物語配達人

石上あさ

第1話


「あれ、こっちでいいはずなんだけどなあ」

 カタリィ・ノヴェルが雨に濡れないようカバンを胸に抱きながら呟く。

 その郵便配達員を思わせるカバンが示すとおり、彼は「あるもの」を人に届ける仕事をしていた。

「どっかに雨宿りできる場所は――」

 きょろきょろあたりを窺っていると、少し離れたところに寂しげに佇む民家が見えた。

「あった! あそこにお邪魔させてもらおっと」


「…………」

 男はこの日も苛立っていた。

 狭く陰鬱な部屋の中には、足の踏み場もないほど紙くずが散乱している。

「――今日も書けないな」

 焦れば焦るだけどつぼにはまる。

 かつて好きだった雨の音さえ、ささくれだった神経にとっては騒音としてしか響かなかった。

 すると。

「あのー! ごめんくださーい」

 淀んだ部屋の中に、外の世界から明るい声が飛び込んできた。

 誰なんだ、こんなときに。

「…………」

 男は逡巡する。

 普段であれば居留守を決めこむところだけれど、今はなんでもいいから気分転換になるものを求めていた。人に会いたい気分ではないものの、世間話でもすれば少しは気晴らしになるかもしれない。

 

「こんにちは。ボク、カタリィ・ノヴェルって言います」

 カタリィと名乗る来訪者が内側からかもしだす活発さに、男は暗いところから急に明るいところへ出たときのような目眩を覚えた。

「……なんの用?」

「近くを歩いてたら急に雨が降ってきちゃって。よかったら少し雨宿りさせてくれない?」

「……そういうことなら、どうぞ。大分散らかってるけど」

 招き入れながら、男は自分でもどうしてすんなりあげてしまったのか分からなかった。あるいは、もしかするとあの配達員風の人物には人の心を動かす何かがあるのかもしれない。


  ◇  ◇  ◇

 

 男の目に不思議なものが映ったのは、カタリィを比較的きれいな部屋へ招き入れて、一応お茶でも出そうとしたときのことだった。なんと、カタリィのカバンが突然光を放ち始めたのだ。

「それ――いったい……?」

 何が起こっているのかたずねようと客人を見ると、そのカタリィの左目までもがカバンと同じように光っている。

 ただただ当惑するしかない男と対照的に、カタリィは新しい出会いに胸を躍らせるような表情をしている。

「ねえ、心の底に『封印』した物語に心当たりない?」

 そう言うとカバンから光る本を取り出して机に置くと、誰も触れていないのに置かれた本のページがひとりでにめくれ始めた。

 それは、青空へと飛び出した鳥の羽ばたきのようだった。

 パラパラパラとめくれていって、やがて真っ白なページでとまると、今度はなにもないところに勝手に文字が浮かび上がり始め、あっという間にページが埋まり、埋まってはめくれ、しばらくしてから夏祭りの花火みたいな余韻を残して神秘的な現象は終わった。

「心に『封印』した物語――とかなんとか言ってたけど、それがさっきのと何か関係があるの?」

 するとカタリィは光っていた本を大切そうに手に取ると、にこやかに微笑みながら男に差し出す。まるで贈り物でもしてるかのようだった。

 そしてただ一言。

「読めば分かるさ!」

 ひねくれた男はその自信満々な態度にむっとした。そうして、面白くなかったらケチをつけてやろうという意地悪な気持ちで読み始めた。


 物語は、ある少年が一人で悩みを抱えているところから始まった。

 そこから少年の悩みが掘り下げられていくのだが、幸運なことに少年にはその後に素敵な出会いが待っていた。周囲の助けや素晴らしい物語との巡り合わせをきっかけに、うずくまっていた少年は立ち上がり、やがて自分の足で歩き始めた。

 そんな少年には夢があった。

 ある物語が自分の心を救ってくれたように、自分も誰かの役に立てるような楽しい物語を書けるようになりたい、そんなことを願うようになったのだ。

 けれど、現実は少年の思うようにはいかず、さまざまな出来事を経て少年が青年になったときには、もうかつての面影はなくなっていた。

 人のことを分かろうとしないだけでなく、自分のことを分かってもらおうとする努力すらしないで、青年はあらゆることを他人のせいにした。あげくの果てには周りが悪いから自分はこんな目に遭わされるんだ、そんなことまで平気で考えるようになった。

 

 ここまで来れば、男にはそれが一体どんな物語なのか、文字通り痛いほどよく分かった。実際読んでいてかなりこたえるほどだった。

 はじめ、かつて純粋に物語を愛し、物語の力を信じていたころの話を読んでいたところまではよかった。なくしていた大切な気持ち、本当に好きなもの、大事なものを思い出すことができたからだ。

 けれど、そこから先の客観的に示された自分の姿は、あまりに見るにたえなかった。見ずにすむのならぜひともそうしたいと思うほどだった。

 それでも、たとえ読むのが辛かったとしても、それはやはり他ならぬ自分自身の物語だった。そして今まで何も書けなかった理由もようやく分かったのだ。自分の物語から目をそむけつづける作家に、一体なにが書けるというのだろう?

 男は震える手で、しかし弱い心を奮い立たせてページをめくり――

「――!」

 驚きのあまり、目を丸くした。

 そこにはたった数行書かれているだけだったのだ。

 青年はふてくされ、そしてある雨の日に少年がやってきて、それで終わり。あまりにも突然に、なんの脈絡もなく自分の物語は終わっていたのだ。

(いや、これはもしかして終わりじゃなくて……)

 男は数行だけ書かれたページから顔をはなし、より広い視野で全体を見渡した。

 そこには、どうしようもなく広大な「余白」が残されたいた。

 何も書かれていないというのは、そこに虚無があるわけではない。これから思い通りに新しい物語を書き加えることができるということだ。

 それに気づいたとき、男は自分の『封印』が解けたような気がした。

 嫌なことや辛いことの下に沈められていた、本当に大切なもの、物語を書きたいと始めて真剣に決意したときの純粋な気持ちを思い出せたのだ。

 それが顔に表れたのだろう。カタリィが興味深げにのぞきこんでくる。

「それ、そんなに面白い物語だったの?」

 男は苦笑いをしながら答える。

「いいや、つまらない話だ。みっともない男が、しょうもない挫折を経験するのが書かれてるだけだよ」

 でも――と男は付け加える。

「俺はこの物語に出会えてよかった。この物語に出会えてなかったら、きっと一番大切なものを思い出せないままだった」

 それからとくとくとカタリィを眺める。

「それにしても、いったいこれはどういう力なの?」

 するとカタリィは誇らしげに胸を張った。

「実はボク、へんなトリに目をつけられて『詠み人』っていう、物語を人に届ける仕事をしてるんだ。でもそのおかげでさっきみたいに、人の心に『封印』された物語を一篇の小説にできるようになったってわけ」

 物語を届ける――響きからして素敵な仕事だ。

 男が感心しながら、自分も目を通した人が読んで良かったと思えるような物語を書けるようになろう、と考えていると、

「だから、よかったらその物語も預からせてくれない?」

「え?」

 男は間抜けに口を開く。

 自分に酔っている間は気づかなかったけれど、自分の不甲斐なさをつらつら書き並べただけの三文小説なんて黒歴史以外のなにものでもない。まずもって恥ずかしいし、なにより――

「こんなもの読んで喜ぶ人なんてどこにもいない」

 するとカタリィは、下手なお世辞を口にするのではなく、

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

 とだけ言った。

 ここまできっぱり言われると、かえって清々しい気持ちになった。それに、この物語配達人に恩があるのも忘れるわけにはいかなかった。

「……そういうことなら。そんなものでよければ、どうぞ役立てて欲しい」

「ありがと。でも、別に無理にお願いしてるわけでもないんだ。ダメならダメって言って欲しいんだけど、本当に大丈夫?」

 丁寧にたずねられたので、男も改めて手放してよいものかどうか振り返る。

 そして、心からの納得をこめて答える。

「もしかしたら、また必要になるときがくるかもしれないけど、そのときはそのときでなんとかするさ。それに――」

 すっかり散らかった書斎を掃除しなきゃと思いながら、

「俺はまた、新しい物語を書くことに決めたから」

 声に出して言ってみると、すこしだけすっきりした。

 

 やがてあっという間に雨があがり、あがってから始めてただの通り雨にすぎなかったと男は気づいた。

 そして留まり続ける理由はなくなり、物語配達人も旅を再開することになった。

「あげてくれてありがと」

「こちらこそ、ありがとう」

「縁があれば、またどこかで会うかもね。それじゃあ!」

 そういって元気よく歩き出した先から、いきなり進む方向が違う。

「あの……カタリィ。町はそっちじゃない」

 呼び止めて訂正すると、けろっとした顔で振り返った。

 ちゃんと地図を手に持っているけれど、あれじゃ意味がなさそうだ。

「よくそんなので旅ができるね」

 男がそう言うと、照れくさそうに笑いながら

「まあ、たしかに時間はかかるし、色々大変なこともある。でもね、面白いことだってたくさんあるよ」

 真っ直ぐな瞳でカタリィ・ノヴェルは言うのだった。

「最初から『こう!』って決めてるときより、色んなものに出会えるんだ。もちろん楽しいことばっかりじゃないけど、それでもやっぱりときどき思いがけないくらい素敵なことがあるから、なんだかんだでやめられないんだよね」

 せっかく旅をしてるんだもん、道草だって楽しまなくっちゃ。

 そういってカタリィが笑う。 

 男も頷く。

 きっと、自分がずっと書こうとしてきたのは、そういう話だったのだ。

「それじゃあ、今度こそ。気をつけて」

 男は遠くなってゆく背中に手を振る。

 カタリィはこれからも様々な人と出会い、たくさんの素敵な物語を届けるだろう。

 雨上がりの空には虹が輝き、足下では水たまりがきらめいているのだった。

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