第7話 水野 蒼

 高い空の下、海を遠くまで見通しながら、岩の岸辺を辿って歩く。海風に服がはためいて、膝を風が撫でる。


「あれ、ワンピースなんて珍しい」


 声に振り返ると、岸辺に驚いた顔のソラが佇んでいる。私は捲れそうになるスカートを慣れない仕草で押さえながら、ゆっくりと彼女のいる場所まで歩く。


「今日は……お母さんが来るっていうから」

「おめかししているんだ」


 ミドリはお母さんが好きなのね、とソラが笑う。あまりに確信を持ったその口調に、私は素直に小さく頷いた。


「好きだよ」


 私はね。でもお母さんは違う。今日だって本当は、お母さんは私に逢いたくて来てくれるわけじゃない。分かっている。

 それでも、少しでも私は喜んでいるのだと伝わってくれたら良いと思って、かつてあの人が作ったこのみどり色のワンピースに身を包んだ。こんなこと、未練がましいだけだって気付いているけれど。


「うん、可愛いよ。似合ってる」


 ごちゃごちゃと考え込む私をしり目に、何の掛値もなくソラが笑む。彼女のその言葉に少し安心して、私は空の隣に腰掛けた。

 空はもう随分夕暮れに染まっていて、冬至は少し前に過ぎたのだけれど、まだ陽が落ちるのは早いように感じる。


「もうあと少しで今年も終わっちゃうね」

「あれ、もうそんな時期? そもそも今年って何年?」

「……2016年」


 もう年の瀬だと言うのにそんなとぼけたことを言うのだから呆れてしまう。ありありと顔にも出ていたのだろう、ソラは私の両頬を両手で挟んで「そんな顔しないでよお」と明るく笑った。


「この歳になるとね、自分の歳覚えているので精一杯なの」

「飽きないよね。覚えられないんなら生まれた年に179を足したら良いんじゃない?」


 でもそんな相変わらずの彼女に、緊張していた気持ちが少しほぐれる。

 ざあざあと、海の波が寄せて引いていく。私を誘うように、靴の端を波が濡らす。


「追わなくていいの?」


 悪戯に彼女が聞く。まるで私の答えなんてもう分かっているかのよう。


「お兄ちゃんがいるから」


 どうしようもなく惹かれるけれど、追いかけたくて仕方ないけれど。言ったのだ、どこにも行かないと。手を離さずいてくれるあの人の側にいようと、そう決めたのだ。


「そうね、一人は寒いものね」


 見上げると、ソラの水色に揺れる瞳がどこか遠くを見つめている。


「……ソラは寒い?」

「寒さには慣れたよ」


 いつかどこかでもやった問答。ソラの答えは前と同じ。


「慣れたら、平気になるの?」


 ソラは首を横に振った。


「気付かないフリが上手くなるだけ」


 それは「平気」とはどう違うのだろう。

 私は手を伸ばしてソラ冷たい手を取った。ソラはそれをくすぐったそうに笑って、少しだけ遊ぶように手を絡める。けれどすぐにするりと解かれてしまう。


「ねえミドリ、貴女のお兄さんはどんな人?」


 唐突に聞かれて、兄を思い浮かべる。咄嗟に思い浮かぶのは、兄の笑顔。


「よく笑う人」


 楽しい時も、嬉しい時も、少し困っている時でさえ、いつだってその細い目をさらに細めて笑っている人。泣くよりも、怒るよりも、哀しむよりも、笑っている方が幸せなのだと知っている人。


「割と不器用で、ちょっと頑固で、凄く優しい人」


 本当は料理なんて全然できなかった癖に、手早く動く作業が苦手な癖に、腰の悪いお婆ちゃんに負担をかけないためにと台所に立っている。

 決めたら曲げない、頑固な優しさを持っている人。

 側にいてくれる人。手を離さないでいてくれる人。


「ずっと前に喧嘩したことがあって、私つい『大嫌い』って言っちゃったの。そうしたらね、お兄ちゃん怒りながら胸を張って『僕は大好きだけどね!』って言い返してきたの」


 どんな時でも私を大好きでいてくれる人。私の大好きな人。


「じゃあ大丈夫よね。だってミドリにはそんなに素敵なお兄ちゃんがいるんだもの」


 そう、大丈夫。きっと大丈夫。私達が変わらないでいられる限り。


「……ああもう帰る時間だね」


 顔を上げると、もう陽が完全に落ちて黄昏時。空の藍が少し見る間にも広がっていき、取り残された雲ばかりが赤い。もうきっとあの人が家に着いているだろう時間。

 母の泣き顔が頭をよぎり、途端に気持ちが怖気づく。


「まだもう少しだけ……居ちゃダメかな」


 つい、言葉が口を突いて出てしまった。けれどソラは首を横に振る。


「ダメよ、もう帰らないといけないの」


 ソラが優しく諭すように言った。


「大丈夫、なんでしょう?」


 そんな聞かれ方をしたら、私は頷くしかない。仕方なく、入り江を背にする。

 岩を登りきり、名残惜しさに振り返ってもそこには波の高い海が広がるばかりで、もう入り江は見えない。

 寒々しい空からはらはらと小雨が降っていて、私は葉の落ち切った街路樹の下を選びながら、ためらいがちに家路を歩く。


***


 いくら変わらないことを望んでいても、理不尽なまでに世界は変わってしまう。

冷たい小雨が降り止まない。


 玄関から家へと入ろうとして、いつもは使われていない玄関横の客室に明かりがともっている事に気付いた。

 レースカーテン越しに二つの影が見えた。窓越しに籠った声が聞こえてくる。


「…………が……りの事がしん……なのは分か……れど」


 女性の声、これは母の声だ。何か月も聞かなかった、けれど間違えようもない母の声。

 私は捻りかけていたドアノブをそっと離して窓辺に寄る。見つからないようにより身を小さく、より息を殺しながら、一層耳をそばだてる。


「……った方が良いんじゃないかと思って、あなた来年は受験生なんだし」


 兄の話だ。兄の話をしている。


「元の高校に戻って勉強した方が蒼のためなんじゃないかってね。あっちの方が良い大学も多いし」

「母さん、それは碧も一緒なんだよね?」


 鋭さの滲む兄の言葉の後に、短い沈黙。ああ、だってそんな事、分かりきっている。


「……いいえ、碧はまだお婆ちゃんに見ていてもらおうと思っているわ」


 兄の影が伸び上がり、追って重いものが倒れたような派手な音が響く。


「母さんは僕に碧を置いて行けって言っているの?」


 兄の声が低く重く響く。生まれた時からずっと一緒にいたけれど、こんな声を聴くのは初めてだ。いつも、私を叱る時さえ穏やかな兄のこんな声を私は知らない。


「勝手な事を言っているのは分かっている」


 逆に、母のこの声はよく知っている。何度も聞いた、怯えた声。


「でもまだ私はあの子が怖いの。目や髪もだけど……鱗なんて、普通じゃないわ」


 スカートの上から太ももに触れる。固い凹凸をなぞる。髪の色が抜けた。目の色が変わった。足には鱗が生え始め、最早私は涙を流して泣くことさえできない。

 それはそれは正しく化け物の様で、私ですら怖いこれを母の怯える気持ちも分かる。

 耳の奥で波の音が私を誘う。


「碧が行かないなら僕もここにいるよ。碧を一人にはしない」


 波の音をかき消すように、兄の声が聞こえてくる。けれど母の声も止まらない。


「けど貴方の将来だって大事でしょう? ここには予備校すらないのよ?」


 沢山の事が変わった。家族も、友達も、生きる場所も。もうこれ以上、何も変わって欲しくないのに。目まぐるしく物事は浮いて沈んで変わり果てて、私一人を置き去りにしていく。


「蒼は自分の人生をあの子のために捨てるつもりなの!?」


 ああ、息が苦しい。喘いでも、喘いでも、酸素が吸えない。胸の水が私の首を締め付ける。

 ああ、あの海に行きたい。波の音に包まれたい。今すぐに。

 私は衝動のままに走り出した。


「……碧?」


 兄の声が私の背を追った気がした。けれど振り向かない。振り向くなんてできない。私はただただ走り続ける。

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