第2話 水野 碧
翌日。登校初日。
銀杏並木を横目に歩き、金木犀の香る家を曲がり、紅葉に彩られた坂を上った先にある門をくぐる。
職員室に顔を出して、担任から四年生の教室へと案内される。
「転校生の水野碧ちゃんです。みんな仲良くしてね」
代り映えのない紹介と、前よりも人数の少ないクラスメート。平屋の校舎も、広い校庭も、学年しか書かれていない教室の札も。前と違っている事は多いけれど、私を見る好奇心と物珍しさに満ちた視線は変わらない。
担任の先生に指示された席に着くと、机の周りに彼ら彼女らが集まってきた。
「金髪だ」
「目も色が違う」
「みどりちゃんって外国の人?」
「バッカ、名前日本人じゃん。ハーフなんだろ?」
周囲は規律のとれていない音でわあわあと騒がしくて、それらがすべて私に向いている事が居心地悪い。空気が喉に詰まるのを、無理やりに吸って言葉を紡ぐ。
「ハーフじゃないよ。でも、外国の血が混じっているの」
なるべく軽い口調でそう答えれば、皆はそうなんだ、と各々納得した様子で頷いて、また私の目や髪を眺める。
「凄く綺麗」
長く真っ直ぐな髪が印象的な女の子が、羨望で目を輝かせてそんな事を言う。
そんなに素敵なものでもないのに、と思う。
けれどそんな事を言ってこの穏やかな空気に水を差すつもりもないから、私は口角を上げて「ありがとう」と笑い返した。
「ねえ、今日の放課後、一緒に遊ばない?」
今度は活発そうな女の子がそう口にして、他のみんなも同意するよう。私は少し悩んで、けれど首を横に振った。
「ごめんね、引っ越しの片づけをしないといけないの」
誘いから逃げるように、もう本当は終わっている用事をそれらしく口にすると、彼女は気を悪くした風もなく頷いた。
「そっか、じゃあお昼休みは学校の中を一緒に回ろう」
「理科室の裏の池見せてあげる。凄いんだよ、大きな鯉がいるの」
「図工室の彫像も凄いんだぜ」
私は笑って、笑ったふりをして、良いよと皆に頷いた。
放課後。クラスメートと別れ家に着いた私は、ランドセルを部屋に放って、踵を返して玄関で運動靴を引っかける。
「どこに行くの?」
ふすまが開き、祖母が部屋からこちらを覗く。慣れない線香の香りが鼻をくすぐった。
私は踵を靴に押し込みながら「学校下りたところの海岸」と短く答える。
「そう。黄昏時が終わる前には帰ってくるのよ」
「たそがれ……?」
聞いたことのない言葉に首を傾げると、祖母は漢字を書く様に指で空を辿る。
「陽が落ちて間もない、まだ空に赤みの残っている時間の事。少し離れたところにいる人が誰だか分からない時間だから『誰そ彼』」
「へえ……初めて知った。分かった、暗くなる前に帰るね」
祖母は頷いて手を振る。私も手を振り返して、家を出た。
先の十字路を学校とは逆の方向に曲がり、海沿いに十分ほど歩く。たどり着いたのは昨日の岩場だ。今日は昨日より潮が引いていて、現れた岩がまるで入り江の様に海を囲っている。
周りに人がいないことを確認してガードレールをくぐる。そこで、岩影に居る先客に気付いた。先客も私に気付く。
「いけないんだ。お兄ちゃんに怒られちゃうよ」
ソラだ。岸辺に腰掛け、膝を抱えている。長い黒のスカートが少し海に浸かっていた。
「聞いてたんだ」
昨日は兄と入れ替わりに居なくなったと思ったが、何処かに隠れていただけらしい。
ゆっくり岩を伝いながら降りて、ソラの隣に座る。
「悪い子」
「良いの。危なくないから」
昨日とさして変わらない光景。違うところと言えば今日は空に少し雲が多くて、それが全部鮮やかな赤に染まっている。
「そもそも世界に海は一つしかないのに、違うと思う方が間違っているのよ」
砂浜も、岩場も、港も、桟橋も、全て同じ海を覗いているだけなのに。
屈んで、掌を海水に浸す。冷たく、うねって、少しざらついて。ほら同じじゃない、と思う。
「でも、それはお兄ちゃんには理解できないんじゃないかな」
「家族だって……必ずしも分かり合えるわけじゃないものでしょ」
波に乗って何か固いものが手に引っかかって、引き上げてみる。
白い貝殻の片割れだ。欠けはなく、太陽にかざすと内側が虹色にキラキラと光る。海からの贈り物ねと笑うソラを尻目にハンカチで丁寧に包んでポケットに入れる。
「向こうに歩いていけば砂浜があるじゃない」
ソラが学校のある方向を指さす。知っている。私も数回行ったことがある。けれど。
「あそこはいつも騒がしいから。ここが良い」
砂浜は常に誰かしらがいる。彼らの音や目がうるさくて、ゆっくり海の音を聞くことができない。
「もしかして、いない方が良い?」
ソラが自分を指さして首を傾げる。少し考えて、私は首を振った。
「ソラはそんなにうるさくないから、いても良いよ」
ソラは目元を細めて笑う。
「良かった。私も、ここで過ごすのが好きなの」
それきり私達は昨日の様に静かに海の音に耳を傾ける。相変わらず海はざあざあと凪いでいて、相変わらず太陽は海に落ちて行くだけ。ただそれだけなのだけれど、ただそれだけを見ていると私は静かな安堵に包まれる。
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