第6話 祝福
父の怒鳴り声が頭に響く。母の泣き顔が脳裏をちらつく。逃げる様に裸足で駆け出してたどり着いた砂浜を思い出す。
「……私の目の色も、髪の色も、最初はお兄ちゃんと同じ色だったんだよ」
以前はよくそっくりな兄妹だと言われていた。そう言われることがとても嬉しかった。
「多分……悲しい事があったんだと思う」
病人の様に青白い顔でいつもより早い時間に帰宅した父。父の告げる言葉に母は驚き、そして崩れ落ちて啜り泣いた。兄が不安そうな顔で私の手を引いて居間から連れ出して、私達の背中を両親の聞いたことのない声が追った。
「それは私には分からなかったけれど、きっと凄く、凄く悲しい事で、その事で家族が苦しんでいる事だけは分かったの」
あの日から私の家族は変わった。父が毎日家にいて、母が家を出る日が増えた。二人が苛立った顔で、あるいは悲しげな顔で、時に兄を巻き込みながら、言い合いのような言葉を交わすことが増えた。
週に一度が三日に一度になって、あっという間に毎日の日常になった。
「それが辛くて、変えたくて、でも私にはどうしようもできなくて、どうしようもできない事が悲しくて……悲しいから逃げ出して、それで声が出なくなるまで泣いていたの」
辛い事、悲しい事で胸の水がいっぱいになったら、逃げる様に海に来た。
海は水でいっぱいだから、少しくらい増えても構わないだろうと思った。
海は音に溢れているから、もう一つくらい増えても分からないだろうと思った。
いつだって変わらず迎え入れてくれる場所。海は私の確かに安らげる居場所だった。
来る日も来る日もただ泣いた。泣いて、喚いて、変化を願った。そうしたら。
「まるで少しずつ涙に溶け出して行くみたいに、私が髪や目の色が抜け始めた」
最初はほんの一房髪の色が抜けて、目の色がほんのり明るくなった程度。日に焼けたのかと思っている内に、日に日に金が増え、目の色は碧を増し。そして、私の変化は、それだけには留まらなかった。
指が太ももを辿る。布越しに触れる、固い凹凸の感触を確かめる。
「……私が変わって、私の周りはもっと変わったよ」
去っていく父の背が蘇る。奇異なものを見るクラスメートの顔が蘇る。好奇と偏見に染まった囁き声が蘇る。お母さんの恐怖に歪んだ目が蘇る。
「変わって欲しかった。でもこんな形で変わりたくなかった。こんな風に変わって欲しくなかった。だからもうこれ以上、何も変わらないで欲しい」
兄だけだった。兄だけが、変わらず私の手をずっと握っていてくれた。
「変わらないものなんてないよ。海でさえ、百年も経ったら姿を変えてしまう」
ソラは私から垂れ下がる金糸に指を通す。沈みかけた陽に照らされて金糸が煌めく。
「お兄さんの、夜空みたいな色も良いけれど……この髪も、夕陽を返す水面みたいな色でとても綺麗じゃない」
首を振る。膝を抱えて、瞼を閉じる。
何も見たくない。何も聞きたくない。誰にも見られたくない。
「私は、私の色が嫌い。私が嫌い」
「私は好きよ」
ソラの手が私の手に重なった。
「ミドリがミドリを好きになるには、どうしたらいいのかな」
首を振る。変わりたくない。もうこれ以上変わりたくはないのだと。変わるのであればもうあそこにはいたくないのだと、首を振る。
***
どんなに私が変わりたくなくても、現実は容赦がない。
「……母さんがね、来週こっちに来たいって」
学校から帰ると、テスト上がりで私より早く帰ってきていた兄からそう告げられた。
「そう」
私は冷静な体を保ちながらランドセルをおろす。
年末年始だし、もしかしたら来るだろうなとは思っていた。だから、驚きはない。それでも緊張しないと言ったらウソになるけれど。
「もし……もし碧が嫌なら、母さんには僕から言うよ」
そう言う兄の口調はただただ優しい。それは凄く魅力的な提案で、だからこそ私には苦しい。
「私は大丈夫。お母さんに伝えるなら、気を付けて来てねって、そう伝えて」
胸が苦しい。息がしにくい。ああ早く海に行きたい。
「じゃあ私、海に行くから」
そう言って兄の脇を通って玄関に行こうとすると、兄が私の手を取った。
「ねえ碧、今日は僕も海に行って良いかな」
思わぬ兄の申し出に少なからず戸惑ったけれど、でも見上げた兄が私よりずっと苦しそうな顔をしていたから、私は頷く以外にはできなかった。
二人で玄関を出て、道を歩く。いつもの道ではなく、砂浜へ出る道だ。なんて言っても、岩場の事は兄には未だ内緒だから。
砂浜に着くとそこには転々と人がいて、ある人はウェットスーツとボードを抱えてサーフィンを楽しみ、ある小学生は棒倒しに興じ、またある家族は小さな子供と貝殻を拾い集めていた。
前から「ファイ・オー」という掛け声とともにジャージの集団が近づいてくる。そのうちの一人が私達に気付いて手を振った。兄もまたそれに手を振り返す。
「よう蒼」
整頓された列から外れ、彼は足踏みをしながら兄と話す。
「これサッカー部の走り込み? キツそう」
「めっちゃキツい。砂に足持ってかれるんだよなあ……って、あれその子は?」
「妹だよ」
彼は兄の言葉に少し意外そうな顔をして、けれどすぐに笑みを浮かべた。
「可愛い子だね。こんにちは」
「こんにちは。兄がいつもお世話になっています」
私がお辞儀を返すと、「小さいのにしっかりしてるね」と彼は朗らかに笑った。
「斎藤! そろそろ戻ってこーい」
あっという間に遠くに行ってしまった集団から大きく声が飛んできて、斎藤と呼ばれた彼は大きく手を振り返した。
「うーっす今行きます! じゃあまた明日な」
「また明日」
斎藤さんが走っていき、私達もまた歩き始める。猫に小魚を投げる釣り人の横を通り過ぎ、キャンパスを持ったセーラー服姿の集団とすれ違い、人気の少ない方へと歩く。
「あそこはどう?」
海の家の解体跡に残っていたベンチを兄が見つけて、私達はそこに腰を下ろした。兄が持ってきたブランケットを私の肩にかけた。
「寒いね」
兄はかじかむその手をこすりながら笑う。良いものがあるよ、と言いながら持ってきたリュックから水筒を取り出す。湯気立つカップを差し出されて、中を覗くと紅茶が揺れていた。息を吹きかけながら少しずつ飲むと、甘さが口に優しく広がる。
暫く私達は無言で波打つ水面を眺める。
海の波がざあざあと音を立てる。呼ばれているように思えて、その音にどうしようもなく惹かれる。
「ねえ碧」
海の音を遮る様に、兄が私の名を呼んだ。
「碧は……僕に隠れてあの場所に行っているね」
「……うん」
ごう、と音を立てて海風が吹いて、砂が舞い上がる。私の手の上から、兄さんが私の乱れる髪を押さえる。
「ごめんなさい。でも……」
言葉を音にする前に、兄が首を振った。
「うん、分かっているよ。碧は賢いから、僕があそこに行くことを止める理由はちゃんと理解していて……それでも行くのは、あそこにはきっと僕には分からない何かがあるんだね」
風が止む。兄の手が、私の頭を撫でる様に往復して、それから私の肩を寄せた。
「僕は碧を信じているよ」
兄を見上げる。目が合うと兄は笑って頷いて、けれど不安そう眉を寄せた。
「でも本当を言うとね、碧が僕の手の届かない所に行っちゃうんじゃないかって、時々凄く、怖くなる」
図星を突かれて私は兄から目を反らしそうになる。
けれど肩に乗る兄の手がほんの少し震えている。私は私にかかるブランケットを兄に寄せた。代わりに兄にすり寄って、少しもたれるように体を預ける。
「お兄ちゃんがいるから、私はどこにも行かないよ」
兄だけが私の手を握っていてくれた。手を離さないでいてくれた。だけど。
「心配かけてごめんね、お兄ちゃん」
だけどこの人は、この大地のどこにだって行けるのだろうと思う。変わる事を恐れず、変わった先が良いものであるように、この大地をちゃんと歩いていける人なんだ。
私とは違って。
再び、下から煽るような風が吹いて、私の髪が兄の顔に舞い上がる。黒い兄の髪に、私の黄金色の髪が混ざる。
兄と妹なのに、私達はあまりに違う。違うという事が、こんなにも悲しい。
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