この世界にたった一人だけ
古月
この世界にたった一人だけ
気づけば部屋は薄暗く、窓の外は薄ぼんやりと茜色に染まっている。
今日もまた、無為なままに一日が終わろうとしている。
椅子に座って呆然としているのは、一人の小説家だ。ただし頭に「自称」が付く。ただ多少の文章が書けるだけの、爆発的な人気を得るでもなく、ランキング上位とは無縁などこにでもいる一般人。
『作者様、どうしましたか?』
ポコン、とパソコンの画面に吹き出しが現れる。こちらの集中が途切れたことに気づいたのだろう。画面上の女性アイコンがいつものにこにこ笑顔から真顔になってこちらを見ている。
青味のある薄緑色の帽子を被ったこの女性アイコンは、最近はやりの執筆支援AI『リンドバーグ』、通称『バーグさん』だ。アイコンをクリックしてやると専用ウィンドウに美麗な3Dグラフィックの彼女がそこに出現する。
「どうにも書けないんだ」
『今日は358文字も書いたじゃないですか。何も書かないよりはマシです』
にっこりとほほ笑むバーグさん。こちらは思わず苦笑が漏れる。
「ちなみに、過去十日間の総執筆文字数は?」
『少々お待ちください。……358文字です』
何も書かない日が多いのは事実だ。なにしろ仕事がある日に小説を書く暇なんてない。だから執筆作業は休日にまとめてやることになる。
週に一回、3000文字前後の定期更新を続けるにはそれを上回る速度で執筆を進めなければならない。だというのに、今日書けたのは358文字だけ。何がマシなものか。
そんなありさまだから、長年続けてきた連載をストック切れで一時休載するハメになってしまうのだ。
「筆を速くしなくちゃ。有名作品はみんな定期的に一定分量を公開している」
『私は速さよりも面白さの方が重要かと思いますが。二十年もあればバカでも傑作小説は書けます』
さりげなくバカと罵られた気がしたのは考えすぎだと思っておく。
「この作品は面白いかな?」
『それは何とも言えません』
野暮な質問だった。小説家は肩をすくめる。
「作者自身は、面白いと思っていないんだ」
『そうなんですか? PVもついているし、星評価だってあるのに。少ないなりに』
一言余計だが事実なので仕方がない。
「数行を読んで
『考えすぎですよ。どんなに下手でも三割は伝わるものです。根拠はありませんけど』
ないんだ、根拠。
バーグさんはこちらを励まそうとしてくれている。それはわかる。わかるがゆえに、ちょっと申し訳ない気分になってくる。
「いっそ、筆を折ってしまおうか」
その一言でバーグさんがフリーズした。真顔のまま、ひらひらと揺れていた短いスカートの裾までもが動きを止めてしまっている。今なら中を覗けそうだが、小説家は構わず続けた。
「誰が読んでいるのか、面白いのかどうかもわからない、そんな文章を書き続けて何になる? この世にはもっと、楽しいことは山ほどあるのに。ドライブに出かけたり、映画を見たり、旅行に行ったり、お菓子を作ってみたり、合コンに参加してみたり。なのにどうして、一日中パソコンに向かって、うんうん呻きながらキーボードを叩いていなければならないんだ?」
『でも、読者はいます。確実に、誰かがあなたの作品を読んでいます』
フリーズから復帰したバーグさんがフォローしようとするが、小説家はただただ頭を振った。
「本当に、書けないんだ。書ける気がしないんだ」
そう言って『リンドバーグ』のアプリを終了した。
*****
エディターも支援AIアプリも終了し、ただただ無意味にSNSやネットブラウジングをしていたところ、もう時刻は夕飯の時間を過ぎていた。
以前からそうだった。ついつい時間が流れてしまい、食事を摂るのも忘れてしまう。ただ、今回ばかりは以前と違う。
前はずっと文章を書いていて、あまりにも集中しすぎて、それで気が付いたら時間が過ぎてしまっていた。それが今日は、何もする気がないからとダラダラして、ただただ無意味に浪費しただけ。
インスタントラーメンでも作ろうか。いざ椅子から立ち上がろうとしたそのとき、ピンポーン、と電子音が鳴り響く。来客を告げるインターホンだ。こんな時間に? 何も通販した覚えはないのだが。
ドアの覗き穴から外をうかがう。そして訝しむ。
そこにいたのは一人の――中性的な顔つきをしているので正確には判断しかねるが――おそらくは少年。白いシャツにブラウンの上着、下はカラフルなチェック柄の短パンに膝下ソックス。斜めに掛けたショルダーバッグからは地図らしきものが飛び出している。
(何かの勧誘か?)
無視しようかと考える。が、それとほぼ同時に少年はこちらに視線を向けた。覗き穴の向こうが見えたわけでもあるまいに、両手の親指と人差し指を伸ばし、四角形を作るようにこちらへ向ける。その左目が一瞬、なにやら違う光を見せた気がした。
「こんばんは。ボク、カタリという者です。あなたに『物語』をお届けに参りました」
自己紹介するとは妙な配達員だ――配達員? 首を傾げる。どうにも配達業者には見えないが。名前も日本人らしくない。それに、何を届けると言った?
(さてはやっぱり、勧誘の類か?)
いずれにせよ何らか応対しなければ。扉を開くとすぐに少年の顔がひょっこりと覗いた。その目がじっとこちらを見つめ、ややあってからうんと頷いた。
「間違いないですね。実を言うと本当に届け先がここなのか不安で。ボク、地図を読むのって苦手なんです」
「……用件は」
わざと不愛想な表情で問う。妙な勧誘ならこれで気を削がれるはずだ。だが少年はちっとも怯んだ様子はなく、地図を詰め込んだカバンを何やらガサゴソとやり始める。ぶら下げた妙に見覚えのあるトリのストラップがゆらゆら揺れる。
「確かここに……あ、あったあった」
少年がカバンから取り出したのは小さな一冊の本。
「どうぞ」
「これは……?」
「端的に言うと、これはあなたのための本です。今のあなたに必要な本を届ける、それがボクたち『詠み人』の使命。だからどうぞ、これを受け取ってください。あ、お代は不要なので」
無料配布本か? とりあえず貰える物は貰っておけな性格だったので、受け取っておくことにした。ソフトカバーの新書サイズ、厚みはほんの数十ページといったところ。外装は晴れた空のような青一色。
開いてみる。一行目を見た瞬間、動きが一瞬止まった。
もう一行。気が付けば玄関を閉め、椅子に戻っている。
さらにもう一行。食い入るようにしながらページをめくった。めくってめくってめくってめくって、あっという間に最終ページまで読み終わる。あっという間に、といいつつも、実際には一時間以上が経過していた。
本を置いた手がすぐさまマウスを握る。起動したのはエディターと『リンドバーグ』。
『作者様、今回の執筆目標はどのように設定しますか?』
バーグさんは優しい表情で、つい数時間前のやり取りなど覚えていないかのようにいつも通りの問いを投げる。
「書けるだけ」
小説家は答えた。
「書けるだけ、書く。書きたいから、書く。書いて書いて、書きまくる」
バーグさんは一瞬真顔になって、それからまたいつも通りの表情を見せた。
『はい、一緒に頑張りましょう。でも無理は禁物ですよ?』
それからバーグさんは少しためらったようにして、もう少しだけ言葉を続けた。
『作者様は私に問いました。これは面白いのか、と。それはAIである私からは何とも言えません。ただ一つだけ確実に言えるのは、その物語を書けるのはこの世界にたった一人だけ。あなた以外の誰も、その物語を紡ぎだせる方はいないということです』
*****
駅までの道を歩いていたカタリの携帯が鳴る。見れば一通のメール。送信者名は『Lindbergh』、内容は一言だけ。
『ありがとうございました』
カタリは肩をすくめて、「どういたしまして」とだけ返した。それからうーんと腕を組んでなにやら考え込む。
「何か気になることでもあるの?」
問いかけたのはカバンにぶら下がった種族不明の鳥のストラップ。それは意思を持ったかのようにぴょんと跳ねると、たちまち三十センチほどのサイズにまで膨らんだ。そのままポンと胸元に飛び込んでくるのをカタリは受け止める。
「だってあれ、『
「良いんじゃない? 要するにあれがあの人にとって必要なら、『詠目』のあるなしは関係ないよ」
「それ、ボクを『詠み人』にした本人が言う?」
「トリは人ではない。トリである」
よくわからない言い逃れを始めた。
さっき届けたあの一冊、あれは執筆支援AI『リンドバーグ』の分岐体の一つが準備したものだ。とある作者が著しく執筆意欲を無くしている。どうにかしてほしい、と。そして手元に送られたのがあの一冊だ。
それはリンドバーグがあらゆる手を尽くして拾い集めた、あの小説家が書いた作品に対する読者の反応だ。ポジティブなものもあれば、ネガティブなものもある。作者本人が知っているものもあれば、知らないものもある。それらすべてを一冊にまとめたのが、あれだ。
「作家はね、自分を孤独だと思っているんだ」
トリが訳知り顔に言う。
「だけど実際は、大勢の人がすぐ側にいる。すぐ側にいるけど、作者はそれに気づかない。勝手に悩んで勝手にもがいて、勝手に消えてしまうものなんだ」
「だからって、あれでいいの?」
「いいんだよ。人が物語を紡ぐのに、高尚な理由や技能なんて要らないんだ。遅くったっていい、拙くったっていい。自己満足でもいい、野心を持ってもいい。それが、創作というものなんだよ」
「そんなものなんだ?」
「そんなものなんだよ」
ふーん、と呟いて、カタリは歩む。
さて、明日の届け先はどんな人だろう?
(了)
この世界にたった一人だけ 古月 @Kogetsu
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