第3話 逢魔ヶ刻

 翌日も、その翌日も、私はその岩場に行った。

 ソラは不思議な人だ。時間を重ねれば重ねるほどそう思う。岩場には大抵ソラがいて、いなくても空が赤くなる頃に現れた。

 そう、ソラと会うのはいつも夕方の、辺りが朱に染まった時間だけだった。私は青空の下でソラと会った事がない。

 彼女は決まって足元が隠れるほど裾の長い真っ黒のワンピースに身を包んでいて。肩の上で揺れる茶色の髪も、兄よりも高い背丈も、裾の長すぎるワンピースも、どれも遠目で目立ちそうなものなのに、私は彼女を岩場以外で見かけた事がなかった。

不思議な人だ。

 私達は話したり、話さなかったり、海に耳を傾けたり、陽が沈んでいく様をぼんやりと眺めながら時間を過ごして、陽が沈み切ったあたりで別れた。

 互いに過度の干渉はせず、側にいるだけの気を使わないで良い距離感が心地よくて、そんな毎日を何日も何日も繰り返した。


「ミドリって友達いないの?」


 冬も深まってきたころ。唐突に、今日の天気を聞くかのような口調でさらりと聞かれたそれについ固まってしまった。


「……どうして」

「毎日ここに来ているから」


 彼女の顔を見ると、特に含みもない至って普通の顔で、ただ疑問を口にしているだけらしい。

 確かにクラスメート達は毎日の様に遊びの約束を取り付けている事は知っているし、それが普通なのだと思う。


「言っておくけど、クラスメートとは普通に喋っているし仲も悪くないから。毎日学校で会っているし、わざわざ放課後まで一緒に居なくても良いかなってだけで」


「つまりミドリには友達がいないのね」


 言い訳がましい言葉をすっぱりと斬られて口をつぐむ。

 友達はいなくても、別に嫌われているわけでもハブられているわけでもないから問題ない。学校生活に支障はないのだから大丈夫。


「そう言うソラは友達いるの?」


 毎日来ているのは同じだろうと意趣返しのつもりで聞いてみると、彼女はあっさりと首を振った。


「いないいない。ここ百年位は一人で過ごしていたし」

「まだその寒い設定続いてたんだ」


 呆れてため息を吐いて、そこで彼女と初めて会った日の事を思い出す。


「そう言えば……お兄ちゃんにはソラの事話したら『新しい友達』って言われたよ。私達って友達?」


 尋ねて見上げるとソラがそのアーモンド形の目を丸くしている。


「そっか……そうかもね。私達って実は友達だったのかも」

「『実は』って何それ」


 衝撃を受けたと言わんばかりの彼女の表情と物言いについ息を零すと彼女の目がますます丸く見開かれて、それから今度は水色の瞳がほとんど隠れるまで目が細められた。


「ミドリの笑った顔、初めて。もっとよく見せて」

「やだ、ちょっと、やめてよ」


 意識していなかったけれど、改めて言われると恥ずかしい。覗き込んでくるソラの胸を両腕で押し返す。


「あっ」


 ずるりと足元が滑ってバランスを崩す。反射的に手元にあったソラの腕を掴む。


「あはは」


 笑うソラの後ろに真っ赤な空。

 落ちる、そう思った瞬間に、重力とは逆の方向に体が浮き上がった。気付いた時にはソラの顔が目の前にあって、体を彼女の腕が抱いていた。ソラが私を引き留め、結果私は今彼女の胸に倒れ込んでいるのだと分かった。


「ありがとう……」

「うん、冬の海は寒いからね」


 冬でなかったら引き止めなかったという事だろうか。

 ソラの小さな水色の瞳に私の顔が映っている。黄金が映っている。

 起き上がって離れようとしたら、私を抱く腕が力を増した。


「起きられないよ」

「良いじゃない、もう少しこうしていようよ」

「……まあ、良いけど」


 私は良いのだが、決して平らと言えないこんな場所に寝転んで背中は痛くはないのだろうか。寄せた波が岩の隙間を通って彼女を濡らすのが見える。冬の海が寒いと言ったのは彼女自身なのに。


「ミドリはあったかいねえ」


 半面彼女の身体は冷たかった。

 冬の海ほどではないが、波に打たれる岩ほどではないが、それでも血の巡りを感じさせないほど冷たかった。


「あの子もこの温もりに惹かれたのかしら」


 あの子とは誰だろうか。怪訝に彼女を見下ろすとソラは苦笑いを浮かべながら私の頬を撫でた。


「貴女が魅力的で可愛いって話よ」


 私は少し身をよじって彼女の首元に顔をうずめる。彼女の髪の先が私の頬をくすぐった。そうして暫く抱き合いながらソラの血潮の音と海の音に耳を傾ける。

 いつの間にやら日は落ちていたようで、肌寒い風が肌を撫でた。

 空を見れば、もう水平線にほんのりと赤みが残るばかりで、空全体は藍色が強い。


「……そろそろ帰らないと」

「うんそうだね、逢魔ヶ刻が終わっちゃう」

「おおまが……? 黄昏時じゃないの?」


 祖母とは異なる言い方に聞き返すと、ソラは頷いた。


「同じだよ。誰だか分からない彼の人が、人ではないかもしれない時間」


 ソラが私を抱く腕を解いて起き上がる。


「またね」

「ええ、またね」


 私も立ち上がり、岩場を上ってガードレールの下をくぐり、コンクリートの道に下りた。

 振り返るといつも通り、もうソラの姿は見えない。私がこうして背を向けている内に、彼女はいつもどこかへ姿を消してしまう。

 本当に、彼女は不思議な人だ。


「あら、みどりちゃん?」


 声をかけられて振り返ると、少し離れた場所に女の人が立っている。その人がこちらに歩み寄り、二つ向こうの通りに住む奥さんだと気が付いた。


「こんばんは」

「こんばんは。ねえ、今そこから上がってきたの?」


 ゆっくりと歩み寄り、指をさされたのはさっきまでいた岩場で、私は咄嗟に首を振った。


「まさか。ちょっとしゃがんで覗いていただけ」


 私がそう言えば、奥さんはガードレールの奥を覗き、もう一度私を見る。


「……そうよね、見間違えちゃったわ。そもそも今降りられるわけないものね。ちょうど、満潮なんだから」


 じゃあね、気を付けて帰るのよ。そう声をかけて彼女は私と反対の方向へと歩いていく。

 私は彼女の背を見送って、帰路に着く前にもう一度海を覗く。

 眼下ではコンクリートの壁際まで波が押し寄せては砕けている。跳ねた雫が時折道の端を濡らす。入り江を型造る岩さえ沈んで跡形も見えない。

 視線を上げれば遠くまで広がる海が黒々しく、仰ぐ天には厚い雲がかかっている。とても夕日など見えはしない。

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