サクラ、サク
浪岡茗子
春、うらら
旅立ちの春、芽吹きの春、出逢いの春。
春がうららかだと言ったのは、いったいだれが初めだろう。
花筏を眺めながらため息をつくと、ちょうど目の前を舞い落ちていく桜の花びらは、いとも容易く方向を変える。
多くの者が眩しさあふれる季節に胸を弾ませるなか、信吉は川面を見つめ、これからどうしたらいいのか、ただただ途方に暮れていた。
自分も当然のように祖父や父、兄たちと同様、医学の道を歩むものだと信じて疑わなかった。
学ぶのは嫌いではなかったし、これまでの人生の中で、目指す道に迷ったことなど一度たりともなかった。
当然だ。進む道は常に示されていたのだから……。
「サクラ、チル」
左右の川岸を薄紅に染め上げる桜は盛りを過ぎて、わずかな風にもその花を散らす。
試験に落ちた信吉に、父親は激怒した。母親はさめざめと涙をこぼし、兄たちは腫れ物の如く気を遣う。それを、どこか他人事のように眺めている自分がいた。
不思議と、努力が実を結ばなかったことへの悔しさはない。もう一度、という気力も湧いてこない。
不合格という結果よりも、そこへの罪悪感が募る。
どこからともなく届く花びらに誘われるようにして、居場所のない家を出た。
ふらふらと花見客でにぎわう河川敷を歩き、若草繁る土手に腰を下ろした。
ほんの僅かな刻を、精一杯に咲く桜。その散り際の潔さは、一輪の花も開かせず、美しく散ることさえできない己の身からすると、ひどくうらやましくも思う。
父母に請えば、また同じ道を提示してくるのだろうか。それとも、もっと歩きやすい道まで案内されるのか。どちらにせよ、川の流れに身を任せる花びらのようだ。
まさに今、水面に落ちたひと片の花びらの行方を追う。くるくると水流に翻弄されながら下って行くそれは、やがて流木に堰き止められた淀みに呑み込まれ、どれだかもわからなくなってしまった。
「学生さん。よろしかったら、おひとつどうぞ」
信吉は視界に白い紙にのった黒っぽいの塊が入り込んでくるまで、呼びかけが自分へのものだとは気づかずにいた。
「甘いものは嫌いですか?」
再度問われて顔をあげると、桜の香りがしそうな笑みがある。
「いいや、そんなことは……。いただきます」
大きなぼた餅を懐紙ごと受け取り礼を言う。ずしりとした重みに驚き下げた目が、前掛けの藍抜の文字を読み取った。
「あ、お代!」
膝の上にぼた餅を置き、シャツやズボンの隠しを探るが、わずかな糸くずしか出てこない。
「申し訳ない。手ぶらで出てきてしまいました」
おずおずと艶のある餡子の塊を返そうとした信吉の手が、働き者の手に押し戻されてしまう。
「もう、店じまいなんです。売れ残りなのでご遠慮なく、って姉さんが」
松乃屋の少女が視線を移した土手の上で、彼女とよく似た娘が出店の片付けをしていた。
信吉に気づくと頷くように会釈する。それに応えて、ぼた餅を捧げ持った。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
頬張ると、すっきりとした甘さのつぶ餡が、なかの餅にあるわずかな塩気とよく合う。握りこぶし大ほどあったのぼた餅は、瞬く間に信吉の腹へと収まっていた。
ごちそうさま、と満足げに手を合わせた信吉の隣で、腰を並べた少女が安堵の息をつく。
「よかった。ずっとここに座っていたから心配してたの、……姉さんが!」
淡い桜色の頬を隠して勢いよく立ち上がる。それを見計らったかのように、帰り支度を整えた姉が妹を呼んだ。
姉を気にしつつ、少女は口を開く。
「小豆には邪気をお祓いする力があるんですって。苦いお薬が病に効くみたいに、甘いものは心を癒やすの。――姉さんの受け売りだけど」
「なるほどねえ。心の薬か……」
それを聞けば、胃の腑に落ちた分以上に餅の重みが増す。ふくれた腹へあてた手に仄かな熱を感じ、自然と口元がほころんでくる。
「学生さんの顔、生き返ったみたい」
「薬が効いたのかな」
「父さんの餡は天下一品だもの」
少女は頬を桜色から薔薇色へと染め変えて、明るく
もう一度、今度は少し苛立たしげに少女を呼ぶ声がした。
「はーい。いま行きます!」
おさげを揺らしてお辞儀をすると、少女は背を向ける。
「ありがとうございました! おいしかったです」
叫んだ礼は、土手を駆け登る少女を追い越して姉のもとにまで届いたらしい。日本髪の小さな頭が丁寧に下げられる。
信吉は、荷を載せた大八車が桜並木の向こうに消えるまで手を振り、和菓子屋の姉妹を見送った。
身投げでもするように見えたのだろうか。
長めの前髪をかき上げ苦笑いを浮かべた信吉は、夕日にきらめく川に細めた目を向けた。
「おや?」
淀みに貯まっていた花びらたちが、流木ごときれいに流れ去っていたのだ。
川面を渡る風が枝を揺らし、辺り一面桜吹雪に包まれる。
今年の桜はこれが見納めと、目に焼き付けた。
来年もまたきっと、
【 完 】
サクラ、サク 浪岡茗子 @daifuku-mochi
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