第9話 冬解けの海辺

 桜の花が綻んで、薄桃色の花びらが風と共に踊っている。運の悪い花びらが私のくせ毛に巻き込まれたから、それを丁寧に取ってまた風に乗せる。

 年を越えて、一月が行き、二月が逃げ、三月が去ろうとしているこの季節。

 春になると途端に日が伸びて、私とソラが一緒に居られる時間は短くなった。ここのところは日の入りも見られていない。

 今日もまた、私は一人空と海の曖昧な境界を眺めながら佇む。遠くで大きな尾鰭の跳ねる影が見える。


「桜なんて見るの何年ぶりかな」


 声に視線を下げると、防波堤が消えて入り江が現れる。入り江の中央ではソラが気持ちよさげに泳ぐソラが、風に揺蕩うそれに手を伸ばして嬉しそうに笑った。私はガードレールに寄りかかりながら、彼女に笑い返す。


「綺麗な桜の下には死体が埋まっているって本当?」

「そんなの迷信でしょ」


 迷信みたいな相手に言うのもおかしな話だけれど。彼女も頷いて「そうよね」と言う。


「美しいものは全て悲劇の上に成り立っている、なんて……悲しすぎるもんね」


 水面に下りた花びらをソラは指先で水面を波立てて少しもてあそんで、けれど沈んでしまったのか手を止め水面を残念そうに見つめている。

 彼岸に飾っていた花を一輪持って来てあげたら喜ぶだろうか。そんな事を考えていると、ソラが嬉しそうな黄色い声を上げた。


「あらミドリったら、今日は可愛い格好なのね」


 肩口に大きなフリルの付いた桜色のロングシャツに、デニムのレギンス。少し大人っぽい春コーデ。


「さっきまでゆうみちゃんのお家で遊んでいたの。だからおめかし」


 彼女は素敵ね、と笑ってくれて、その事が嬉しさと共に少し照れ臭い。


「止まることをやめたのね」

「ここに居る限り止まっていられないんだって諦めたのよ」


 どうしたって何もかもが理不尽に、目まぐるしく、変わってしまうこの場所で。私達は変わり続けながら、変わる事を恐れながら、ここで生きて行くしかないのだと飲み込んだのだ。

 もしかしたらそれは私だけの特別な事ではないのかもしれないと、あの黒い髪の大好きな人を思い浮かべながら。

 ざあざあと、波の音がする。春の暖かさを孕んだ海風が私の髪を撫でる様に乱していく。

 風も音も裂くように、遠くから鐘の音が鳴り響く。子供が家に帰る合図。


「私もう帰らなきゃ。今日はお兄ちゃんが通信塾受けるから日だから、私とお婆ちゃんでお夕飯作るんだ」


 そう、と彼女が頷いた。私はガードレールに預けていた体を起こして、彼女に手を振る。


「またねソラ」

「ええ、またねミドリ」


 振り返された手を尻目に、私は赤く染まった海を背にする。

 私のすぐ後ろで、一際大きな波が音を立てて当たって砕けた。

 それはまるで『いつでも待っているよ』と言っているような気がして、けれど私は振り返る事はしない。

 夕日に伸びる影を踏むように、私を待つ家へと歩き始める。

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海に棲み、大地に棲み 加香美ほのか @3monoqlo

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