第2話 先輩と後輩

 #chapter1

 ピピッ。

 少女は手にしていたスマホを鞄にしまう。

 いつもと変わらないある日の夕方だった。

 残暑の蒸し暑さが、べったりと少女の皮膚に貼り付いていた。

 木々は青々とした葉をたくさん抱え込み、短い影を申し訳程度に伸ばしていた。

 太陽はサービス残業が好きらしく、頼みもしないのに熱エネルギーを少女が住む街まで送り届けていた。

 数匹のカラスがねぐらの方へと飛去っていく。

 人間が住む場所で好き放題暴れた後は、ああして心落ち着く場所へと帰っていくのだ。

 私も他人の縄張りで好き放題やりたいなぁ。

 少女は誰に言うでもなくつぶやいた。

 もちろんこの少女もカラスたちと同じようにねぐらへ向かって歩いているのだ。

 家に着いたものの、今日はまだ誰も帰ってきていないようだった。

 ただいまの声がむなしく響く。

 リビングでは時計の針だけが物音を立てている。

 これを横目に通り過ぎ、自室へと向かった。

 少女はこの時間を愛していた。

 誰にも口を挟まれず、誰の視線も感じず、あらゆる価値観から解放されたこの幸せな時間を愛していた。

 一人では生きていけない。

 それが高校生というものだ。

 それでも一人でいる瞬間にこそ本当に生を満喫していると実感できるのだ。

 さぁ、今から何をしようか。

 何をしてもとがめられることはないのだ。

 鼻歌を歌うところから始めてみようか。

 意味も無くでんぐり返しをしたり、鏡の前で踊ったりしてみた。

 無性にわくわくした。

 脱ぎ捨てた制服の上着をひっつかんで振り回してみた。

 頭の中に興奮を促進する物質が流れ込んでくるのが分かった。

 少女がさらに行為をエスカレートさせようとしていると、ガタン、という物音が天井から響いた。

 少女は肝を冷やした。

 誰かいるのだろうか。

 だとしたらとても恐ろしいことだ。

 高校生の娘ーー少女のことだーーがいる家の天井裏に潜む輩など、危険な人物に違いない。

 とはいえ、すぐに逃げ出す気持ちにもならなかった。

 だってきちんと戸締まりしたはずではないか。

 窓が割られている様子もなかったのだ。

 忍び込んだ者がいるとは考えられなかった。

 そもそもこの世にはたくさん女子高生がいるのだ。

 よりによって自分のところを選んで不審者がやってくるわけがないじゃないか。

 それがいわゆる正常生バイアスであることを少女は知らなかったが、それは仕方のないことだった。

 少女は天井の方をじっと見つめた。

 もう一度物音がしたら、今度こそ逃げることにしよう。

 机に置いてあった物差しを使い、コンコンと天井を叩いてみたがやはり反応は無かった。

「誰かいるんでしょ?」

 はったりをかけてみる。

 どうせ誰も見ていないのだ。

 この際好き放題してしまえばいいじゃないか。

「ねぇ、あなただよ。そこのあなた。それで隠れてるつもりなの? だとしたらすっごい間抜けだよ。木の隙間から見えてるんだよ。私が気付かないとでも思ったの?観念して出てきてよ。このまま帰ってくれたら警察にも行わないから。ね? おとなしく出てきて?」

 何も返事は無かった。

 今喋ったことは全て嘘だった。

 天井の板張りはこれでもかとひしめき合っていて、隙間から向こうを見据えることなど出来ようはずがなかった。

「はぁ……アホらし」

 身体から力が抜けてしまった。

 自覚していた以上に緊張していたらしい。

 おそらく誰もいないようだが、せっかくなので天井裏の様子を見てみようと思った。

 何が彼女にそう思わせたのかは分からなかった。


 押し入れの中にある天井裏への入り口を開ける。

 何年も手を付けられていない木材特有のねっとりとした感触が少女の手のひらを刺激した。

「うわあ埃っぽい……」

 ガタンガタンと音を立てながら板を外していく。

「ゴホッゴホッ」

 振動で埃が舞う。

 ただでさえ悪い視界をさらに曇らせていく。

「明るい……?」

 そこは天井裏ではなかった。

 狭く押しつぶされそうな空間だったそれは、どこかの研究所かのような部屋へと改造されていた。

 灰色の金属が張り巡らされ、血の抜けたように真っ白な樹脂が辺りを覆っていた。

「誰がいつの間にこんな改造を? 何でこんなに広いの? 絶対おかしいじゃん」

 少女の手が震える。

 ネズミのような素早さで天井裏から脱出する。

 家の中を走り抜ける。

 屋内で走ってはいけないというルールは無視する。

 玄関を出て家の屋根を眺めてみるが、特に変わったことは無さそうだった。

 少女は息を切らせながら再び天井裏へと舞い戻った。

 ここには不思議な空間がひろがっている。

 誰も知らない、私だけが知っている秘密の場所!

 少女の心は踊った。

 子供の頃に夢見た自分だけの世界が、今ここに広がっているのだ。

 ふと、部屋の隅の方に奇妙な機械が置いてあることに気がついた。

 ゲームセンターに必ずある、レースゲームの様な機械だった。

「何これ、爆発したりしない?」

 しばらく周りをうろついたり、おそるおそる近づいたり、手で触ったりしてみたが特に何も起こらなかった。

 叩く、蹴るなどしてみたがうんともすんとも言わない。

 ただの置物なんだろうか、そう思って機械の前にある椅子に座ったところ、ビー!と音がした。

「うわわわわ!」

  椅子から転げ落ち、腰と腕を強く打ってしまった。

「うるさいなぁ。っていうか痛い……」

 顔をあげると、謎の機械のモニターが光っていた。なにやら文字が書かれていた。


 ーー人格シミュレーター・ヒトミちゃんの使い方ーー

【これは実在する任意の人格を再現し、様々な刺激を与えることで、どのような反応を示すのかを実験する装置です】


 おや、言葉が難しくて分かりませんか?

 ならばもう少し簡単な言い方をしてあげましょう。

 今、あなたに好きな人はいますか?

 その人が普段何をしているのか知りたくないですか?

 告白の練習など、してみたくないですか?

 そこでこのヒトミちゃんが役に立つのです。

 まず、観察したい人物の人格をコピーしましょう。

 装置の左下の棚に置いてあるハチマキを対象の頭部に巻き付けます。

 5時間そのままにしてから回収し、装置のモニタの右下にある挿入口にセットします。

 これで準備は完了です。

 画面を付けると電子空間上にコピーした人格が現れます。

 仮想の世界なので、何をしても現実には影響しませんし、誰にも知られることはありません。

 電子空間上でどんなことをしても、この画面の右下にある"initialize"ボタンを押せば、すべて元通りになります。

 この後どうするかは、あなた次第です。

 詳しい使い方はヒトミちゃんを使いながら使い方を学んでいってくださいね!

 good luck!



 #chapter2

 少女の目は輝いていた。

 そう、いるのだ。

 好きな人が。

「別に好きってわけじゃないけど、憧れっていうか?」

 独り言である。

 それは少女が所属する茶道部の先輩で、特に親しくしている先輩だ。

 部にとけ込めずオロオロしていた少女に声をかけてくれたのがこの先輩だった。

「先輩のコピーをつくろう!」

 それは、アリの巣の入り口を遊び半分で塞いでしまう子供のような心理だった。

 それがどれだけ非倫理的な行動なのか分かっていなかった。

 あるいは薄々気付いていながら欲望に負けてしまう弱い心の持ち主なのだった。

 少女は憧れの先輩を電子空間に幽閉することにした。

 その行動の原動力はただ「好意」のみだった。


「ゲットゲット〜!」

 少女は先輩の人格データを手に入れることに成功した。

 プレゼントと言いながら先輩にハチマキを渡し、5時間後に「あんまり似合ってないから今度他のやつ探してきます!」と言って回収する。

 我ながら完璧な作戦だと少女は自負していた。

 ハチマキを渡されて困惑しながら一応お礼を言いながらも、渋々身につけていた先輩の表情は記憶の隅の方にしまった。

「今日は奇行が多いね」という友達の言葉も聞かなかったことにした。

 ハチマキを「ヒトミちゃん」にセットする。

 モニターが光り、先輩の姿が映る。

 これで一昔前のゲームの3Dみたいなものが表示されたらぶちこわしてやろうと思っていたが、本物と寸分違わぬ容姿をしていたので満足だった。

 最近視力が下がり始めた少女の肉眼よりも、鮮明かもしれなかった。

「きゃー!先輩!かわいい!」

 さあ、今から何をしようか。

 何をしてもよいのだ。

 誰もやってこない天井裏で、少女による秘密の実験が始まろうとしていた……。


 #chapter3

 ーーまずは観察してみましょう。

 マップからスタート地点を選択してください。

 その後"calucurate"ボタンを押してください。

  

「チュートリアルみたいなのがあるんだ。便利」

 モニターはタッチパネル式になっているらしく、指を走らせて指示通り操作する。

 ピピッという電子音が鳴り、いつもの通学路を先輩が歩いている姿が表示される。

 どこからどう見ても魅力的なのだから何時間でも見みていられる。

 しかし本当にそんなことをしては勉学がおろそかになってしまうため、1時間ほど経ったところでやめにした。

 これだけストーカーまがいのことをしておきながら勉学を真面目にやったところで、どんな大人になるか知れたものではないなと自省した。

 とはいえ出来た大人などそうそういないのだから問題ないのだった。

 先輩は別である。

 必ず素敵な大人になるだろう。

 少女は確信していた。


 ーー次は、詳しい初期条件の入力を行います。

 初めての方はテンプレートを使うことをおすすめします。

 テンプレート/物/財布を選択しましょう。

 次に座標を指定します。

 観察対象が立っている位置を原点とした相対座標です。


 x:1

 y:0

 z:0


 と入力してみましょう。

 観察対象の前方1m地点に財布が設置されます。

 初期値入力が完了したら、"caluculate"を押して観察対象の様子を観察しましょう。


 観察対象を観察するとは、頭痛が痛そうな文章だと思いながら少女は言われた通りにことを進める。

 先輩が動き出し、財布の前で立ち止まる。

『財布落ちてるじゃん。どうしよ。うわ、めっちゃお金入ってる』

 独り言を呟く先輩も素敵だった。

『一応交番かな』

「先輩偉い!流石!私だったらすぐに自販機に放り込んじゃいますよ!」

 もちろん相手は聞いていないが、昂ぶる感情を抑えられなかった。

『はい、コンビニの角の……はい、そうです』

 交番の人は感心したように拾った時の状況を聞いていた。

『届けてくれてありがとうね。落とし主が見つかったら連絡するよ』

『はい、見つかるといいですね』

 そういって先輩はふわりと微笑む。

 きっとこの警官も先輩の魅力に取り憑かれたに違いなかった。


 ーー続いて、生き物を設置してみましょう。

 一度"initialize"を押してください。

 テンプレート/生き物/セミを選択し、"caluculate"を押してください。

 座標は


 x:0.5

 y:0

 z:0


 を入力してください。


「え、セミ?」

 セミは普通木の幹にしがみついているものだが、一体どうして地べたに放り出しておくのだろうか。

 とはいえチュートリアルを無視してスマホゲームを遊んだことのない少女は、今回のこれにも従うしかなかった。

『ジジジジジジッ』

『ひゃああああ!』

 先輩の足下に出現した昆虫が大きな羽をバタつかせ胴を震わせ、空気を不快に振動させる。

「先輩、こんな声出すんだ。驚かせるっていうのも悪くないじゃん」

 少女はこういう女なのだ。


 ーー最後に、仮想現実モードを使ってみましょう。

 足下にある脳波測定器を取り出してください。


「仮想現実モード……?」

 少女はいぶかしみながらも足下にあるヘルメットのようなものを取り出す。

 ヘルメットからはクラゲの触手かと思うぐらいたくさんの配線がつながっていた。


 ーーそれを観察者の頭部に装着してください。

 内部に液晶画面がありますので、装着している間はこちらの画面を使って操作します。

 仮想現実モードを選択して"on"にしてください。


 選択しろと言ったって、画面にふれることも出来ないのにどうすればいいのかと戸惑ったが、試みに手を空中にかざしてみると画面が反応したので、なるほどこうやって操作すればよいのかと納得した。

 仮想現実モードを"on"にする。

 途端に辺りの景色が大きく変わる。

 正確には、何もなかったところに道路や信号やカーブミラー、さらには一戸建ての家や雲の比率が少ない青空が突如として現れた。

 つまり通学路の景色が表示されたのである。

「すごい!これってテレビでよく見るVRってやつじゃない!?」

 少女の家はあまり裕福ではなかったので、VRのようなスゴそうなものは絶対に買ってもらえない。

 そうやって諦めていたところに思わぬ形で舞い込んで来たものだから、興奮せずにはいられなかった。


 ーー表示されている情報について説明します。

 ①時刻

 ②マップ

 ③観察対象者のステータス

 ④誤差

 ①はそのまま、現在の時刻を表しています。

 これは現実の世界の時刻です。

 仮想現実空間の時刻を表示する場合は、ここを選択して切り替えてください。

 ②これは使用者が立っている地点を中心としたマップです。

 詳しく見たい場合はここを選択してください。

 ③観察対象者、つまりコピー人格の現在のステータスです。

 精神状態・身体の調子・次に行うであろう行動を表しています。

 ④これは、現実世界の観察対象者との誤差の推定値を表しています。

 値は%値で表示され、"initialize"をせずに長い間シミュレーションを続けたり、現実ではあり得ない刺激を連続で与えたりなどを行うことで大きくなっていきます。


 少女はほうほうと首肯した。

 あまり言っている意味は分からなかったが、色々と試してみるうちに覚えるだろうと斜め読みするだけですませた。


 ーーそれでは、観察対象者と会話してみましょう。

 マップを選択して位置を選択すると、その地点までジャンプすることが出来ます。

 この機能を使って観察対象者の近くまで行き偶然を偶然を装ってあいさつしましょう。


 偶然を装いましょうとは恋する者の心理を心得ている。

 少女は先輩の後方1mにジャンプする。

『せーんぱい!』

『あれ?どうしたのこんなところで』

『ちょっと用事があったので』

『そっか、今帰り?』

『はい、先輩は?』

『私も帰りだよ。おんなじ方角だよね、一緒に帰ろっか』

『はい!』


『……だから、国語のT先生は信用出来ないんですよ』

『確かに私の時もそうだったね』

 二人は学校での出来事を共有しながら帰路についていた。

 だんだんと日が落ちてきたので、今何時かと思って画面に表示された時計を見る。

 おっといけない、ここに表示されているのは現実の時刻だ。

 少女は手を動かして画面を操作し、表示時刻を切り替える。

 18時半だった。

『どうしたの?虫でもいた?』

 あまりに唐突に少女が腕を振り回したものだから先輩は面食らった様子だ。「そうなんですよ、嫌な季節ですね」と少女は事も無げに取り繕う。

 危ないところだった。

 画面を操作するため一々身体を動かしていてはただの不審者ではないか。

 とんだ不良品だと少女は心の中で文句を言った。

 二人の会話はもうしばらく続いた。



 #chapter4

 少女は充実した日々を送っていた。

 学校に行って勉強し、部活では先輩と会話し、家に帰っても天井裏に籠もって先輩と仲睦まじく過ごす。

 天井裏での経験で先輩の性格や好みを把握し、現実での交際に活かす。

 勉学と青春という学生生活の両輪は、油をたっぷり差されてなめらかに回転していた。

 人間の欲望とは、ゴム風船のようなものだ。

 一時的に満たされたところで、それにあわせてさらに容積を増していく。

 その肥大化の速度は満たされるに連れますます高まっていく。

 そして最後は大きな音を立てて大爆発してしまうのだ。

 少女が持つ欲望の風船も例外ではなかった。

 しかし少女は、自分の欲望を制御する術を身につけていた。

 今日は観察だけする日にしよう。少女は決心した。

 いくらコピー人格と会話したところで"initialize"すれば全て忘れてしまうし、現実の先輩と話したときに、その差異に気付いて悲しくなってしまうからだ。

 そもそもこの機械は外側から観察することが第一の使い方であって、自分から飛び込んでいってその世界に居座るのはあくまで第二の使い方だ。

 少女は先輩の通学路にいろんな物を設置してみた。

 例えばバナナの皮。

『なんかレースのゲームで見たことある……』

 もちろんこんな物に引っかかることはない。

 次は横断歩道を渡れなくて困っているおばあちゃんを設置してみた。

『荷物、もちますよ』

『あら、ありがとうね〜。優しい学生さんだねぇ』

 このおばあちゃんはあとで学校に手紙を書いて送ったらしい。

 お宅の生徒さんに親切にしてもらいましたと。

 先輩は名乗っていなかったので表彰などはされなかったが、全校集会で校長が我が校の誇りだと大演説を振るっていた。

 その間先輩は眠そうに船を漕いでいたので生徒指導の先生からお叱りを受けていた。少女は腹が立ったので生徒指導の先生の目の前にセミを設置した。

 身体をビクリとさせて驚いていたのでとてもいい気味だった。

 他にも様々なものを試してみた。

 通り魔や爆弾なんていうものもあったが、恐ろしくて使ってみる気にはならなかった。

 皆既日食を起こしてみたとき、先輩は目をキラキラさせて写真を撮っていたので、その顔が愛おしくて少女は何枚もスクショを取った。

 テンプレートの奥深くまで探していると、捨て猫というものがあったのでこれは良いと思ってさっそく設置してみた。

『あ、可愛い〜!』

 先輩も可愛い〜!と心の中で叫びながら様子を見守る。

『帰るおうちないの?そっか〜、こんなに可愛いのに。うちに来る?』

 猫が先輩の言葉を理解したのかは分からないが、にゃーとひと声鳴いたことで先輩は完全に虜になってしまった。


 少女は戦慄していた。

 先輩は猫をお風呂に入れてやっていた。

 お風呂場の座標を入力してやれば、その天国のような光景を目に焼き付けることが出来る。

 しかし少女にそこまでの勇気は無かった。

 ここまでストーカーまがいのことをやっておいて勇気もヘチマもないというものだが、とにかくヘタレてしまったのだから仕方がない。

「アハハ」とか「にゃー」とか、楽しそうな声が聞こえてくるだけで少女は十分に満足だった。

 今回のシミュレーションはいつもより長めに行った。

 セミやおばあちゃんのように一時的なものではなく、長期に渡って観察したかったからだ。

 あまり長くシミュレーションを走らせると誤差が大きく鳴りやすいので、「反復計算」というものの数を大きくしておかなければいけなかった。

 機械の負担が大きいのか、冷却用のファンが唸りをあげている。

 しばらくの間は、先輩と猫の戯れを堪能することにした。

 現実ではそう簡単に都合よく捨て猫が現れることはない。

 ヒトミちゃんの使い方としてはかなり賢い部類だろう、と少女は自分で自分を賞賛した。


「最近はいつも機嫌がいいね、何かいいことでもあったの?」

 いつも先輩が可愛くて、などとは間違っても答えられないので、適当に話を濁しておく。

「そういえば先輩は猫って好きですか?」

「猫?好きだよ!」

「そうなんですね!私も好きなんですよ。あいつらって絶対自分がどれだけ可愛いか自覚してますよね」

「分かる分かる。所作が決まってるよね」

「憎いけど勝てないんですよね〜」

「弱そうなところも好き。毛で覆われてるから分かんないけど、本当はすごくほっそりしてるんだよね」

「へぇ〜知らなかった。弱そうなところが好きって変わってますね。先輩って養っちゃうタイプの女性なんですか?」

「そういうんじゃないよ。そうだね、あなたも結構私の好みかな」

「えっ?えっ?」

 いきなりの告白だったので目を白黒させて動揺する。

 私のことが好き? 

 嬉しいけど、今の話の流れで? 

 私は弱そうっていうこと? 

 いや強そうには見えないだろうけど、だからといって猫と並列されてしまっては流石にしょんぼりしてしまう。

「ごめん、変なこと言っちゃったね。違うよ、別にあなたが捨て猫みたいに弱そうってことではないよ?」

「わ、分かってますよ!好きって言われてびっくりしてしまっただけです」

「あはは、何それ」

 少女は未だに動揺していた。

 少女を見つめる先輩の目が不健全な光を湛えていたが、それに気がつくことはなかった。

 少女は先輩に対して捨て猫などとは言わなかったはずだが、それについてもやはり気がつくことはなかった。



 #chapter5

 事件が起こった。

 嬉しい事件ではない。

 とんでもない事件だ。

 うきうきして学校から帰ってきた少女はモニターの前で声を失っていた。

 先輩は猫を見つめていた。

 しかし、それはもはや猫ではなかった。

 猫だった物でしかなかった。

 赤やピンク、他にも形容しがたい色をした物が無惨に飛び散っている。

 病死や寿命ではない。断じてあり得ない。

 他殺だ。

 少女は探偵ではないが、こんなものは小学生だって出来る推理だ。

 先輩が大切にしていた猫を、誰がこんな風にしてしまったというのか。

 あまりにも酷い話だ。

 この様子だと先輩もさぞ悲しんでいることだろう。

 そう思い視点を切り替えたが、むしろ笑みを浮かべていた。

 この状況で笑っていられることがまず信じられなかった。

 これでは先輩が犯人のようではないか。

 画面越しでしかなかったが、まるで先輩がこちらを見つめているように感じて悪寒がした。

 先輩に対して好意とは真逆の感情を向けてしまい、自分が嫌になった。


 巻き戻して確認してみたが、犯人はやはり先輩だった。

 それでも信じられなかったので、久しぶりに仮想現実モードを使ってみることにした。

『先輩、おはようございます……』

『おはよ、元気ないね?』

『そ、そうですか?』

『そういう表情も似合うね』

『ありがとうございます……』

『……』

 少女があまりにもぎこちないので、気まずい空気になってしまった。

 先輩も少女の異変を感じ取ったらしく、目を細める。

『ねぇ、何か変なもの見た?』

『変なものですか? 見てませんよ』

『そっか、ならいいんだけど』

『……猫』

 先輩が双眸がぎょろりと動いた。

 いつもの穏やかなまなざしはどこかへ出かけてしまっていた。

『猫が……どうしたの?』

『猫かどうかはわかりませんけど、動物の死体がありました』

『ふうん、どこに?』

『私の家の近くの国道です。たぶん車に轢かれちゃったんだと思いますけど』

 心臓が早鐘を打つ。

 怪しまれるな、自然に、自然に。

『たまに轢かれてるの見かけるよね〜』

『私は初めてだったのでびっくりしちゃいました』

『いつもにゃーにゃー鳴いてる猫が、あんな風になっちゃうなんてね。内側はやっぱり普通の動物だ』

 全身を乾いた筆で撫でまわされたような心地だった。

 猫の死体を見てショックを受けている後輩に対して、普通このような言葉を投げかけるものだろうか。

 少女は怖くなってヘルメットを外した。

 画面には先輩の精神状態や計算の誤差が表示されていたが、説明を読み飛ばしていた少女は最後まで関心を持たなかった。


 精神状態:非常に興奮(好意)

 誤差  :0.5%

 

 その日以降、ヒトミちゃんには指一本触れることはなかった。



 #chapter6

 少女は手に持っていたスマホを鞄にしまった。

 常に通知音もバイブも鳴らないサイレントマナーにしているため、こうして画面を開いて通知を確認する必要があるのだった。

 すっかり葉を落としてみすぼらしくなった木々が、通学路に長い長い影を落としていた。

 からりと乾燥した、無機質で冷たい空気が辺りにジーッとのしかかっていた。

 夏場と違い、太陽は定時で仕事を終えるようになっていた。

 少女がスマホから注意を離したことを見届けて、先輩が口を開く。

「貴女、元に戻っちゃったね」

「どういうことですか?」

「言葉の通りだよ?」

「ちょっと分からないです」

「覇気が無くなったよね、ちょっと心配」

「元に戻って覇気が無くなったって、それじゃあ最初から覇気が無かったんじゃないですか」

「それはその通り、ほっといたら死んじゃうんじゃないかってぐらい」

「そんな風に思っていたんですか」

「そんな風に思ったからこそ声をかけたんだよ。あなたみたいな子はなかなか居ないもんだから」

「あんまり嬉しくないです、悲しくなっちゃいます」

「ごめんね」

「でもそれがきっかけで先輩とこうしていられるんだからやっぱり嬉しいです」

「そっか、私も嬉しいよ」

 少女と先輩は付き合っていた。

 ヒトミちゃんで先輩の人格を知り尽くした少女は先輩との距離を一気に詰めていった。

 あの先輩は計算間違いだったのだ。

 ただのエラーだ。

 そう結論づけて以来、不気味な先輩のコピーのことは何も考えないようにしていた。

 そうしていると、再び先輩の良い側面ばかりが目に写るようになるのだ。

 文字通り惚れ直して、また先輩の虜になった。

 一度不信の期間を挟んだこともあり、その想いはいっそう強固なものになっていた。

 しかしいざ付き合うとなると、良い側面ばかり見てうつつを抜かしている訳にはいかなくなる。

 先輩はどこか人を審判するようなまなざしを持っていた。

 少女が素直に感心したことを、先輩は大したことはないと一蹴した。

 少女が就きたいと夢を語った職業に対して、そんなのはお金にもならないしつまらないからやめた方がいいと放り出した。

 それでも気むずかしいところを互いにさらけ出してこそ真の交際だと少女は信じていたので、それらを受け入れながら過ごしていた。

 先輩だってきっと不満を抱えているはずだ。

 ここで私だけが私だけがといきり立てば、何もかもおしまいになってしまう気がした。

 かつて先輩が言ったーーそれが現実だったかどうかは分からないがーー弱いものが好きという言葉が時々脳裏をかすめた。


 二人の女はついに同じ布団の中に入った。

 少女の方から先輩を部屋に誘った。

 それが欲望だったのか義務感だったのか、少女には分からなかった。

 あれほど恋いこがれた先輩との行為を、心の底から楽しむことが出来なかった。何かが影を落としていて、少女の心を不自由にさせていた。

 先輩に好かれているなら本当に嬉しかったし、好かれていないなら努力したかった。

 好きだという偽り無い気持ちと、好かれたいという純粋無垢な気持ちと、好きであり続けたいというある意味無責任な気持ちが三つ巴の形に絡まっていた。


 少女はまどろみから目を覚ました。隣

 で寝息を立てている先輩を起こさないように布団から這い出ていく。

 頬にキスをして、好きですと呟いた。

 裸足で踏んだフローリングはひやりと冷たかった。

 何がそうさせたのかは分からなかったが、久しぶりに天井裏へ行ってみようと思い立った。

 もう一度先輩を見て、眠っていることを確認する。

 あの空間はまだ健在だった。

 埃一つたまっていないようだった。

 ヒトミちゃんのところまで進んでいき、モニターの電源を入れる。

 少女はこのとき忘れていた。

 最後に使ったときに"initialize"を押していなかったことを。

 ヒトミちゃんは少女が訪れない間もずっとシミュレーションし続けていたのだ。


 画面を見ると、そこでは先輩が少女の首を絞めていた。

 また計算間違いだ、と少女は思った。

 自分に言い聞かせた。

 猫を殺してしまうような劣化コピーだ。

 人間を殺したって不思議じゃない。

 少女の身体からは尋常ではない量の冷や汗が吹き出していたが、少女はそれにすら気がつかなかった。

 それほどまでに、モニターが表示する光景に衝撃を受けていた。


 ふと、少女の肩をぽんと叩くものがあった。

 少女は悲鳴を上げながら振り返った。

 それは荷物を持ったおばあちゃんだった。

 少女には状況が理解できなかった。足下を見ると財布が落ちていた。

 少女は嫌な推理をした。

 続いてジジジジジッと、いつの間にか現れたらしいセミが羽をバタつかせていた。

 少女は全てを理解した。


「先輩、見てるんでしょ。出てきてよ」

「よく私だと分かったね」

 背後から首を締め上げられる。

 少女の意識はだんだんと遠のいていった。

「『非常に興奮(好意)』だって。相性ばっちりみたい。やっぱり私はあなたのことが好きだよ。現実でもよろしくね?」


 何もかも見られていたのは私の方だったのだと、少女は恥じた。

 そして現実の自分に対して同情し、同時に祝福した。

 あなたは間違いなく先輩に好かれている。


 末永くお幸せに。



   "initialize"

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原因と結果 丸井零 @marui9

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