第二話 勇敢

「泉、ちょっといいか」

 担任の西岡先生に呼び出されたのは他の生徒が帰ったあとだった。

 僕は机に伏せたまま眠っていたらしく、先生に起こされたときには下校時間が迫っていた。クーラーが切れていた教室は蒸し暑く、汗が滲んだシャツは制汗剤の臭いも混ざり、心地悪い臭いがした。まだ外は明るく、夏だな、と思う。


「もう下校時間過ぎるから、資料室で話そう」

「……僕、なにかしましたっけ?」

 まだ半分寝ている頭で考えたが、呼び出される心当たりはない。

「いいから、ついて来い」

 そう言うと、先生は行ってしまった。

 一体なんなのだろうか。眠気が残る身体を引きずって、僕は彼について行った。


 相変わらず蒸し暑い廊下に出て、背の高い後ろ姿を、早足になりながら追った。身長が高いと脚も長くなるのか。先生の歩幅は大きい。普通に歩いているとあっという間に置いていかれてしまう。


 三十代も半ばだという先生は、普段は親しみやすく、おおらかな性格をしている。短く切りそろえた黒髪は清潔感があり、教え方も評判が良く、そのため生徒には人気でよく楽しそうに話しているのを見かける。度量の大きい先生が、僕も好きだった。しかし今日はその優しい雰囲気がなく、なんだか少し怖い。本当に何があったのだろうか。


 連れられたのは二階にある国語科の資料室。先生は僕らの担任でありながら、現代文の担当教師でもある。

 資料の並んだ部屋の真ん中には長机と二つの椅子があり、先生は奥の一つに腰かけた。僕には手前の椅子に座るよう促し、そして、しばらく黙った。


 その間に下校時間を告げるチャイムが鳴り、僕はここにはいるべきではなくなった。室内はあらかじめ準備していたのか冷房が効いており、汗が乾く。

 埃っぽい部屋には僕の対面に、小さな窓が一つだけあった。傾いた陽射しが射しこんでくるおかげで先生の表情はなかなか見えない。


 人を呼んでおいて、この沈黙はなんなのだろう。もしかして本当に何かしでかしたのだろうか。そうだとしたら、早く言ってほしい。


「あの、先生。本当に、僕何かしましたか?」

 耐え切れず、僕は沈黙を破った。


「してないよ」

 と先生は笑った。

「悪い、怖がらせて。下校時間になるまで待ってたんだ。教師の立場で踏みこんでいい話じゃなかったから。勤務時間内は言わないようにって。一応、区切り。強張ってきつい雰囲気になってたけどな」


 どうやら怒ってはいないらしいが、話はより深刻そうだ。

「ああ、そういえば、実は先生も昔、ピアスを開けてたんだ。泉も開けてたからさ。最初は手入れが大変だろう?」

「はい、まあ……」

「俺も高校のときにはもう開けてたんだけど、校則がここみたいに緩くなかったからな。よく先生に怒られてた。みんなでどうやって隠すか考えてな。楽しかったよ」

「そうですか……」


 僕の返答に、先生は苦笑して頭をかいた。

「泉には、前振りなんていらないか。そうだな、本題に入ろう」

 普段よりも崩れた口調の先生は、いつも以上に話しやすい印象に変わっていた。口ぶりからして、生徒の前ではある程度していたのだろう。

 こっちの方がなんだか好きだ。


「……あくまで俺は真剣に話すからな?」と、先生は保険をかけた。「……おせっかいかもしれないと思ったんだけど、あまりに死んだ顔してたからさ。――お前、振られたの?」


「は?」

 見当違いな質問につい声が漏れた。

「待ってください、なんのことですか。そもそも僕、誰とも付き合ってませんよ」

「え、そうなの? 俺はてっきり付き合ってるものだと」

「だから、なんのことですか」

「相原だよ。相原悠一。いつも一緒にいるだろ?」

「あれは――……」

 言いかけて言葉に詰まった。「親友だから」と。本当にそうだろうか。彼は、僕のことなどもうなんとも思っていないかもしれない。僕だって、親友だとは、思っていない。


「何があったか知らないけど、毎朝ホームルームでその顔を見るこっちの身にもなってくれよ。休み前まではあんなに毎日べったりだったのに、今学期に入って、いつも通り話はするものの急に距離を感じるし。どうしちゃったの」


「…………彼とは、そういう関係じゃないです。ただ最近色々あって、ちょっと気まずいだけです」

「テストの点が下がるほど?」

 夏休み明けの確認テストのことだろうか。

「ひどかったんですか」

「ああ。普段より二十点くらいは悪かった。と言っても、元がいいからそれほど目立たないけどな」

 先生は僕を責めるようには言わない。

「でもまあ、言いたくないならいいよ。ただ最近辛そうだったから、誰かに話して楽になれるならそうした方がいい。俺がその相手になれるならもちろんなるし、嫌なら無視してくれ。どっちにしろ、自分は大事にしろよ」


「……結局、先生みたいなこと言ってますね」

「たしかに。そういうサガなんだな」

 先生は笑って、大きく伸びをした。僕の答えを待っているらしい。


 きっと、話した方がいいのだろう。それが自分のためになるのはわかっている。一人で考えてもネガティブな方にばかり持っていってしまって、何もいいことがない。でも、もしもここまで優しい先生が、僕の話を拒絶したとしたら。

 そのときはひどく傷つくだろう。


 先生は一体、どこまで許容してくれるのか。僕はもうこれ以上、立て続けに傷つく勇気はない。


「余計なこと考えてるなら無駄だぞ。大人は結構大人だ。なめんなよ」

 黙りこんでいると、察した先生がにやけた表情で煽った。

 ――この人は、どこまでもかっこいいな。


 陽は暮れて、窓から射しこむ光は消えていた。代わりに夜が顔を覗かせ、室内を豆電球が照らす。先生のことも、もう鮮明に見える。


「――――あの、僕ら、恋人ではなかったんですけど、友人ともいえない距離感だったんです」

 思っていたよりも声が震えた、かもしれない。先生は気づいただろうか。うんと頷いただけだった。


「それで、少なくとも僕は、彼に友人以上の感情を抱いていたんですけど、夏休みに入ると僕が家を離れていたのもあって、しばらく会わなかったんです。そしたらその間に悠一、彼女を作っていたらしくて。でも僕がそれを知ったのは休み明けだったんです」

 本当に、メールの一つでも入れてくれればよかったのに。

「ショックでした。僕はてっきり、悠一も僕と同じ風に感じていると思っていたから。だからしばらく会わなくても、連絡を取らなくても大丈夫だと、休み明けは変わらず過ごせると、そう思っていたんです」


「なるほどね。――話し相手に選んでくれて嬉しいよ」

 僕が一息ついたのを確認すると、少し茶色が混じった瞳を先生は細めた。

「……でも意外だな。俺から見ても相原は、泉と同じ『好意』を抱えてる感じだった」


「どうやら、勘違いみたいです」

「それが今日まで死んだ顔してた理由? 両想いだと思っていたら勘違いで、相原にどんな顔して会えばいいかわからなかった?」

「そうですね……。簡単に言ったら、そうなんでしょうね」

 言葉とは不思議なもので、こんなに心に充満する複雑な感情も、たった一文で表されてしまう。不安や悲しみや恐れも、その裏にどれだけ計り知れない量の想いがあろうとも、いくつかの単語に収束されてしまう。

 先生は現代文を教える教師なのだから、そんなことくらい心得ているだろう。それでも僕の説明をわざわざ言葉にまとめたのは、ひょっとして、感情と向き合わせるためだったりするだろうか。そのためにも、誰かに話してみろと言っていたのだろうか。

 だとしたら、その作戦は結構いい線をいっている。


「先生は、こんな話をしても引きませんね」

「ああ、まあ。三十余年も生きてると、物事をある程度は冷静に見られるようになるんだわ」

 こちらに視線を寄こして告げる。

「だから教師としてではなく一人の大人として聴いたけど、泉それ、相原にどう思ってるのか一回でも訊いたか?」

「…………訊いてないです。でもそんなの、訊けるわけないですよ……」

 彼女を作った彼に、どうして訊けようか。その事実が、一番の答えなのだから。

「相原だって俺たちみたいに何かしら考えて生きてるんだ。泉には計り知れない何かがあるかもしれない。それを知るには、言葉にしてもらうのが一番有効だよ」

「――言葉だって、全てを表現できるわけじゃないです」

「そりゃそうだ。でもそれ以上の方法がないんだから、仕方ないだろう。言葉も元々は意思の伝達のためにあるんだ。泉も、そんなことはわかってるんだろ?」


 わかっている。言葉は、表現には不十分だが、伝達には最適だ。でもだからこそ、たやすく誤解が生まれ、行き違える。

 それは怖いし、何より――、

「…………怖いんです。悠一が考えていることを聴いて、自分が傷つくのが。だって今のところ、この話をしたら九割方は友人の立場すらなくしますよ。……悠一のことになると、僕は感情的になりすぎるんです。だから、怖いんです……」

「それを自分で言える時点で泉は充分に冷静だよ。俺が高校生のときなんて、むしろ感情でしか動いてなかったぞ。両想いだと勘違いして、隣の席の女の子にクラス全員の前で告白して、見事玉砕した」

「それは……、悲惨でしたね」

「ああ。しばらくは笑いものだった」

 先生は頬杖をついて遠くを見つめる。多少、自嘲的に。


 こんなに大きな人でも、無謀な想いに悩んだことがあるらしい。世の中意外と上手くいかないものだ。

 ――僕の想いは、これからどうなるのだろう。このまま何も起きずに時間が過ぎていって、いつかは忘れたりするのだろうか。こんなに悩んでいるのに、数年後には先生みたいに笑ってしまうのか。それとも、思い出すことすらなくなるのか。


 その想像は平和な気もしたが、なんだかものすごく寂しい気もした。


「あ、そろそろ警備の人が施錠に来るな。帰ろうか」

 腕時計を確認して、先生は立ち上がった。会話が中度半端ではあったが、時刻は七時を回っていた。そろそろ帰らなければ、見つかって面倒になる。

 僕も立ち上がって冷房を切る。


 先生は大きく伸びをして、最後のアドバイスをした。

「まあ、さ。とりあえず話してみるべきだと思うよ。言葉ってきちんと選ばないと惨事になるけど、逆にきちんと使えば少なくとも六割くらいは伝わるから。大丈夫。万が一傷ついても、泉は立ち直れる」

「残りの四割はどうするんです。――それに僕は、先生が思ってるよりもよっぽど弱いです」

「それも大丈夫」

「何を根拠に?」


「だって泉、だよ」


「…………真似、しないでください」

 先生は笑っただけで、それ以上は答えなかった。

 あまりに迷いのない瞳で先生が言うものだから、つられて僕も、少しだけ口の端を緩めた。


「じゃあ、帰ります。今日はありがとうございました、西岡先生」

「ああ、頑張れよ」

 警備の人に見つかっても弁明できるように、先生は校門までついて来てくれた。結局見つからなかったので、そこで別れた。

 さすがに七時を回るとあたりも暗く、生温い夜風が肌に馴染んだ。思考を巡らせながら帰るには最適な時間帯だった。

 街灯の影を追いかけながら、冷えた頭で考える。明日、悠一と話そう。






 翌日、いつもよりはやく目を覚ました僕は、まだ夜が明けないうちに家を出た。

 今日は自転車で行こう。朝一の冴えた頭でそう決めた。自転車の鍵は家の鍵と同じ輪に繋がれている。鍵を取りに戻る面倒もない。決定だ。

 人々がまだ寝静まる真っ暗な街を制服で、それも自転車で走り抜けるのには独特な快感がある。おかげでいつもよりスピードを出した自転車はあっという間に河原についた。


 今更だが僕は、そこそこに栄えた街の一軒家に棲む。空気は美味しいとは言えないが人はそれなりに少なく、こうして河原まで来ると空も広い。いい場所だ。

 地面に生い茂る草をかきわけ、開けたところに腰を下ろす。水の流れる音と虫の鳴き声しか耳に入るものがない。静かだ。

 寝転んで空を見上げ、昨日のことを思い返した。


 先生との会話で浮き彫りになった僕の問題は、実際には前々から勘づいていたことだった。僕は悠一と話さなければならない。でもそれを受け入れるのは、昨日までの弱った精神の僕には無理だった。おそらく先生と話さなければ、こうして決心しているのももっと先のことだっただろう。先生は僕のことを「自分で思っているよりもよっぽど勇敢」と言ったが、僕はもっとずっと臆病だ。大人に背中を押してもらってやっと前を向けることもある。先生には、感謝している。


 それはそうと、悠一にはどうやって話そう。唐突に話を切り出すわけにもいくまい。

 まず、呼び出すのはやはり時間のある放課後だろうか。いや、それだと彼女と約束しているから明日にしてくれと言われそうだ。こういう話をするには勢いが大事だから、意識が上を向いているうちに済ませたい。

 となると、昼休みが妥当だろう。「今日は話があるから外で食べよう」と誘えば、察してくれるだろうか。悠一のことだから微妙だ。


 悠一は、明るくて陽気で人当たりがよく、普段は察しがいい。会話をするときもみんなの意図を読み取って、場が盛り上がるように気を遣って発言している。間近で見てきたからこれは間違いない。口数の少ない僕は日々感心していた。

 しかし時々、大事なところで鈍感だったりする。僕が思うに、それは自信のなさが起因していて、彼は極端に好意に鈍かった。


 例えば彼は、誰かに助けてもらっても、それは相手が優しかっただけで自分が好かれているからではないと考えるような人間だった。実際に、誰かに助けられたとき、「俺のためにごめんな」というのが彼の口癖だった。


 悠一は以前からそうした節があり、明るい性格とは対照的に、閉ざした心をちらつかせていた。


 僕が彼の部屋で暇を潰しているとき、ふと何を思ったのか、なけなしの勇気を振り絞って「悠一と一緒にいるの好きだな」と呟いたことがある。すると彼は、「まあ、いろんなゲームとかあるしな、この家」と言うのだ。そのときは羞恥で口を閉じたが、今思えば一言申したい。なぜそうもひねくれた受け取り方をする。何が彼を卑屈にしているのだろう。

 もしかして、今回の一件にもその性格が関係していたりするのか。今日話すとき、この疑問もぶつけてやろう。


 そうして訊きたいことを考えながら、右耳のピアスに触れた。開けてからもう二ヶ月が経ったというのにまだ痛む。ピアスホールが安定するのには三ヶ月ほどかかると聞くが、この調子だともっとかかるかもしれない。耳に触れる癖も直さなければ。


 そろそろ夜が明けそうだった。あたりはかすれた青を帯び、その色はだんだんと濃くなっていった。呼応するように自然の匂いは増し、朝でも夜でもない空間が広がった。

 僕はしばらくその空気を堪能し、肺を満たした。確か、この時間帯に街が青くなる現象には名前がついていたはずだが、なんという名前だっただろうか。思い出せない。

 太陽が現れると空気は落ち着き、まばらに人家から音が鳴り始めた。一、二時間が経った頃、僕は学校に向かうために起き上がった。

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