第8話 彼方の愛

 小雨が私の顔を流れた。私の目を伝って流れた。私の走る後ろを、こつんこつんと小さく固い音がいくつも跳ねている。

 息が苦しい。たまりにたまった胸の中の水が、決壊してもう止められない。息ができない。生きていけない。ここではもう生きていけない。

 潮に満ちた海を見下ろす。コンクリートの壁まで波がうっている。

 構うことなくガードレールの下をくぐると迫る波が消えて、岩の削れた入り江が現れた。夜の帷はとっくに落ちたはずなのに、空には暖かな赤と藍が入り混じり、一面を満天の星空が彩っていた。

 波は静かに凪いでいて、月を映した水面が誘う様に優しく揺れる。


「ダメだって言ったじゃない」


 いつだかの夢の様に、ソラが入り江の中心に揺蕩っている。揺れる水面を裂いては沈む、白く透けた尾鰭が月に輝く。


「変わりたくないよ」


 変わりたくない。ずっと、ずっとこのままでいたい。あの人がそれを許してくれるなら、手を離さないでいてくれるなら、それでいいと思ったけれど。


「でも変わりたくないって思うのは、私の我儘なんだ」


 けれど、その想いが、兄の未来さえも閉ざしているのだとしたら。私が兄の足枷になっているのだとしたら。これ以上、どうしてあの人を縛ったりできるのだろう。

 波の音がさざめいて、私の事を呼んでいる。私は履いていた靴を投げ出して、来ていた上着を脱ぎ捨てた。


「お願い、私を連れて行って」


 引いていく波を追う様に足を踏み出して、月を映す黒い水面へ身を投げる。

 次の瞬間全ての音が消えて辺りは黄金色の泡に包まれた。口からごぼりと泡が零れて水面に上がっていく。

 息苦しさはない。冷たさも。身体を纏う潮の流れが、まるで柔らかな毛布の様に心地よかった。こぽりこぽりと零れる息が、吸い寄せられるように天に昇り、白い水面の幕ではじけている。

 泡のベールの奥にソラが見える。もうその身に黒い衣装は纏っておらず、代わりに黒い鱗に包まれた魚の尾と、白くて美しい大きな鰭が彼女を飾っている。


「ミドリは海に愛されているから、だからきっとここでも生きていけると思う……でも、そうしたらもう帰れないよ。もう本当に変われなくなっちゃうよ」


 海の中でも彼女の言葉ははっきりと聞こえて、私は「良いよ」と言うつもりで口から泡を零した。

 ずっとここにいたい、ずっと、私を厭う誰かのいないこの場所で。誰かを変えてしまう事のないこの場所で。

 ソラが首を振る。悲しそうな顔で、首を振る。

 近くの水面から何か大きなものが飛び込んで来て、金色の泡が再び私達を包む。

 泡のあわいに黒が見えたと思うと、伸びてきた腕に私の腕が強く掴まれた。そのまま引き寄せられて抱かれて浮き上がり、金の水面の幕を突き抜けて私達は空気を大きく吸った。


「はあっ、はっ、ごほっ」


 咳き込む苦しそうな声。見上げた先には見慣れた顔。兄が、私の身体を力強く抱いていた。


「何で」


 私の声が震えている。兄の身体はもっと震えていた。震える腕で、必死に私の身体を抱きしめていた。

 私が、こんな所へ来てしまってもなお、この人は私の手を握り続けてくれるのか。


「でもお兄さんは、こっちには来られないよ」


 側にソラが浮き上がる。私は彼女を振り返り、けれど兄が彼女を見る事はない。兄は私と岸を交互に見つめ、陸に戻ろうと波を掻く。兄は彼女に気付いていない。


「選べる事は多くないの。海を選ぶか、お兄さんと大地に帰るかよ」


 海へ行きたい。ここでなら穏やかに生きていける。悲しい事は何もない。何かを変えてしまう事ももうない。

 私の想いに応える様に、波が私達を流して沖へと誘う。けれど兄の手が私を掴んで離さない。

 優しい人、大好きな人、離さないでいてくれる人。でももう良いの。


「お兄ちゃん、もう良いの。お願い離して」


 私が兄の腕を解こうと力を込めても、抱く力は増すばかりで解いてはくれない。


「良いってなんだよ! 帰ってくるって、そう、言ったじゃないか……!」


 私がもがいても、暴れても、離してくれない。


「お願い離して、離してよ」

「絶対に離さない」


 声が震えている。触れる肌が、体が、氷の様だ。

 波に揉まれる腕から血の気は失せ、唇は紫色に染まり、濡れた黒い髪の端が白く凍っている。海に招かれていない身体がこんなにも凍えているのに。こんなにも冷たくなっているのに。


「ねえ離して! お兄ちゃんが死んじゃう!」

「死んでも離さない!」


 どうして、と金切る様に叫ぶ。もうこの人の手を離してあげたいのだ。もうこの人からこれ以上何も奪いたくないのだ。それなのにどうして、何一つ私の思うようになってくれない。


「だって! 碧さえいなくなった世界で、僕は一体どうやって生きたら良いんだよ……!」


 絞り出すように叫ばれた言葉に、思わず暴れる手を止める。見上げると兄の今にも泣きそうな顔が目に映った。

 ――――ああ、この人も変わる事を恐れているのだと、その時初めて気が付いた。


「お願いだから行かないで……僕に、君を守らせてよ」


 縋るような声に、視界が滲む。ぽとぽとと白い真珠が肌を跳ねて海へ落ちて、兄にだってそれは見えていたはずなのに。この人は大人しくなった私の身体を抱き絞め直すと、再び岸を目指して波を掻く。潮が私だけ引く様に押し流してもなお、兄は波を掻く手を止めない。


「どうしたい?」


 ソラが私に問いかける。兄を置いて海へ行きたいのか、兄と大地に帰りたいのか。

 海へ行きたい。もう何も憂う事のないこの場所に。私を迎えてくれるこの場所に。心穏やかでいられるこの場所に。そうしたらどんなに楽なのだろう――でも。


「でも私……お兄ちゃんを置いていけない」


 こんなにも愛してくれるこの人を置いて、海に行くことは出来ないと、そう思った。

 私の言葉に、ソラが笑って頷いた。


「海でも大地でも、一人は寂しいものだもの」


 ソラの白い手が水面を撫でる。

 彼女の前の水面が盛り上がり、大きな波が私達を飲み込んだ。私達は抗えない力に押し流され、どこかへと運ばれる。潮と泡の奔流の中で上も下も右も左も分からなくなって、ただそれが私達を帰してくれているのだと言う根拠のない確信があったから。

 私はただ、私を離さない兄の背に手を回し、その冷たい肌の奥の確かな鼓動だけをずっと感じていた。



 ――

 ――――

 ――――――気が付いた時、私達は二人で道端に倒れ込んでいた。

 見上げると赤と藍の混ざる幻想的な星空は姿を消し、夜の闇が辺りを包み込んでいる。小雨は雪に変わっていて、兄の黒い髪に白く積もっては溶けて消えた。私は襲って来た空気の冷たさに体を震わせた。

 確かにさっきまで海にいたはずの私達の身体は少しも濡れていなくて、脱ぎ捨てたはずの靴と上着が側に転がっている。まるで全部夢だったかのような錯覚に陥る。


「お兄ちゃん」


 未だに私を抱き絞め続ける兄に声をかけると、呆けた顔をしていた兄が我に返って私ごと起き上がった。


「……碧!」


 名を呼び、痛いくらいに抱く腕に力を籠める兄に、私もまた背に手を回してその胸に顔を埋める。


「ごめんねお兄ちゃん……ごめんなさい」


 濡れていなかったはずの兄の胸元がじわりと湿る。私はそのまま兄の胸で、声を上げて泣き続けた。

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