物語を愛するすべての人たちへ

節トキ

たったひとつの物語

 目の前で、カタリが身動き一つせずじっとこちらを見ている。いつも活動的な彼からは考えられないほど静かなので、呼吸をしているのかと私はつい心配になった。


 ちらりと様子を窺った私に気付くと、カタリは青く澄んだ瞳を瞬かせ、その胸に満ちる不安と期待を煌めく眼差しで訴えてきた。



 私の手にあるのは、白い紙の束。


 そこには、カタリが綴った一つの物語が描かれている。



 この少年、カタリ――カタリィ・ノヴェルは、人の心に眠る物語を一篇の小説にする『詠目ヨメ』と呼ばれる能力を持つ。


 けれど私が今読んでいるのは、他の誰かの物語ではない。カタリが自身で書き上げた、彼だけの物語だ。



 カタリは私に言った。皆と同じように、僕の中にも素敵な物語が眠っているのかもしれない、と。


 しかし詠目は、自分に向けては使えない。だから心の中に在るものを、この手で書き出して形にしてみたい、と。



 それは、とても大変なことだったに違いない。文字を紡いで世界にたった一つしかないお話を創り出すなんて、彼にとっては初めてだったはずだから。


 聞けば、この半月ほどは寝る間も惜しんで奮闘していたという。


 書き終えたばかりの『作品』を持ってきたカタリは、目の下に隈が出来てフラフラだったけれど、しかしそれでも晴れやかな明るい笑顔だった。



『読めばわかるさ!』



 そう言って彼に手渡された物語は、フクロウのようなトリに出会ったことから始まる少年の冒険譚。


 トリに導かれて『心の物語を届ける』という使命を得た少年は、続いてAIの女の子と出会う。この世界で二番目の友となった彼女とラブコメじみたやり取りをしながら、使命を果たさんと日々頑張る内に――少年の心に、ある思いが芽生え始めた。



 自分の手で、物語を作りたい。



 その気持ちが最高潮にまで達した時、彼は意を決して紙とペンを手に取った。それからトリと女の子から小説のルールを教わり、初めて書くという行為に挑む。


 しかし、小説を書くというのは決して楽なものではなかった。


 うまくいかない描写、思うようにいかない表現、選んでも捨てても納得のいく文章にならない言葉達。


 何度も試行錯誤を繰り返す中、少年は何でこんな面倒なことをしているのかと、しまいには書くという行為にまで疑念を抱くようになる。


 筆を折りかけた彼の手を止めたのは他でもない、これまでその目で見てきた数々の物語達だ。


 心を打つ、様々な煌めきに満ちたそれらの存在が胸に蘇った時、少年はシンプルでありながら、いやシンプルだからこそ忘れかけていた想いに行き着いた。



 書きたい。


 下手でもいい、つまらないと罵られてもいい、誰かに伝えたい。



 己に宿る情熱を知った彼は、もう挫けなかった。こうして苦難を乗り越え、筆を握り直した彼の手はついに最終章へと到達する。ラストの締めに向かう最後の三分間は、特に熱い筆致で描かれていた。



 そして全ての力を出し切った少年は、一つの作品を完成させた。その瞬間、彼の全身に巡ったのは、目が覚めたかのような最高の達成感だった。



「……バーグさん、どうして泣いているの? どこか痛い?」



 カタリの慌てた声を聞いて、私は初めて自分が涙を流していることに気が付いた。



 そして、ふと今日が何の日だったかを思い出す。



 今日は、カタリがトリと女の子――私、リンドバーグと出会ってちょうど三年目だ。



「カタリ、この物語はもしかして……」



 涙を拭くこともせず尋ねる私に、カタリは少し照れ臭そうに淡いブラウンの髪を掻いてみせた。



「うん。三周年の記念に、バーグさんにプレゼントしたかったんだ。この三年の間に築いてきた、僕達の物語を」



 うまく書けなかったし伝わらないところも多いだろうけどね、と彼は笑った。



「そうですね、まだまだ未熟なところも多いです。でも……これからですよ」



 今度こそ涙を指先で拭い取り、私も笑った。



「四周年までには、もっとうまくなっているはずです。カタリの書きたいという強い気持ちがあれば、きっと」


「それじゃあ、これからも僕が書いた物語を読んでくれる?」



 カタリが青い瞳を輝かせて問う。



「もちろんです。この私が、徹底的に鍛えてあげますよ!」


「えー! バーグさんは毒舌だから、そこはお手柔らかにお願いしまーす!」



 いつもの調子で笑い合う私達を、トリもまたいつものように空から優しい目で眺めていた。




 三周年、おめでとう。この出会いを、ありがとう。


 そして、これからもたくさんの物語に出会えますように。




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