しくもないのに涙が滲んだ。

「俺のこと、軽蔑してる? 」

うかがうように百合雄に聞かれて驚いた。軽蔑、そういえばハルにもそんなこと聞かれたっけ。

「何に対して? 」

聞くと百合雄は「いろいろ、さ」と口ごもった。

「しないよ、だってお兄ちゃんは、お兄ちゃんじゃん」

 アフロになっても刺青を彫ってもゲイだとしても倫子にとって兄は、兄のままだ。

百合雄は気が弱くて不器用で嘘つきで、だけど、とても優しいお人よしの兄のままだ。

倫子は底に残ったイチゴ牛乳を、ズズズ、と音をたてて啜り自分の足元に目を落とす。

二人の間の沈黙に、ぱんと、亀裂が入る音がした。分娩室のドアが開いた。

「お父さん、産まれましたよ」

看護師に促されるまま百合雄と倫子はシャワーキャップの様なものを頭にかぶり、ビニールのケープのようなものをはおって分娩室に入る。

憔悴しきったハルが分娩台に横たわり、赤ん坊を抱いている。

赤ん坊は腕も脚も細く全体が驚くほどに小さく見えた。

「三千二百グラムの男の子ですよ」

看護師はそう言って百合雄に赤ん坊を手渡した。

百合雄は赤ん坊の顔を見て、「よく頑張ったな」と、涙をこぼした。

「なんで百合雄ちゃんが泣くかな」

ハルは疲れた顔をしながらもそう言って笑った。

「なんか、鼻が宗司に似てるよね」

ハルが言いながら、優しい眼差しを百合雄に向けた。

倫子は赤ん坊の指先にそっと触れた。まだ目も開いていない赤黒く皺っぽい顔。頭髪がしっかりと生えている。

赤ん坊は何かをさぐるように腕を揺らして倫子の指先をギュウと強く握った。

温かった、そこには人間が生きているのだという証がしっかりと感じられた。

 

百合雄がハルに少し付きそいたいと言うので、倫子はオブジェのある中庭のベンチに座っていた。

震える電話の画面には、『田中さん』と、表示されている。

茜色が空に広がり、薄紫色の闇を含んだ夜が降りてくる。

倫子は、息を吸い込み、通話ボタンをタッチした。

「もしもし」

「もしもし、あ、倫子ちゃん」

田中の発した声は、倫子を気遣うような声だった。

「はい」

「会社、休んでいるって聞いて」

ゆっくりと、こちらの反応をうかがうようなペースで田中は言葉を連ねる。

「身体大丈夫? もし、僕にできることとかあったらなんて思ったんだけど」

そこで倫子はふと気付く。ああ、もしかして田中はまだ誤解しているのか。

「あの」

倫子は胸の中のつかえをふりしぼるようにして言った。

「嘘だったんです、ごめんなさい」

「え? 」

「妊娠って、嘘です、わたし、田中さんとしか、そういうことしてませんから」

言いながら内田の顔が過った。これも、もしかしたら嘘というくくりにかぞえられてしまうのであろうか。

「あ、そうか、そうだったんだ」

田中の声が息の抜けたような感じになった。

「ごめんなさい」

「いや、いいんだ、倫子ちゃんが無事なら、それで」

ぱき、ぱき、と電波が途切れるような音がする。何を言っていいのかわからなくて、口元が強張る。

「さっき、赤ちゃんが産まれたんです」

「え? 」

「兄の」

「ああ、へぇ、そうか、おめでとう」

スマホの角ばりが気になった。耳が強くおさえられるような感じがして、持っている手のひらや耳が痛くなってくる。

「倫子ちゃん、いつ、帰って来るのかな? 」

いつと、聞かれて口を開くことができない。

しばらく、黙ったあと、押してしまってはいけないボタンを押すような気持ちをこめて、倫子は言った。

「もう、会わないほうがいいと思う」

この四年の間、ずっと待っていたなんて言葉は被害者ぶりすぎているかもしれない。

けれども手放しで田中のことを好きだと言えないこの想いをこれ以上持ち続けることが自分にとって良いことだと思えなくなったのは事実だ。

「倫子ちゃん、僕は、倫子ちゃんに会いたいよ、会ってちゃんと話しがしたい」

なにを、話すというのだろうか、自分に精子が無いということを黙っていた理由?

「都合がいいかもしれないけど、倫子ちゃんのことも、家族のことも、同じくらい大切なんだ」

目の端あたりを、なにかにピンとはじかれたような感じがした。

そう、この人は優しい。大切なもの全てに精いっぱいの愛情を注げる人、そして選べない。なにも選べない、捨てられない優しい人。

「大切だったら……」

言いかけて倫子は言葉を飲み込む。

大切だというのなら、選んでくれるのだろうか、決断をしてくれるのであろうか。

もし離婚という決断をしたとしても、この優しい男の人はずっとその罪を背負うことになる。

そんな罪を背負わせてしまったら、今までのような心地の良い付き合いはできないだろう。

倫子は、気付く。

自分が嘘をついてまで欲しかったものは、「選ばれた」という自分だったのだ。田中の一番にしてもらえたという特別な自分。ただ一瞬の栄光。それだけだった。

沈黙を打ち破れないでいると、倫子の視界に、見覚えのある姿が目に映る。

ビニール袋を抱えた母の姿だった。

母は、倫子と目が合い、重そうに腕を持ち上げ手を振った。

「あの、また連絡します」

倫子が言うと田中は、濁った声で「あ、ああ、うん」と言った。

電話を切り、母のもとに駆け寄る。

「お母さん、重いでしょ、一個持ってあげるよ」

 荷物に手をかけようとすると

「大丈夫だよ、お母さん、倫子が思ってるより力もちなんだから」と言って母は倫子の手を制した。

「百合雄から電話が来てね、お父さんが行って来いっていうから」

「そっか、じゃぁとりあえずお兄ちゃんところ行く? 」

うんうん、と、頷く母は息を切らせ汗で顔を湿らせていた。

きっと電話を受けて、急いでやって来たのだろう。

歩きながら、母に顔を寄せられた。

「倫子」

「うん? 」

「東京でつらいことあったんなら、いつでも帰って来ていいんだからね」

急に母にそんなことを言われ、倫子は戸惑う。

見透かされたみたいで苦しくなった。うつむきながら強がりを含んだ声で

「大丈夫だよ」というと母は

「ならいいんだけど、あんた昔から我慢したりする子だから」と言って眉をあげた。

 産婦人科病棟にいき、病室を覗くと薄いカーテンの向こうでハルは寝ていた。

寝ているハルの横、パイプ椅子に座った百合雄がハルの足元を撫でている。

本当は家族では無いのに、なんだかそこにあるものがまぎれもない家族の風景のように思えた。

「百合雄」

ハルを起こさぬように小さな声で母が呼びかけ百合雄が振り向く。

「あ、お母さん」

「赤ちゃんは? 」

母は嬉しそうな顔を顔面一杯に拡げて聞いた。

百合雄に案内されガラスケースに遮られた新生児室の窓を覗く。

 赤ん坊の顔はどれも同じように見えるが、黒々とした髪の毛が生えていたのはハルの子供だけだ。

「あれだよ」

と、百合雄が母に教えると母は、ほえーと、感嘆の声をあげた。

「髪の毛が、ふさふさだねぇ、百合雄の子供のころに似てるね」

母が顔をほころばせると

「そうか」と、百合雄は貼り付けたような笑いを浮かべて頷いた。

「あ、倫子がお腹空いてるって百合雄に聞いたから、はい、これお父さんから」

と、母が倫子にさし出したのはタッパーいっぱいに詰めこまれたガーリックピラフだった。

蓋がしまっているのにもかかわらず、つんと、にんにくのかおりが鼻につく。

「病院でさすがにこれは開けられないでしょ」

「そうよね、でも倫子、これ好きだろって、ほんとお父さんてば気が利かないよねぇ、あ、それでこれもハルさんに精がつくからって」

と、母はもうひとつのタッパーを取り出した。

タッパーの中には大きなオムライスが入っている。卵がこれでもかというくらいにぎゅうぎゅうに押し詰められている。

「ありがとう」

百合雄は、オムライスを受け取って、少し目を潤ませた。

ガラスケースの前にいる母は血の繋がっていない子供を優しい眼差しで見つめている。

母は、なんの疑いもなくその新しい生命の誕生に感動しているようだ。

倫子と目が合い百合雄は自嘲気味な笑みを浮かべたあと、ガラスケースのむこうに顔を向けた。

百合雄の横顔には、微かだが父性のようなものが滲みでているような気がした。


中庭のベンチに座り、ガーリックピラフを頬張るとまだかすかに温かかった。

ハルと百合雄と赤ちゃんは一体これからどうするのだろうか。そんなことを考えながらピラフを頬張る。

薄暗いにび色の空の中には卵型の白い月がぼんやりと浮かんでいた。

倫子はピラフを咀嚼しながらタッパーを膝の上に乗せスマホに指を滑らせた。

『いままでありがとうございました。嘘をついて困らせたりしてごめんなさい。さようなら』

メールを作り、送信する前に声にだして読んでみた。

嘘をついて困らせたりしてごめんなさい。

困って欲しくてついた嘘でもこうして謝ってみると少しはすっきりするものなのだと、妙な感慨が湧いてきた。

ぽん、と、送信ボタンを押して田中からの返信を期待しないように電話の電源を切った。

寂しさが喉元からせり上がって来る。寂しくなんてない。と、潤みをせきとめるため己に言い聞かせながらピラフを頬張り続ける。

胸に穴が空いたみたいだった。空いた穴に風が吹き込んでいるみたいに痛かった。本当はとても寂しい。

少しずつでも認めなければならないのだろう。心が欠けてしまったことを。いや、叶わない恋に溺れていた時点でとっくの昔から欠けていたのか。

百合雄が赤ちゃんに向けていた顔を思い出したら、父の作ってくれたガーリックピラフの美味しさに胸が苦しくなった。

頬に生ぬるいものがつたう。

あとでまた、兄にイチゴオレを買ってもらおう。

 はぁと、吐いた息がにんにく臭くて倫子は父の不器用な優しさを思って笑った。

倫子は泣き笑いながら涙を拭い、空になったタッパーの蓋を閉めたあと、ごちそうさまでした。と小さな声で呟いた。

                                    

                                      了






                                    



























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わたしのついたうそ りんこ @yuribo

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