第4話 彼は誰時

 夕暮れ時に海へ通う日々を繰り返す。変化はなく、だからこそ穏やかな毎日。

 その日もいつも通り海から帰ってきて、玄関で牛乳とコンソメの香りにお腹を空かせる。


「おかえり」


 台所から学ランにエプロン姿の兄が覗いた。


「今日は寒かったからシチューを作ったよ。結構自信作」


 黒い制服の肩口と髪に白い斑が浮いている。どうやらホワイトソースから作る無茶でもしたらしい。


「ただいま。お兄ちゃん、服と髪に小麦粉ついてる」

「えっ、本当?」


 兄は洗面所に入って行って「ああ~」と気の抜けたような声を上げる。私もその後をついて洗面所へと入った。

 私に気付いた兄が、わざとらしい口調で「あ、そう言えば」とこちらを見る。


「母さんからね、手紙来ていたよ。リビングのテーブルにあるから」


 過ぎるくらいに軽い口調で告げられたそれに、私は努めて冷静に「分かった」と頷いた。兄は二秒ほど私の顔を見つめて、それから洗面所から廊下に顔を出す。


「婆ちゃーん、小麦粉って水で洗えば落ちるー?」

「だめだめ、服用のブラシがあるからこっちおいで」


 兄が出て行って、空いた洗面台で手を洗う。

 潮風にかさついた顔を洗って鏡を見ると、濡れた金糸の隙間から二つの翡翠が私を見つめ返す。


「その顔やめてよ。お兄ちゃんが心配するじゃない」


 けれど鏡の私は不満げに眉を顰めるばかりで、私の言う事なんて聞いてはくれない。これにはため息を吐くしかない。

 重い足取りでリビングに行けば、二通の封筒があった。あて先はそれぞれ『蒼』と『碧』と書いてあり、どちらもすでに開封されている。


「……ごめん。先にちょっと見たよ」


 私に気付いた兄が申し訳なさそうに言う。私は首を横に振った。


「良いよ、大丈夫」


 封筒からは便箋が二枚出て来て、人より角ばった良く知る母の字が並んでいる。


『お久しぶりです、元気ですか』

『もう学校には慣れましたか』

『お友達は出来ましたか』

『お婆ちゃんからは二人とも良い子にしていると聞いています』

『二人と一緒に居られないのは寂しいです』


 そこかしこに当たり障りのない言葉が連なっていて、何だかそれが私達の距離を明け透けにしている気がした。


『あなたに起きたことを受け入れられず、とても悲しい思いをさせてしまった事、本当にごめんなさい』

『お母さんはあなたを心から愛しています』


 最後の文を読んで、一つ、息を吐く。便箋をたたんで封筒に仕舞った。

 嘘っぽい手紙。寂しいなんて、愛しているなんて、書いているくせに、また一緒に暮らそうとは書いてくれないのだ。

 分かっていた。もう私達は変わってしまった。私が変えてしまった。全ては過去の事で、もう戻れない。

 肩から金糸が一房落ちてきて、どうしようもなく腹立たしい気持ちでそれを掴む。

 こんなもの、全然素敵じゃない。素敵なんかじゃない。

 胸の中が冷たい水で満たされて、もやもやと黒い渦を巻く。まるで溺れているみたいに喉の奥で息が詰まる。

 今すぐ、海に行きたい。何も考えず、波の音を聞いていたい。この胸の水を出せないのならばせめて、海に行きたい。


***


「不細工な顔」

「うるさい」


 あはは、と声を出して笑われて、ますます唇がとがる。ソラは私のむくれた頬を指で突いて、目を覗き込んだ。


「で、なんでまたそんなに不機嫌なんですか~?」

「別に何でもない。っていうか、そっちこそ何で海に浸かってるの?」


 そう、ソラの腹から下は海に浸かっていた。海を覗くと、彼女の長いスカートが黒い海に曖昧に揺蕩っていた。波が寄ると広がって、引くとすぼんで、まるで黒い大きなクラゲの様だ。


「そんなの、ミドリがこんな時間に来るからじゃない」

「こんな時間って……」


 私は彼女の奥の海を眺める。

 正面の海は昏く空との境も曖昧で、見上げると欠けた月と明星が藍の様な白い様な空でちらちらと輝いている。もう陽は落ちてしまっているが、いつもと変わらない。誰そ彼の時間。


「いやいやいや、全然違うよ」


 違うとは、何が。分からないけれどすぐに、まあどうでもいいか、と思った。だって波の音に、潮の香りに、こんなに心穏やかになれる。それ以外はどうでもいい。

 そんな私に、ソラはまるで『仕方のない子ね』と言わんばかりに苦く笑って肩をすくめた。


「ところで、ねえ、そんな恰好で寒くないの?」


 ソラに聞かれて、私は私の服を見る。

 緑と白のボーダー、ふわふわと長い毛足。ああ、これは寝間着だ。いつも夜に着ている寝間着。足元を見ると裸足で、岩のひやりとした感触が直に伝わってくる。

 確かにこれは外に出るような格好ではない。冬ならなおさら。けれど……不思議と寒さは感じない。


「寒くないよ。ソラの方が寒いんじゃないの?」


 彼女は私の足元の岩に俯せにもたれかかり、まるで温かいお風呂に入っているみたいにリラックスして見える。


「寒いのには慣れているの」

「海から出れば良いのに」


 ソラは微笑みを湛えながら「いいえ」と言った。


「寒くても、私のいるべき場所はここだから……けれど、ミドリは違うでしょう?」


 違うのだろうか。私もここに居たいのに。ここはこんなにも安心するのに。じゃあ私の居場所ってどこなのだろう。

 寄った眉間をミドリの濡れた指が突いた。


「また不細工。そんなむくれた顔するくらいなら、いっそ泣いちゃえば良いのに」

「泣かないよ」


 鏡に映った私の顔が蘇る。もう泣いてはいけない。それだけはいけない。

 おもむろに、ソラが左手を海に浸けた。彼女の掌を波が撫でる。彼女の掌が波を逆撫でる。波が応える様に形を変えてぶわりと持ち上がった。


「わっ」


 突然大きくなった波が、私の足元で砕けて跳ねた。海を覗き込んでいた顔を飛沫が濡らして、顎から雫がしたたり落ちる。口の中に塩辛さが広がった。

 突然の事に驚いていると、ソラが悪戯っぽく笑った。


「これで、泣いても分からないね」

「だから泣かないって……」


 まるで彼女の掌が波を引き上げたかのように見えたのは、気のせいだろうか。


「泣いたら、軽くなるかもしれないじゃない」


 どうして泣かないの、と彼女が尋ねる。


「泣く程の事じゃないから」

「強がり」

「強がってなんかいない」


 ソラの濡れた手が私の頬を流れる雫を掬った。その手が私の頭を引き寄せるから、私はかがんで彼女の頬に頬を寄せる。


「そんなに胸に水を溜めていたら、いつか破裂して壊れちゃうよ」


 まるで慰めるみたいに頭を撫でられる。彼女に触れた服がじわりと染みて冷たい。

 波が跳ねて私達を濡らす。ぽたりぽたりと、温い水が肌を伝って落ちて行く。海が雫を飲み込んで、跡形もない。


「ああ、もう『彼は誰時』が終わっちゃう」


 私の後ろから強い光が差し込める。空の白が広がって、明星の白がかき消された。海の波が銀色に輝いて、空との輪郭が鮮明になる。

 彼女の肩越しに、波に揺れる彼女の黒いスカートに施された鱗の様な装飾がキラキラと光るのが見える。その裾から、白く透けた何かが覗いている。靴ではない、足でもないそれが、波を泳ぐようにひらりと揺れる。

 よく見たいのに、光る水面が眩しい。


「逢瀬は終わり。また曖昧で不確かでいられる時間に逢いましょう」


 抱いていたはずのソラの冷たさが泡のように消える。海も、空も、全てが眩い光に白く霞んで消えてしまった。



***



 ――――ハッと目が覚める。カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。ふすまの向こうから油の焼ける音と、パンの香りが漂ってくる。

 私の部屋だ。私は、私の布団に入っている。


「夢……?」


 頬に手を当てる。乾いていて、濡れてはいない。手も、服も、全て乾いている。磯の香りもしない。

 身を起こして視線を巡らせると、勉強机の上に母の手紙が置いてある。あれを読んだから、あんな夢を見たのだろうか。手紙を読んだ後の事をよく思い出せない。


「碧、朝ごはん出来たよ」


 兄が私を呼ぶ声がする。今行くよ、と返事をする。

 布団を出ると、ころりと何かが転がり出て来て、私はそれを手に取った。

 柔らかな光沢のある、小さな白い球体だ。一体いつの間に、こんな所に入り込んだのだろう。


「早く来ないとシチュー冷めるよ。二日目でも冷めてまで美味しい保証はないよ」

「うん、今行くね」


 何となく、白い球体をポケットに隠す。廊下を出て、シチューの香りのするリビングへ行く。

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