殻四六の詠み人

koumoto

殻四六の詠み人

 かくの中の世界には、闇に包まれた夜は訪れない。かく自体がうすぼんやりと発光して内側を照らし、夜半を過ぎても白夜のような薄明が続く。そしてそのまま朝を迎える。暗闇はかくの外へと駆逐されたのだ。もう人間の住まうことのない、滅んだ大地の広がる、かくの外へと。

 滅びの世界のそちこちに、夢蝉ゆめぜみの巨大な抜け殻は残されている。かつて地上を蹂躙じゅうりんした夢蝉ゆめぜみの、遺跡のような残骸は、いまでは人間たちの街を覆う半透明な結界となっていた。結界の外では、人は長く生きられない。かくからかくへの移動すら、万全の装備を整え、身命を賭してしか行われ得ない。

 かくにはそれぞれ番号が付されている。そして、四六という、比較的に若い番号を持つかくで、いま、ひとりのびとが――かくの輝きを担うはずの詠み人が――ひどい憂鬱に陥っていた。物語という夢の供給が滞り、かくの放つ光がゆっくりと弱まっていく。


 リンドバーグは坂道をのぼりながら、薄暗い空を見上げた。本来は柔らかな光で街を包んでくれるはずの天蓋たるかくが、闇に浸されつつある。それもこれも、殻四六かくよむに夢を供給するはずの詠み人が、物語を紡ぐことを拒否しているからだ。

「――光あれ」

 鳥人とりびとの置き土産であるリンドバーグは――“羽根のある知恵”によって造られた、支援AIとも呼ばれる彼女は――そういって、自らに備わった照明機能を起動させた。蛍のような光跡を残しながら、リンドバーグは薄暗い坂道をたどっていく。

かくも、たった一言で明るくなってくれるのなら、簡単なんだけど」

 彼女はそう呟いた。


 坂道をのぼった先にはひっそりとした小屋があった。リンドバーグが扉を開けて中に入ると、相変わらず、詠み人は暖炉の前の椅子に腰かけて、ぼんやりしていた。その少年の両目には、白い包帯が巻かれて、痛々しく光を拒んでいる。

「カタリ。なぜ、自ら闇に閉じこもるのですか」

 彼女は挨拶もせずに、単刀直入に切り出した。少年はそれを聞き、声のする方へと顔を向けた。

「リンドバーグかい? 今日はずいぶんと調子が違うね。媚びるような話し方はもうやめたの?」

 皮肉げな少年の口調。カタリと呼ばれたその少年は、どうやらずいぶんと心情がささくれているらしい。

「いまのあなたに必要なのは、ご機嫌取りではないようですから。これなら、話す気になってくれますか? なぜ、物語を紡ぐのをやめたのですか? なぜ、詠目よめを塞ぎ、人々の心を見ようとしないのですか?」

 いつもの可愛らしい笑顔を浮かべることもなく、リンドバーグは淡々と問いかける。

「……わがままなのは承知してるけど。でも、ぼくはもう嫌なんだよ。人々の心は痛みだらけだ。自分たちは見捨てられてしまった。この世界は見捨てられてしまった。……そんな嘆きが、人々の心を満たしている。その場かぎりの、慰めとしての物語をいくら紡いでも、痛みそのものは消えてくれない。……無意味としか思えないんだよ。虚しいとしか思えなくなったんだ」

 少年は憂鬱な声で、ようやく本音の一端を明かした。リンドバーグがいくらなだめすかしても、頑なに口をつぐんでいたはずなのに。かくの光が弱まるように、少年の心も、疲れ、傷つき、弱々しくなっているのだろう。

「カタリ。あなたの紡ぐ物語は、人々を楽しませ、安らぎを与えていました。それは決して虚しいことなどではありません。このかくの中では、物語を紡げる詠み人は、あなただけなのです。あなたが夢を織り、人々の心を震えさせなければ、かくは闇に閉ざされてしまいます」

「暗闇の中で生活するのも、悪くないよ。最初は戸惑ったけど、慣れてしまえばそんなに不便でもない」

 少年は、目を隠す包帯を指し示して、おどけるようにそう言った。

「カタリ、使命から逃げないでください。鳥人とりびとから授けられたあなたの能力は、人々を癒やすための、優しく温かな賜物なのです。明かりは灯しつづけなければなりません。光を絶やしてしまえば、このかくの世界は、本当に終わってしまいます」

「その鳥人とりびとは、いつになったら、帰ってくるんだ? いつになったら、“善き知らせ”を携えて戻ってくるんだ? 滅びの世界に旅立ってしまってから、いっこうに帰ってこないじゃないか。……もう待ちくたびれたよ。ぼくたちはやはり見捨てられたんだ。この世界はもう終わってしまったんだ」

「いつか必ず帰ってくる。鳥人とりびとは、確かにそう約束しました。その時は、いつかきっと訪れるのです。だから、“再臨の時”が来るまでは、夢を織りつづけましょう。明かりを灯しつづけましょう。心を守りつづけましょう」

「偉そうに言わないでくれよ。きみは、どのかくにも存在するんだろう? どのかくでも、どの詠み人にも、同じようなことを話しているんだろう? 鳥人とりびとに造られた支援AIに、心のなにがわかるっていうんだ。きみに心なんてあるのか?」

 沈黙が降りた。詠み人たる少年と、AIたる少女はふたりとも黙ってしまい、ぱちぱちと火のはぜる音だけが、暖炉から響いていた。

「……ごめん。こんなことを言うつもりじゃ、なかったんだ」

「いえ。謝ることはありません。事実ですから」

 リンドバーグはそう言って、カタリに背を向けた。目を塞いでいるカタリにも、その気配は伝わっていた。カタリは自分が恥ずかしくなり、顔をうつむけた。

「……ねえ、カタリ。それなら、私のために、物語を紡いでくれないかな」

 気詰まりな沈黙がしばらく続いた後、ぽつりと、リンドバーグは小さな声で、夢みるようにそう言った。

「……え?」

「私には、心なんてないのかもしれないけど。その詠目よめでいくら見つめても、どんな心も、どんな物語も、私には見出だせないのかもしれないけど。それなら、あなたが、私の心を創ってよ。他人の心から物語を引き出すだけではなくて。あなたが想像した、あなた自身の夢を、私に少しだけ分け与えてみてよ」

「……難しいことを言うね」

「でも、やり甲斐のある挑戦でしょ?」

「たしかに、興味はわいてきたな」

「それが私の仕事だから。詠み人の、夢への恋を枯れさせないことが」

「――わかったよ」

 カタリは、巻いていた包帯を自らほどいた。まぶたを閉じた、端正な少年の顔が、ようやく露わになる。

 ゆっくりと目を開けていく。詠目よめという能力の宿る、他人の心を見通す左目と、なんの能力も宿らないが、他人の表情くらいは見定められる右目を。

 開いた双眼にまず映ったのは、ひとりの少女の、柔らかな笑顔だった。

 詠み人はAIに心を見出だしたのか。あるいは、なにもない虚無を自らの夢で満たしたのか。どちらにせよ、憂鬱に沈んでいた詠み人は、もういちど物語を紡ぎ始めた。

 その物語は、至高の一篇、という名前を与えられた。それがどんな物語だったのかは、詠み人とAIの、少年と少女の、ふたりだけの秘密である。

 暗く陰りつつあったかくが、温かな光に満たされた。四六番目のかくの世界に、夢みる輝きがふたたび舞い戻った。

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