第三話 臆病

 ゆづるにピアスを開けないかと誘ったのは、試験前に俺の家で勉強しているときだった。

 その頃ゆづるは、ほとんど毎日俺の家に押しかけていた。俺も毎度、またかよと嫌がりながら、本心では満更でもなかった。

 まあ、なんというか、端的に言えば好きだった。

 おそらくゆづるも俺が好きだったし、それもお互いに気づいていた。一度も言葉にすることはなかったが、俺たちは二人ともそれで満足していたと思う。


 でも正直、俺は不安でもあった。ゆづるは内気で寡黙な性格をしていたから、何を考えているのかわからないことが多かった。初めて話しかけたのも俺からだったし、遊びに誘うときも俺からだった。もしかすると俺は盛大に勘違いをしていて、ゆづるは俺のことを親友としか思っていないんじゃないかと、思うことが時々あった。

 どうやら俺は、人より自信というものがないらしかった。

 ゆづるにピアスを開けないかと誘ったのも、その表れだろう。自分たちの関係に何か証拠が欲しかった。多少ずるいかとも思ったが、あのときは精一杯だった。


「悠一、聴いてる?」

 隣に座る若菜が、不服そうな瞳でこちらを見上げていた。

 今俺の部屋にいるのはゆづるではなく、若菜だ。彼女とはバイト先で出会い、同じ学校に通っているとわかると話すようになった。八月に入ってから彼女に告白され、付き合い始めた。ゆづるが嫌いになったわけじゃない。むしろ想いは募る一方だった。ただ、これは俺なりのけじめだった。

 その頃、ゆづると俺はほとんど連絡すら取らなくなっていた。メールを入れようと思えば入れられたが、ついに新学期まで、俺はしなかった。

 日増しに増える愛おしさに、俺は恐怖を覚えたのだ。

 このままこの気持ちを進めてしまっていいのか。そもそもゆづるは本当に俺と同じ気持ちなのか。仮にそうだったとしても、知られたときの周りの目はきっと冷たい。特に俺の親は、何をしでかすかわからない。勢いだけで突っ走るような真似はしたくない。

 お互いのためにも、一旦落ち着くべきだと思った。

 そのために若菜を利用するような形になってしまったのは、申し訳なく思っている。しかし、ちょうどいいタイミングだったのは事実だ。彼女のことは友達として好きだったし、付き合っていれば、恋愛対象としても好きになれると思っていた。

 でも、物事はそう上手くはいかないようだ。


「ねえ、悠一、聴いてる?」

「ごめん、なんだっけ」

「だから、今週末どこに出かけるかの話」

「ああ……、若菜の行きたいところでいいよ」

「……またそれ。たまには意見してよ」

 若菜とは、最初の頃は上手くいっていた。俺も気を遣っていたし、彼女も一緒に居られるだけで嬉しそうだった。しかし一ヶ月経っても俺が若菜を好きになることはなく、彼女に付き合うのも面倒に感じるようになっていた。

 ゆづると過ごす方がよっぽど楽しい。そんな風に感じてしまう自分がいた。


「そうだ、じゃあ、お揃いのピアス買いに行こうよ。悠一もそれ毎日つけてるけど、そろそろ飽きるでしょ? いい機会じゃない」

 言われて一瞬、緊張した。ゆづると出会ってからは、願かけのように毎日同じものを付けていた。

「いや、これは……。大事なものだから、買い換えるつもりはないよ」

「どうして? 大事なら無理に付けなくても、どこかに仕舞っておけばいいじゃない」

「そうじゃないんだ……。付けてるから、意味があるんだ」

 不機嫌な表情で若菜は睨んだ。

「……意味わかんないよ。悠一、最近冷たくない? 最初はもっと優しかったのに」

 だんだんと声が弱々しくなり、最後には俯いてしまった彼女を見て、俺は泣かれるのかと動揺した。


 どうしたらいいのだろう。俺だって、最初は好きになれると思っていた。でもこれ以上は、彼女を傷つけるだけで、何より失礼だ。

 潮時なのかもしれない。


「……――ごめん」

「…………何それ」

 わなわなと、若菜は蒼白な顔を上げた。

「だから、ごめん」

「……――最低!」

 吐き捨てると、彼女は部屋から走り去った。

 玄関のドアが叩きつけられる音を聴き届け、部屋に一人残された俺は深く息を吐いた。そして、天井に向かって再び謝った。

「ごめん……」






 俺だって最低だと思う。いくらそれらしい理由を並べたところで、若菜を利用していたことに変わりはないのだから。彼女の気が済むまで罵られればいい。

 ゆづるにだって、きちんと説明するべきだ。あんな突き放し方をして。きっと傷つけた。

 全部話して、それで終わりにしよう。

 翌朝の登校中、そう決めた。


「よっ、相原。おはよう」

 数人の男子生徒から声をかけられ、俺はそれぞれに律儀に返していく。決して演じているわけじゃない。こうしてクラスメイトと楽しく話す俺だって、自分であることに代わりはない。ただ、俺は自分をさらけ出すということをしない。単純に、臆病なのだ。これまでのことだって、詰まるところそういうことだろう。俺の心がもっと強ければ、二人が傷つくことはなかった。


 ガラッという大きな音とともにドアが開かれ、ゆづるが教室に入ってきた。一同が驚きを彼に集中させる中、その瞳は厳しく、誰かを探すように動いた。

 いやな予感がした。

 ゆづるは俺を見つけるなり早足で寄ってきて、こう告げた。

「今日の昼休み、話がある。外で一緒に食べよう」

 その声は動作に見合わず冷静で、俺は少し怖気づいた。

 なんと返そうか迷っていると、「約束だから」とつけ加え、彼は席に着いてしまった。


 それ以上は言い返せる雰囲気でもなく、諦めて俺も席に着いた。

 二学期になって席替えをしたこの教室では、ゆづると俺はかなり離れた場所に座っていた。相変わらず窓際前方に座るゆづると、廊下側の中央あたりに座る俺。その距離は意外と大きく、今まで通り休み時間に話すにもいちいち席を立たなくてはならない。今の気まずい状態では、無論そんなことは不可能だ。


 西岡先生が教室に入ってくると、立ち上がってひそひそと話をしていた生徒たちは興が冷めたように席に着いた。いつも通りホームルームは終わり、一時限目、二時限目と授業は進んでいった。

 授業中はもちろんのこと、休み時間まで、ゆづるは一切こちらに目を向けなかった。それは意識的に避けているようで、俺には余計に気まずかった。

 時間が過ぎていくごとにその気持ちは強くなっていき、三時限目が終わる頃には大きな不安へと変わっていた。

 あと一時間でゆづると話さなくてはならない。責められるだろうか。それとも泣かれるだろうか。考えると、急に頭痛がしてきた。

 チャイムが鳴ると同時に俺は逃げるように教室を抜け出し、保健室に駆け入った。保健室の先生には顔が真っ青だと心配され、頭痛がするのだと言ったら早退を許してくれた。


 結局その日の昼休み、ゆづるに会うことはなかった。家に帰った俺は布団の中で蹲り、深い眠りについた。

 話そうと決めていたのに。

 どこまでも臆病なんだなと、いっそ自分を笑いたくなる。






 物音がして目が覚めた。

 部屋を見回すともう暗くなっていて、時計は七時半を指していた。父も帰っている頃だろう。頭痛はもう治ったみたいだが、全身がだるかった。少し吐き気もする。もう一度眠ろうと寝返りを打ったところ、廊下が軋む音がした。

 冷や汗が出た。こんなときに、あの人が帰ってきた。


 部屋のドアを数センチだけ開いて廊下を覗くと、派手な服を身にまとった女が、一服しながらふらふらと台所のある方に向かっていた。

 母だ。母が、帰ってきた。

 普段は昼間に部屋で寝て、夜に家を空ける彼女が、どうしてこの時間にここにいるのだろう。いや、それよりも、このままだと台所で夕飯を食べている父と蜂合わせる。それだけは阻止しなければ。


 ドアを大きく開けて小声で話す。なるべく父の耳に届かないように。

「母さん、どうしたの、こんな時間に家にいるなんて」

 震えながらもなんとか口にした。このまま、父に気づかれずに彼女を部屋に戻すことができれば――。

「んー? ああ、ゆーいちかぁ。ひさしぶりぃ。げんきぃ?」

 案の定、母は大きな声で笑って俺に抱きついた。

 アルコールと化粧の臭いがする。煙草の臭いがこびりついて縮れた髪も、酒で紅潮した肌も、気持ち悪い。


 引き剥がそうともがいていると、物音に気づいた父が奥からやってきた。スーツを着こなし、家の中でもネクタイを取らない父。彼は訝しげに、まるで軽蔑するような瞳で俺たちを一瞥した。

「おい、気味が悪いからやめろ。それと家の中で煙草を吸うな」

 気持ち悪い、と父はつけ加えた。家族にそんなことを言えるお前の方が気持ち悪い。

「ああ? 別にいーじゃないか、タバコくらい。それより、親子をきもちわるいってなんだよ?」

「だから、その態度が不快だと言っているんだ。さっさとやめないか」

「はあ? いみわかんねーよ。不快なら目でもおおってろ」

「そういうことを言っているんじゃない。その態度を改めろと言っているんだ」

 二人は言い合いを始め、俺は蚊帳の外となった。

 こうなるともう手がつけられない。諦めるしかない。


 とばっちりを喰らう前に俺は家を出た。九月の夜はまだ温かく、河原で一泊するくらいなら問題なさそうだった。

 重い脚を働かせ、目眩のする頭で少しだけ思考した。

 何もかもが上手くいかない。

 両親は物心ついたときから喧嘩が絶えなかったが、最近はますます酷くなっている。やっと見つけた居場所も、怖くなって自分で壊してしまった。これから、どうやって過ごせばいいのかわからない。

 また居場所を見つけても、壊してしまうのだろうか。また、人を傷つけるのだろうか。それは嫌だった。もう誰も傷つけたくなかった。

 これに懲りて、もう人とは関わらない方がいいのかもしれない。一人で細々とやっていくのがいいのかもしれない。

 幸せなんて、願ったら駄目ないのかもしれない。

 本気でそう思えた。

 いっそ、このまま家出でもしようか。誰にも別れを言わずに逃げて、新しい土地で暮らそう。俺のことを知っている人のいない、俺とは無関係の人たちしかいない場所で。静かに、寿命が尽きるまで暮らそう。


 朦朧とした意識の元しばらく歩いていると、開けた道に出た。周りは豪華な一軒家が並んでいる。確か、ゆづるの家もこのあたりだった。

「悠一?」

 突然の声に思わず振り返った。

「やっぱり、悠一。どうしたの、こんな時間に」

 買い物袋を下げて心配そうにこちらを窺うのは、若菜だった。

 昨日、俺の勝手で傷つけた女の子。どんな顔をして会えばいい。

 俺は走って逃げようとしたが、もたついた脚では無理だった。派手に転んで頭を打った。

 若菜は心配した声をあげ、肩を貸してくれた。そして俺は、すぐ近くにあると言う彼女の家まで運ばれた。


「お父さんもお母さんもリビングでテレビ観てるから。大丈夫、多分気づかれない。上がって」

 一度家の中を確認した彼女は俺にそう伝え、冷えた麦茶を用意してくれた。

 頭を打った痛みの所為か、さっきより思考が鮮明だった。

 そういえば、初めて彼女の家に上がる。落ち着いた雰囲気の家だった。一ヶ月も付き合っていたのに、別れてからそんなことに気がついた。

「悠一が家に上がるの、初めてだよね」

 彼女の部屋に案内され、ベッドに座った若菜は言った。

 俺はその前にある低いテーブルにコップを置き、正座した。

「……うん。ほんと、ごめん。好きなだけ罵ってくれていいよ」

「…………けが人を罵れるほど、強靭な精神してないわ。――頭はもう大丈夫なの?」

「ああ、うん、おかげさまで……」

 俺は渡された保冷剤を示し、若菜はそう、と答えた。


 そして、沈黙が流れた。

 どうして彼女は俺に声をかけたのだろう。昨日、彼女を酷く振った男なのに。

 疑問に思っても訊けるわけがなく、俺が話題を探していると、そっぽを向いた若菜は私だって気づいてた、と呟いた。

「私だって、そこまで馬鹿じゃないの。悠一が他に好きな人がいるってことくらい、それが男の子だってことくらい、わかってた……。でも告白はオッケーもらえたし、一緒にいれば、ちょっとは傾いてくれるかなって、期待した」

 思いつめた顔をして、若菜はそんなことを口にした。

 驚いて俺は何も言えなかった。若菜は続ける。

「だって、悠一は優しかったけど、たまに上の空なときがあった。私も最初は気にしてなかったけどだんだん辛く感じるようになって、どうしてなのかすごく気になった。その頃、悠一はゆづるって人と喧嘩でもしたのかあんまり喋らないようになってたし、それが原因かなって。訊きたかったけど彼の話になると悠一、笑顔ではぐらかすから。きっと触れられたくないんだろうって、深くは訊かなかった。――そんな気持ちのまま二学期が始まって、悠一の教室に行ったときに気づいたの。ゆづるって人と悠一、お揃いのピアス付けてるでしょ? なんか、すごく納得した。ああ、そういうことなんだ、って。悠一はあの人のことが好きで、だから私のことを好きになることはないんだ、って」

 一息ついた若菜は俺の瞳を見て、ね、そうなんでしょ? と訊いた。


 俺は、かなり動揺しながらも、ここで話さなければいけない気がした。話さなければ、これからずっと後悔する気がした。これが、最後のチャンスだと思った。

 覚悟を決めて頷くと、若菜に話した。何があったのか。俺がどういう気持ちで彼女と付き合っていたのか。さっき夜道を歩いていた理由まで、洗いざらい全部話した。


 全て聴き終えると若菜は、「じゃあ悠一は、私のことが嫌いなわけじゃないんだよね?」と確認した。

「うん。でも、恋愛対象としては好きになれない。……ごめん」

「……――ならいい。許す」

「――え?」

 頓狂な顔をする俺を、若菜は笑った。

「私も、人を好きになる気持ちはわかるから。好きでもないのに付き合ってたっていうのはムカつくけど、そういう弱いところも含めて、悠一が好きだったから。悠一が本当にゆづるって人を好きなら、応援する。私を振ったんだから、絶対幸せになりなさいよ」

「いや、でも、――」

「うるさい。私はもう決めたの、応援するって。あのままずるずる付き合ってても何もいいことないし、虚しいだけよ。……その代わり、私とは友達でいて。約束」

 差し出された若菜の小指は、心なしか震えていた。

 それを見ると、俺は心がいっぱいになって、涙が溢れそうだった。

「――わかった、約束」

 彼女の細い小指に俺の小指を絡め、縦に何度か振った。

 若菜は瞳を細めて無理に笑い、小さく約束、と繰り返した。つり目がちな目尻がくしゃっとなって、大人っぽい顔に幼さが垣間見えた。

「俺、若菜の笑ったときの瞳、好きだな」

 言葉にすると、若菜は驚いた表情をした。次に肩を震わせ、もっと早く聴きたかったと泣いた。

 俺は彼女を抱きしめ、ありがとうと、心の底から感謝した。

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