こいやみ

玉山 遼

こいやみ

 その男はえらく人好きのする男だった。

 小ざっぱりとした風貌、さわやかな笑顔、煙草は吸わないし酒は嗜む程度に留める。男を褒めそやす声は飽くほど聞いたが、謗る声は全くと言っていいほど聞かなかった。

 大学のサークルで、私は男と知り合った。私も男もそのサークルは辞めてしまったが、なんとなく、付き合いが続いていた。

 男と私は、その場で意気投合した。後から思えば、都合の良い女を見つけたつもりだったのだろう。

 男は恋人を殆ど作らなかった。私が唯一知っているのは、男が他に入っていたサッカーサークルのマネージャーの、名前は忘れてしまったが、ふんわりとした可愛らしい女の子だけだ。写真を見せてもらったとき、なるほどこういう女の子は所謂さわやかくんと付き合うのが妥当だ、と一人頷いた。

 しかし、数か月して男はその女の子と別れた。どうやら彼女は、サークルの飲み会で男の悪いところばかりをあげつらっていたらしい。しかも毎回。耐えかねた男は別れを告げた、という話だった。

「口を開けば俺の悪口ばっかりでさ。いい加減、我慢の限界だったんだよね」

 それはあの女の子が、男を他の女に取られまいとして必死に講じた策だったのではないか。人好きのする、人望も厚い男を狙っていた女の子は他にもいたのではないか。

 まあ、幼稚な策ではあるが。私はハイボールを飲み下しながら、愚痴を聞いていた。

「この後、家来る?」

 そして、常套句。酒を飲むと必ず、私を誘った。他の女を同じように誘っているかどうかは、正直どうでもいい。

 男は恋人がいる間も、他の女と寝た。近ごろ流行っているらしいマッチングアプリで相手を探し、あの胡散臭いまでのさわやかな笑顔で誑かし、ホテルへと誘ってゆく。その話を私は男の口からしか聞かない。

 男は寝た女を評する。先ほども聞いた。顔は良いけど痩せぎすで抱き心地が悪かっただの、遊び人だか知らないが緩かっただの。聞くに堪えない話を、例の笑顔で話すのだ。サッカーの試合の話でもしているのかと勘違いしてしまう。

 それをげらげら笑いながら「その女、痩せてれば可愛いとでも思ってるんじゃない」だの、「それは自分でしすぎたんでしょう」だのさらに評する私は、相当に意地も口も悪い。

 人好きのする男の、爛れた一面が垣間見える瞬間を、私は好んでいた。男は周囲の奴らから「とにかくさわやかでいいヤツ」と評されている。しかし私からしてみれば、お子様で、口が悪く、欲を抑えない、どうしようもない馬鹿にしか映らない。それを剥き出しにしてくると、ようやっと、男から人間らしさが滲み出る。

 それは彼の誘いを断らない私にも言えることだった。私だってお子様で、口が悪く、恋人がいるというのに誘いに乗る、どうしようもない馬鹿だ。友人は自分の鏡とは、よく言ったものだ。

 誘いをかけてからも、だらだらと元恋人の悪口を言っている男を伝票ホルダーで軽く叩いて、勘定を促した。割り勘にして、外へ出る。

 居酒屋のある通りの向かいに植えられている桜が、満開を迎えていた。まだ花弁は、しっかりと花柄にくっついたままだ。もう二、三日もすれば花弁が宙に舞い始める。その頃になったら、恋人を誘って花見にでも行こう。

 男の家までの道には、八重桜の大樹がある。これもあと一週間ほどで、開花を迎えるであろう。

「春だねえ」

 ほろ酔い気分の私は、独り言つ。ひやりとした冷たい空気ではなく、生温く花の匂いを湛えた空気が、鼻孔を通っていった。

 似たもの同士。だからこそ私たちは、そこそこに仲良くやっていた。


 それ以降、男は彼女が欲しいと呻いてはいたが、積極的に作ろうとする気配は見えなかった。私は恋人に男の存在を漏らすことなく、恙無く過ごしていた。

 それは偏に、男の人望がそうさせるところもあったのだが、私に罪の意識が全くなかったこともあろう。

 私はたまに、男と寝た。

 比喩ではない。男の部屋で、布団を一つにして、ただ寝た。体温や、ぬめり気を分かつことはない。自室では性的な行為を行いたくないそうだ。

 何故添い寝を求めるのか。訊いたことはなかったが、酒を飲んだ後一人帰路につき、誰もいない家に帰ることほど侘しいことはない。そういう理由だろう。

 であるからして、私に罪の意識はなかった。恋人にも「友達の家に泊まる」と嘘はついていなかったし、なにしろ性的関係にないのだから何も不安がる必要がなかった。

 しかし、恋人のいる異性を自分の部屋に泊めるという行為。そこに男の倫理観の軽薄さが感じ取れる。

 私もそうだ。男が何もしてこないとは限らない。当然手は出さないだろうと信じ込んではいるが、事実、何をしてくるかなんて他人には読み取ることができない。恋人にこの関係が露顕しないとも限らない。危ない橋は渡らないに越したことはない。

 しかし、関係は社会人になっても続いた。恋人とも関係が続いていた。そして男に恋人ができる気配は、一向になかった。

 三月も終盤に差し掛かった頃、私は自分の出身校であるN校の制服を最寄り駅で見かけた。懐かしく思うと同時に、苦々しい思いが胸中に広がる。

 N校の制服に身を包んだ少女は、かなり上等なエレキベースを背負っていた。ケースにsugiの文字が見えたのだ。サークルに所属していたとき、幹事長が使っていたものと同じメーカーである。

 N校のいやに上品な制服とそのベースはやや不釣り合いに見えた。楽器の値段は、どれだけ音楽に夢中になっているかに比例している。N校はお嬢様向けの進学校だ。

 私は、それなりに裕福な家庭に生まれ、それなりに勉強が出来たので、そういう学校に放り込まれた。その学校の、お嬢様然とした気風が性に合わず、入学から一年半後に、辞めてしまった。

 そういうお嬢様が、軽音楽に夢中になっている、というのがなんだか奇妙な気がした。そもそも私がいたころに、軽音楽をやれる部活動はなかった。作られたのか、外部でバンドを組んでいるのか。それは知る由もない。

 おまけにsugiは高校生が簡単に手を出せる金額のものではない。しかし、何事にも誠実に向き合い打ち込む人もいる。彼女はきっとそういう人種なのだろう。堅実に貯金をし、親に頼み込んで中古を買ったと思えば、彼女がsugiを持っていてもさほど不思議はなかった。

 私とは、全く違う人種。

 そのことがもやもやと胸に残り、たまたまその晩会う予定だった男に、そのことを話した。男は、ふぅん、と平淡な声を出した。

「そういえば、おまえはバンドマンだったな」

「バンドマンっていうの、やめてくれない。真面目にやらなかったし。大体、その響きが嫌」

「なんで」

「バンドマン、って、真面目に音楽作ってそう。それで恋人のことを歌いそう。それが嫌。ぞわぞわする」

 男はまたしても、ふぅん、と平淡な声を出した。

「まあ確かに、おまえは誠実でもなければ堅実でもない」

「うるさいな。自分が一番分かってる」

 そういって私はハイボールを呷った。以前と変わらない安っぽい味のそれは、喉に微弱な刺激を与えながら腑に落ちていった。

「この後、家来る?」

 分かっているくせに聞いてくるところに、男のいやらしさを感じた。私は苛立ち気味に、行く、と答えて、伝票ホルダーを男に突き出した。

 きっちりと割り勘にし、居酒屋の外へ出る。

 通りの向かいに植えられている桜の満開はもう過ぎて、花弁は宙へと舞っている。薄暗い中で、私はぼんやりと立ち竦んだ。

「何してんの。行くよ」

「桜、綺麗だなって思って。あんたの家までの道にも、八重桜あるよね」

「ああ、あれ、このあいだ切られた」

「え」

「もう古い木だったらしい」

 そうだったのか。

 私は一度も、あの八重桜が満開を迎えたところを見なかった。それはとても口惜しく、男の家までの道で、私は黙りこくっていた。

 布団を敷いて、服を脱ぎ、男のTシャツを着て横になった。

 男はごく適当なTシャツとハーフパンツを身に付け、横になった。

 狭い布団の中で、身を寄せ合い、他愛ないことを話す。それは仕事であった嫌なこと。それは切られた桜への哀悼。それは先ほど話した、N校のこと。

「私ね、小さい頃からあそこに入るんだよって育てられた」

「へぇ」

「そこで失敗して行けなくなって、辞めたとき、父も母も仕方ないって言ってくれた」

「よかったじゃん」

「うん。よかった」

 そこで否定されてしまっていたら、私は崩れていただろう。尤も、ろくな大学には入れなかったが。

 あの桜。八重の花弁を持ったあの桜は、皆に持て囃され、満ち足りた気持ちで切られていったのだろうか。私と違う、充実した生を送れたのだろうか。

 そんなことを考えていたら、はらはらと涙が落ちた。それを見ていた男は、親指で涙を拭った。

「すっげえ今更なこと言っても、いい」

「いいよ」

「俺さ、今まで好きな人って、出来たことない。恋ってものを知らない」

「へえ」

 それは、薄々感づいてはいた。男は皆に心を許しているように見せかけその実、許していなかった。いや、許したいと思ってはいただろうが、許せる相手を見つけられていない。それは理想が高いのもあるのかもしれないが、男の倫理観が軽薄なことに反して、誠実でいたいという思いが強すぎるためにも感ぜられた。

 人好きのする男は、未だ恋を知らない。

「だから、ものすごくピュアなこと言っても笑わないでほしいんだけど」

「わかった、笑わない」

「おまえ、さっき『バンドマンって、真面目に音楽作ってそう。それで恋人のことを歌いそう』って言ったじゃん」

「うん、言った」

「世間一般に『バンドマンと付き合うと歌にされるからやめておけ』って言うじゃん」

「うん、言う」

「俺、それっていいなぁって思うんだよな」

 ああ、確かに清廉なことを言う。男の爛れた面を知っている私は腹の中で大笑いしていたが、誠実すぎる面も知っている私は、黙って話を聞いていた。

 相手が小説家でも漫画家でも、同じことがいえるけど。男は続けた。

「その人の一番大事にしているであろうことに組み込まれるのって、幸せなんじゃない。その人の、生きる糧にされるなんて」

 生きる糧か。確かに、小説家も漫画家も息をするように小説なり漫画なりを読み、そしてそれらを愛している。バンドマンも同じだ。その愛したものの一部に、愛している人を組み込むのは理にかなっている話かもしれない。しかし。

「なんか、食い物にされているみたいじゃない、それ」

 私には、愛というモノを生産という行為に絡めるのがどうにも理解できなかった。愛を形にしようとする自分に、酔っているようにしか見えない。そう言うと、男はそうとも言うかもしれない。と肯定した。

「そうとも言うけど、酔っているのとは違う。心に留めておくには大きすぎる衝動が『生産という行為』へと突き動かす」

 だから、愛を形にするということは食い物にするということではない。そして、酔っているという感情よりも。

「それは美しいモノに思えてならないよ。俺は」

 美しいモノ。男の中の美しいモノはぴかぴか輝くモノなのだろう。到底触れることのできないモノなのだろう。そういうふうに、見えた。だから男は、恋というものを知らない。

「そっか」

「だからおまえも、」

 何か教訓めいたものを垂れようとした男は、言葉に詰まった。今の話から得られる教訓らしきものはない。

 私は困っている男を見て、小さく笑った。その様子を見た男は、安心したように、眠りに落ちていった。


 ある日から、一切の連絡が途絶えた。気になって男の家を訪れると、鍵がかかっていた。このご時世に、とは思いつつ、隣の住人に話を聞くと、男はつい先立て、引っ越したらしい。どこへ引っ越したかは知らないと言っていた。

 男は、いつの間にかいなくなってしまった。

 私の近くから去ったのか、この世に嫌気がさしたのか。後者の気はしなかったが、前者だとしたら何かしら一報入れそうなものである。まあ、その程度の相手だったということだ。それでいいことにした。

 周りの人たちは、何事もなかったかのように日々を送る。男の思い出話すら、聞かなかった。

 私はときどき、男のことを思い出し、人好きのする男は、未だ恋を知らないのだろうか。そう、想像を巡らせる。

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こいやみ 玉山 遼 @ryo_tamayama

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