海に棲み、大地に棲み

加香美ほのか

第1話 海辺のソラ

 悲しい事、辛い事、逃げたい事がある度に、海に来た。

 胸の内の水が溢れそうになる度、海に来た。

 海は水でいっぱいだから、少しくらい増えても構わないだろうと思った。

 海は音に溢れているから、もう一つくらい増えても分からないだろうと思った。

 いつだって変わらず迎え入れてくれる場所。海は私の確かに安らげる居場所だった。

***

 岩場の隅で膝に顔を埋めて、目を瞑る。音の奔流に包まれる。

 寄っては去る水のさざめき。空高くから響く鳥の鳴く声。風が岩の隙間を抜け巻き上がる音。つま先で跳ねる冷たい水音。


「何を泣いているの?」


 混じって、軽やかな声が頭の上から降ってきた。

 閉じていた目を開くと、膝と膝の間に、足元まで隠す黒いスカートの裾が見える。膝から顔を上げれば、紅茶色の睫毛の下から覗く水色と目が合った。


「別に、泣いてないけど」

「あれ本当だ。海も見ないで踞っているから、てっきり泣いているんだと思った」


 目の前に、背の高い知らないお姉さんが立っていた。

 彼女はしゃがんで岩の砂を軽く手で払うと、私の隣に腰掛ける。彼女は髪を右手で、海風にひらめく黒いワンピースを左手で押さえながら、私の顔を横目に覗いた。


「泣いてないなら、何をしていたの?」

「何っていうか……海を聞いていただけ」

「見た方が楽しくない?」


 海を見る。

 紅い夕日に照らされて、水面が黄金に光って見える。遠くではチラチラと魚が跳ねている。


「私、あおい海の方が好き」


 我ながら生意気な言い方だったと思うけれど、隣の彼女は嫌な顔一つせず「私はこの時間も好きかな」と言い海を見ている。

 私の髪が海風にあおられて乱れる。隣では襟足で綺麗に揃えられた彼女の茶髪が風に広がり、夕日を透かして赤く染まっている。


「お姉さん誰?」


 近所で見ない顔だと思う。少なくとも私は、茶髪に水色の瞳と言うこの目立つ風貌に覚えはない。


「お姉さんの名前はソラと言います。君のお名前は?」

「ミドリ」

「木々の?」

「ううん、石の」


 岩場の乾いた場所に濡らした指で『碧』と書く。するとその隣から白い指がのびてきて、『空』と書いた。


「分かりやすくて良いね」


 学校で先生に何度も『アオ』と呼ばれたり、『緑』と誤記されている身としては心からそう思う。

 彼女は笑みを浮かべて、その水色の瞳を指差した。


「晴れた青空の色でしょう? だから、ソラ」


 ソラの指が私の頬に触れる。ひやりと冷たくて、思わず少し身じろぐ。


「ミドリは石と言うより、南の……浅瀬の海によく似ているね」


 私は晴天の水色から目を背ける。


「歳いくつ? 七歳くらい?」


 唐突の彼女の問いかけに、つい私は「なんで」と問い返してしまった。

 私だって自分が大人のつもりはないけれど、身長はそれなりにあるし、そんな幼い子供だと思われたことはなかったから。


「何でって……ここに居るから?」


 ここに居ると何故七歳だと思われるのだろうか。こんな足場の悪い場所、小さな子供は逆に寄り付かないと思うのだけれど。


「十歳」


 歳を告げると、ソラは少し驚いたように目を見開いて、それから「そっか」と何か納得をしたように頷いた。


「じゃあきっと、貴女は海に愛されているのね」


 じゃあ、の繋がりが分からない。悪い人ではなさそうだけれど、変な人だなあと思う。


「そう言うソラさんはいくつなの?」


 兄と同じくらいに見えるから、高校生だろうか。いや、もしかしたら大学生かもしれない。


「『さん』は要らないよ、『ソラ』が良い。私はね、今年で179歳」


 悪戯っぽく笑う彼女に、つい顔を渋くしかめてしまった。


「……子供だと思ってからかっているんでしょ」

「からかってないよ、大真面目」


 どこが大真面目なのだ。変な冗談は寒いだけだからやめてほしい。

 波の音に混じって鐘の鳴る様なチャイムが町から響く。子供が家に帰る合図。

ソラは私から手を引いて町の方を仰いだ。


「家に帰りなさい、だって」

「……まだ、もう少し」


 もう少し、ここにいたい。もう少しだけ。

 私の言葉に、ソラは咎めるでもなく「そう」と頷いて視線を海に戻した。

 チャイムが鳴り終わる。私達の会話も終わり、辺りはまた海の音だけに包まれる。

 波のさざめき、風と岩の合唱、砂の囁き。高い波から跳ねる飛沫が、時折頬や膝を濡らす。


「ああほら見て、陽が沈むよ」


 ソラがポツリと呟く。彼女の言うとおり太陽がゆっくりと、でも確実に水平線に沈み込む。太陽を追うように、背後から赤紫がゆっくりと広がっていく。

 沈み切る間際、より一層強まった光が眩しくて目を細めた。隣から「ねえ」と声をかけられる。


「今なら泣いても分かりにくいんじゃない?」

「余計なお世話ね」


 陽が完全に沈み、辺りが少し暗く藍色に染まる。水平線に残る黄色が頼りなさげにゆらゆらと揺れた。

 辺りの空気が少し冷たくなった気がして、膝を体に寄せて小さくなる。

もういい加減私も帰らないといけないかと考えていたその時、上から「えっ?」と驚いた様な声が降ってきた。


「碧?」


 聞き慣れた声に振り返ると、コンクリートの壁の上のガードレールから身を乗り出す見慣れない黒い学ラン姿が見える。


「お兄ちゃん」

「ちょっと、何しているのこんな所で……ほら、こっちにおいで」


 ガードレールを跨いで上から腕を伸ばす彼に、私も段々になっている岩場を上って手を伸ばす。

 暖かい手に引き上げられ、コンクリートの地面に足を下ろした。


「それじゃあ、私帰るね」


 そう言って岩場を振り向くと、そこにソラはいなかった。辺り見渡してもやはり姿が見つからない。いつの間に立ち去ったのだろう。


「誰か一緒にいたの?」

「変な人」


 これ以上ないピッタリな表現で伝えると、兄の顔があからさまに曇った。


「……変質者?」

「違う。そういうんじゃなくて、変わったお姉さん。自称179歳の」

「自称179歳……」

「水色の目に茶色い髪のソラお姉さん」


 面白い子なんだね……? と言いながら兄は分かった様な、分からない様な顔で頷いた。


「碧に新しい友達が出来たのは僕も嬉しいけど、でもああいう危ない場所に入っちゃダメだよ。足元が悪いし、落ちたら深いし……とにかくここは前の海とは違うから」


 握る兄の手に少し力がこもる。見上げると顰められた眉の下で細い目が、黒い瞳が、私を見つめている。


「ごめんなさい」


 小さく謝れば、兄の眉が安心したように下がった。


「小学校はどうだった? 昼間、婆ちゃんと手続きに行ったんでしょ?」

「どうもこうも、別に普通だったよ」

「普通かぁ、普通が何より」

「お兄ちゃんこそ学校どうだったの?」

「こっちも普通かな。でも校庭は凄く広かった」

「あ、それはこっちも」


 海を背に帰り道を歩く。

 私達の影が道に落ちてぼやけている。どこからかチリチリと虫の音が囁いて、空気が夜に変わっていく。


「こっちはこの時期でも少し寒いね」


 寒がりの兄は少し背を丸くして、握らない方の手に息を吹きかける。それでも長い時間海風に当たっていた私とは違い握る兄の手は温かくて、だったらきっと兄には私の手は冷たいという事で。


「碧は寒くない? 大丈夫」

「うん、平気だよ」


 私は平気だから、寒いのならこの手を離せば良いのに。私が握る手を解いて手を引こうとしても兄は離してくれない。

 背後から強く風が吹いて、潮の香りが鼻をつく。視界を妨げる様に金糸が舞って、兄が私の顔にかかったそれをかき分け梳く様に撫でた。

 潮の香りにまざって、どこからか芳ばしい香りが通り過ぎる。どこかの家では今晩はカレーらしい。香りにつられたお腹がぐぅと鳴って、兄が乱れた黒髪の下でからからと笑った。


「今晩我が家はハンバーグだよ」

「チーズ乗る?」

「もちろん」


 またお腹が鳴る。また兄が笑う。平穏な空気が、私達を包む。

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