第四話 セカンドピアス

 若菜の家には十時ごろまで居させてもらい、そのあとはアパートに戻ることにした。彼女は家族にバレないように簡単な食事を与えてくれ、おかげで俺は夕飯に悩むこともなかった。さすがに、言い争いも終わっていると願いたい。

 若菜は、「もしお母さんたちがまだ喧嘩してたら、戻ってきてもいいからね」と言ってくれた。その言葉だけで充分だった。


 家に帰ると幸運にも二人は冷戦状態で、父は寝室に、母はおそらく街に出ていた。父に気づかれないよう静かに部屋まで移動し、布団に横になった。そして、ゆづるのことを考えた。

 約束を無視して逃げた俺を、彼はやっぱり怒るだろうか。誠実な彼のことだから怒るだろう。でも、俺はそれを受け入れなければいけない。俺にはこれまでのことを伝える義務がある。絶対に話そう。

 まだ恐れは消えなかったが、その意志だけはやっと芽生えた。

 今度は、関係を終わらせるとかではなく、これからのために話し合おう。きちんと思っていることを伝えよう。そう思えた。


 次の日学校に登校すると、先に着いたゆづるが俺を待ち構えていた。周りの生徒は緊張した面持ちで俺たちを見守り、それはこちらにまで伝染した。

 ゆづるは俺と向かい合うと、どうして逃げたのか、約束しただろうとまくしたて、俺に対して怒りをぶつけた。それがなんだか懐かしくて、怖気づきながらも笑ってしまった。

「なんで笑う」

「いや、ごめん。懐かしくて」

 ゆづるはわからないという表情をしたが、すぐに話に戻った。

「――今度こそ話し合うから。今からでも付き合え」

「え、今からは……。ホームルームもあるし、昼休みにしよう」

「そうしたら昨日逃げたじゃないか。いいから僕の言うことを聞け」

 しびれを切らしたゆづるは、少々強引に俺の手を引いた。このままだと授業を抜けてでも連れて行かれそうだ。

「頼む、今日は逃げないから。絶対に。だから昼休みにしよう」

「信用できない」

「昼休みまで教室を出ない。午前中は移動教室もないし、多分問題ない。逃げそうだと思ったら、すぐに捕まえていいから」

 引き下がると、ゆづるは上目遣いでこちらを睨んだ。そして、声を落として唸るように応じた。

「……わかった。今度逃げたら家まで押しかけるからな」

 彼は振り向いて自分の座席まで戻ると、机に伏せた。不貞腐ふてくされると顔を隠すのは彼の癖だ。


 そのあと俺も席に着くと、他の生徒から声をかけられ、どうしたのかと何度も訊かれた。声を荒げるゆづるが珍しかったのだろう。訊かれるたびになんでもないよと適当にかわし、やがて西岡先生が入ってくると質問責めは中断された。

 一時限目が終わってすぐ、ゆづるはこちらに視線を寄こした。そのあからさまな態度に身体を硬くしながらも、俺は次の授業の予習をするふりをした。

 二時限目、三時限目と時間は過ぎていき、ついに四時限目も終了した。チャイムが鳴ると同時にゆづるは立ち上がり、弁当を抱えて俺の元までやってきた。

「行くぞ」

「――うん」

 クラス全員に見送られ、俺たちは教室をあとにした。


 連れられたのは中庭だった。無駄に広いこの学校は、中庭にいくつかベンチが設置されている。といっても、この暑さでは外で食事をする物好きはいない。実質貸切りの状態で、適当に木陰の下のベンチを選んだ。

 並んで座るとしばらく沈黙した。

 二人の間を緊張が走り、俺は手汗が止まらなかった。決心したとはいえ、やはり根の性格はそうそう変わらないらしい。情けない。


 平静を保とうと努めていると、ゆづるが口を開いた。

「悠一は、彼女とは上手くいってるのか」

 いきなり答えづらい質問が飛んできてしまった。

 だがもう、嘘を吐くわけにはいかない。思考を整えて、俺は声を出した。

「別れたよ。昨日」

 驚くゆづるの表情を見届けて続ける。

「本当は、若菜のことは好きじゃなかったんだ。いや、友達としては好きだけど、恋愛のじゃなかった。――俺、怖かったんだ。あのまま関係が進んで、ゆづると恋人とかになるって想像したら。色んなことが気にかかって、怖くて、逃げ出した。一旦落ち着くべきだとか、頭の中では立派な名目を立てて、でも実際のところは逃げたいだけだった。……知られたら俺の親は怒り狂うだろうし、親だけじゃなくて、周囲の人間はきっといい目では見てくれない。そういうのが全部、怖かった」

 しどろもどろに、でも本心で言葉を繋げた。


 こちらを向いて耳を傾けていたゆづるは、俺の話を聴き届けると地面に視線を落とした。そのときに髪の間からピアスが光り、まだ微かに腫れている耳たぶが覗いた。

 彼は何か遠くのものを探すようにして、淡々と告げた。

「――――好きだったよ、僕は。友情とか恋情とか、どの言葉に当てはめればいいのかわからないけど、多分そういう言葉全部の意味で、悠一が誰よりも好きだよ」


「……――ほんとに?」

「ほんとに」

「…………俺は、――」

「悠一が臆病なのは知ってる」

 慌てる俺をゆづるが遮った。

「変なところ自信がなくて、だからいつも人に気を遣ってる感じだった。元々はあんな風によく喋る性格じゃないのに、無理して明るく振舞ってるんだろ? 今更言い訳並べなくてもそれくらいわかってるし、わかってない部分もあとで全部聴く」

 表情を変えず、声のトーンだけを下げて、彼は俺の瞳を見た。

「僕が訊きたいのは、悠一がこれからどうしたいのかだよ」


 ――俺がどうしたいのか。ゆづるとどうなりたいのか。それは、俺がこの夏ずっと考えてきたことだった。

 汗が首筋を伝い、言葉に迷った。なんと言えば、きちんと伝わるだろう。間違えたくはない。

 深呼吸して、俺もゆづると向かい合った。

「――――俺は、ゆづるとこのままでいたい。俺は、ゆづるとの関係が大事だから、ゆづるが大事だから、変に友達とか恋人とか名前をつけて、縛られたくない。この想いが発展しないで友達みたいな距離にとどまっても、発展して恋人みたいな間柄になっても、俺は正直なんでもいい。ゆづると、これからも変わらず一緒にいれるなら、俺はそれがいい」

 気まずい状態なんてもう嫌だ。恋人だろうと友達だろうと、ゆづるの側にいたい。俺の所為で壊れかけた関係を、もう一度元に戻したい。

 この数日で、切に思ったことだった。

 ところどころ目線を逸らしながらも言い切ると、ゆづるは、それが悠一の本心? と訊いてきた。

 俺はそれに、迷いなく頷いた。


 ゆづるはどうなのだろう。ゆづるも同じように思っているのだろうか。

 思っていてほしい。

「……ゆづるは、俺とどうなりたい?」

 心臓の音を抑えながら質問した。

 するとゆづるは一瞬だけ戸惑って、目を逸らして小さく何かを呟いた。聴き取れずになんと言ったのか尋ねると、

「ピアス、お揃いのやつ。新しく買いに行きたい。そろそろピアスホール完成するから」

 と、ほおを赤らめた。


 働きの鈍い俺の脳は意味を理解するのに数秒かかった。気づいて歓喜の声を上げようとすると、ゆづるは口調を強めて試すように訊いた。

「悠一は、本当にそれでいいんだな? 『恋人みたいな間柄』になったとしても、親や周りの目に対しての覚悟は出来たんだな?」

「……――出来たのかって言われると、多分出来てない。俺の弱い心ではまだそこまではいけなかった。でも、若菜のおかげで俺は俺の臆病さと向き合う覚悟が出来た。だから、これからはきっと大丈夫」

 こんなことを言ったら甘いと一蹴されるだろうかと、一瞬だけ不安になった。でも、これが俺のたどり着いた答えだ。だから、大丈夫。


「――わかった。信じる。僕も、悠一とこれから先ずっと一緒にいたいと思ってた」

 このとき静かに微笑んだゆづるは、冗談抜きで、世界一綺麗だと思った。

 もちろん、その言葉の続きを聞くまでは。

「でもその前に言いたい文句が溢れんばかりにあるから、まずはそれに付き合え」

「ええ……、それは逃げたい」

「逃すか。一緒にいたいんだろ」

「いや、それとこれとは話が違って……」

「何が違うんだ。いいから聞け。僕がどれだけ悩んだと思って――」

「それは本当に申し訳ない……」

「申し訳ないなら付き合え。昼休みはまだ長い。訊きたいことも山のようにあるんだから」

「えー……」


 その日ゆづるは昼休みだけでは飽き足らず、放課後まで文句を語り続けた。帰りには招待という形で彼の家に連行され、文句は続行された。主に俺の弱い精神面についての話だったが、聞く限り、ゆづるも相当考えこんでいたらしい。無理もない。俺がゆづるの立場なら、今頃きっと部屋に閉じこもっている。

 その点、彼はとても強い内面を持っているのだと実感する。この一件も、ゆづるのおかげで解決したようなものだ。もちろん若菜の励ましも大きいが。

 俺はこの二人に、心の中で何度も頭を下げて感謝した。


 陽が暮れるまで語り続けたゆづるは、一通り吐き出すと落ち着いたのか、今度は俺の話を訊いてきた。全て話すと彼の喋りは再び熱を上げ、若菜にもう一度謝りに行くよう再三注意をされた。感謝も忘れないようにと付け加えられ、俺は素直に頷いた。

 俺の両親について、彼は何も言わなかった。自分の手に負えることではないと思ったのか、責任の持てない言葉は口にしない。彼のそんなところが、俺はなんだか誇らしかった。


 夜中まで続いた会話はだんだんと速度を落とし、やがて睡魔がやってくると終わりを迎えた。

 長い夏だった。借りた布団に潜って思い返し、これからのことに目を向けた。

 まずは迷惑をかけた人たちに謝りに回って、それから、心の鍛え方を考えよう。俺の両親とも、いつかは一度、話し合わなくてはならないだろう。そのときのためにも、できるだけ強く鍛えよう。今回のように、周りの人たちに必要以上に迷惑をかけなくても済むように。

 そんなことを考えながら、ゆづるの匂いがする布団に包まれた。彼の寝息を聴き届けると、俺も深い眠りについた。

 





 翌朝、夜明け頃に目が覚めるとゆづるはすでに起き上がり、カーテンの隙間から外を眺めていた。

 どうしたのかと訊くと、「この時間って街が青く染まるから綺麗なんだ」と囁いた。俺も彼を真似て外を覗くと、本当に青かった。独特な霞んだ青が、空気や影まで染め上げていて、現世じゃないみたいだった。その光景に俺は脳内の辞書を引き、ブルー・モーメントという単語を探り当てた。

 これをゆづるに伝えると、大層喜んでいた。どうやらずっと前からこの単語を思い出せないでいたらしい。すっきりしたと笑っていた。


 朝陽が昇ると青は姿を消し、刹那的な幻想空間はいつも通りの朝に戻った。

 ピアスを選びに行こう。ゆづるはそろそろピアスホールが完成すると言っていたけれど、彼の耳がまだ腫れているのを俺は知っている。だから、きちんと手入れをして、完璧な状態になったら買いに行こう。

 今度は赤じゃなくて、ゆづるに似合う青のピアスを。

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セカンドピアス @Wasurenagusa_iro

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