第5話 陸呼吸

 窓から見える空が青く、机を照らす日差しは柔らかい。少し雲はあるけれど、よく晴れた綺麗な空だ。きっと今海に行けば、透けるように青い海が見られるのだろう。私の一番好きな海だ。

 けれど私は小学生で、学校で授業を受けなければいけない。ふう、とため息を吐いて教科書に視線を戻す。


「姉は美しい髪と引き換えに手に入れたナイフを姫に渡します。王子の愛が手に入らない今、それだけが彼女の助かる道でした」


 教師の低く伸びる朗読に合わせて、教科書の文字を追う。幼い頃映画で見た御伽噺の原作。悲劇に彩られた海物語。

 先生の朗読と重なって、黒いスカートから覗いた、波を泳ぐあの柔らかな白を思い出す。

 何となく、私はあの暁の逢瀬の事を、あるいは夢の話を、あえてソラに聞いてはいない。あれが夢でも本当でも、どちらでも同じことの様な、そんな気がした。


「ですが王子を殺すことを選べなかった彼女は海へ身を投げ、泡となって消えました――これはデンマークの作家アンデルセンの童話ですが、このような人魚伝説は世界各地にあり、この町にも近いものが根付いていて……」


 教師の言葉を遮る様に授業の終わりを告げるためのチャイムが鳴る。


「あら。では、本日はここまでにしましょうか」


 教師が教壇を下りて出て行き、途端教室はがやがやと騒がしさに包まれた。


「ねえねえGGの新曲聞いた? めっちゃ良くて」

「今日の放課後商店街集まってかくれんぼしようぜ」

「ゲームやりすぎで昨日爺ちゃんに取り上げられちゃってさ」


 会話があちこちで行きかっている。私はいつも通り、本を開いて目を落とす。こうしていればたいていの場合、騒ぎは私の外で過ぎ去っていく。たいていの場合は。


「ねえねえ、みどりちゃんもGGの新曲聞いた?」


 珍しく話を振られた私は手元の本から顔を上げた。騒がしかった教室に、一瞬の静けさが落ちる。


「ごめんね……私あんまり音楽分からないの」


 笑ってそう言うと、彼女は残念そうに「そっかぁ」と肩を下げた。


「あたしは聞いたよ~GGの『ラズベリー・ビリー』。MIKEのソロのとこ、かっこいいよね」


 横から入ってきたその言葉に、下がった彼女の肩が嬉しそうに上がった。


「そうなの! 今日MIKEとKOTAが深夜ラジオのゲストで出るから、パパの借りてこっそり聞くつもりでね」

「へえ、夜更かしなんてワルじゃん!」


 一瞬たゆみかけた話の流れは円滑に、穏やかに、また巡り始める。あはは、と他のみんなも笑っていて、また教室に喧騒が戻る。円満。平穏。

 その事に安堵し、読書に戻ろうとして、けれどそれは新たな声に阻まれる。


「ねえ、みどりちゃん」


 反対側から掛けられた声に振り向くとクラスメートの女の子が二人、少し緊張した様子でこちらを伺っている。


「なに?」


 努めて朗らかな口調で返す。また少し、教室が静かになった気がするのは、自意識過剰なのだろうか。

 彼女達二人はお互いに顔を見合わせて、腹をくくったと言わんばかりに前のめりに身を乗り出した。


「今日ゆうみちゃんの家で遊ぶんだけどみどりちゃんもどうかな?」


 一息で言われた言葉に勢い負けて一瞬呆ける。

 意味を理解した瞬間、「友達いないの?」と言う明るいソラの声が蘇った。

 今日の放課後に予定は特にない。学校を帰った後やる事と言えばいつも通り、海に行く程度。であれば後は簡単。笑顔で「うん、一緒に遊ぼう」こう返すだけ。そしたらこの二人は、花が開く様な笑みを浮かべてくれるだろう。遊んで、話して、お菓子を食べて、気が合えば、私達は友達にもなれるかもしれない。

 きっとそれが普通なんだ。分かっているのに。


「ありがとう、でもごめんね。今日はちょっと予定があって……」


 なのに私の口から零れたのは、何度目かの嘘の言葉。予定なんてない癖に。どうせ海を見るだけの癖に。

 ついこうやって、当たり障りのない適当な理由を付けて断ってしまう。


「そっか……急だったもんね、ごめんね」

「ううん、誘ってくれて嬉しい」


 別にこの二人が嫌いなわけじゃない。誘ってくれて嬉しいのは本当。

 ただ、誘いの手を取る事が怖い。取った手を離されるかもしれないことが怖い。変わってしまう事が、変えてしまう事が怖い。

 チャイムが鳴って、先生が教室に入ってくる。二人が名残惜し気に席に戻って、私は内心安堵する。

 耳の奥でざあざあと波の音が鳴る。あの場所が恋しくて、早く放課後にならないかな、と思う。


***


 ざあざあと、寄せては返す波の音。切り裂くように冷たい風が岩を撫で、肌を撫で、通り過ぎて行く。雲一つない空の下、太陽の光を照り返し、水面が黄金に輝いている。

 相も変らぬ風景、音、感触。毎日飽きるほど浴びているこの光景に、心の底から安堵する。冷たい空気を吸って吐くと、肺が満たされて芯が緩む。ほお、と吹いた息が白く霞んで消えた。


「私、人間向いてないのかも」

「どうして?」


 笑って返すソラの、その長すぎる黒のスカートの裾は今日も波にもてあそばれている。その裾の奥は見えない。


「陸に居るとき、何だか渦潮の中で溺れているような気がする時が何度もあるの」


 私は低い岩に昇っては引いていく白い水際を見つめる。波を追う様に手を伸ばすと、跳ねた雫が腕を濡らす。


「でもね、海に来て波の音とか風の音とか聞いていると、何だかとても安心するの。息がしやすくなったみたい。海で息がしやすいなんて、魚みたいでしょ」


 いっそ人間なんてやめて、本当に魚になれたら良いのに。魚になって海に抱かれて、この音に包まれて、深い深い水底で誰にも見つからずに静かに眠る。

 ざあざあと、波が寄せては返る。波の音が、風の音が、私を透かして底で響く。

 もしも魚になれたなら。そうしたら、きっとお母さんももう私を見て怯えた顔を浮かべたりしない。もう何一つ変わる事なんてない。

 ざあざあと、波が寄せては、帰っていく。まるで手を招いているように。こちらにおいでと言う様に。


「帰れなくなるよ」


 左手を冷たい手に腕を取られている。その冷たさにハッとする。いつの間にか、私は水面へと大きく身を乗り出していた。


「どんなに海がミドリを愛していても、どんなにミドリが海に焦がれていても、ミドリの帰るべき場所は大地だよ」


 ソラがゆっくりと私の腕を引いて、私の身体を膝に抱いた。私はソラにもたれかかるように腰を落とす。


「それでも陸は息がしにくいの」

「どうしても?」


 どうしても、だ。ずっと、もうずっと、胸の水が首を絞めて、息ができない。


「どうして?」


 もう一度ソラが聞く。ソラの腕の中から仰ぐ彼女の瞳が、あの日の空と重なる。

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