第2話

「はぁいアーク!今日から、いや正確には昨晩からだけど。君の監視を務めるツキだ、宜しく!」

「………誰?」


朝6時。眠い頭を振り乍起きる。ベッドでぼーっとし乍手元に手繰り寄せたノートパソコンを開く。カタカタとキーボードを叩いて、エンター。今日の朝御飯はシチューとパン。ついでにオレンジジュース…子供じゃないんだけど。

「ハッキングも慣れてきたかな…こういうデバイスを作るのが得意だった感じ?」

ふぁあ。欠伸が止まらない。奥歯を強く噛んで、ノートパソコンを閉じた。約一月前に言われたばかりで実感無いけど、ぼくの仕事はハッキングなんだし。この刑務所のデータを覗き見るのも別に怒られるわけじゃないでしょ。

っていうか、やっぱりぼくって才能あったんだ。あんまり良いものじゃないけど。

立ち上がって軽く服装を整える。今日は学校が休みだから、ハッキングの練習漬けだな。さて、そろそろ朝御飯が運ばれてくる頃……誰だアレ。


そして、冒頭に戻る。



「…監視。」

「そう、キミはエースの手となり脳髄となりこの世の悪を正すダークヒーローになる訳なんだけど、やっぱ君自身罪人だし?懲役何年か知らないけど服役中の囚人を外に出すわけだし。悪い人には監視の目が無いと。」

「いや、知ってる…じゃない。知ってます。ぼくにはもうこのイヤーカフがあるし、これを付けさせられる時に説明は聞きました。」

「あ、そう?ならいいや。話聞いてたなら、声も全部筒抜けってのも、分かってるよね。ってな訳で──」

この人への接し方がよく分からない。こんなテンション朝から拝みたくない。

って言うか今、聞き捨てならない事が聞こえたような。

「ちょ、え、待って!?声…声!?」

「そうだよ?昨日まで、…二ヶ月ぐらいだっけ?君の動向は全部、エースが見てたし聞いてた。君のイヤーカフは発信機にもなってるから、君の愚痴も全部筒抜けだよ?聞いてなかった?」

「…え。」

思考がフリーズした。

嘘でしょ、えっ?…え?





「行ってきます。」

「いってらっしゃい、お姉ちゃん!」


学校から走って帰ればお姉ちゃんに会える。よーっし、今日もギリギリセーフ!

「おかえり、マーガレット。」

「ただいまー!」

お姉ちゃんは丁度玄関で身支度を整えてた。

今日もお姉ちゃんは凄く綺麗!


いってきますと、いってらっしゃい。わたしが眠る時間にお姉ちゃんの仕事が始まる。

お姉ちゃんは、いつも綺麗なドレスを着て、お客さんを喜ばせてるんだって。

わたしもお姉ちゃんを手伝いたいって思ってるし、お姉ちゃんみたいに綺麗なドレスも着てみたい。

いつか、お姉ちゃんと同じ仕事をするんだ!



「おはよう、お姉ちゃん!」

1人の部屋。今日はまだ帰ってきてないんだ。

お昼に帰ってくるのかな、学校から帰ったらお姉ちゃん居るよね!

適当に冷蔵庫から取り出して、朝御飯。

やっぱりお姉ちゃんの料理が1番美味しいや。

「いってきまーす。」

からっぽの部屋に向かって、ちゃんと挨拶した。

お姉ちゃんとの約束だから。


挨拶は絶対すること。

お父さんとお母さんに感謝すること。

家族のことは、ちゃんと相談すること。


この3つは絶対守るって、お姉ちゃんと約束した。お父さんとお母さんが死んで、わたしにはお姉ちゃんしかいないから。

お姉ちゃんはわたしの為に仕事してくれてて、だからわたしも、学校卒業したらお姉ちゃんの為に働くんだ!



「ただいま、お姉ちゃん!」

鍵を開けて、玄関へ突撃!

朝遅かったね、ちゃんと寝れた?やっぱりお姉ちゃんのご飯が1番美味しかったよ!今日学校でね、テストがあってね、


「…お姉ちゃん?」

言いたいことは、たくさんあったけど。

肝心のお姉ちゃんが、いなかった。


晩御飯は、丁度余ってたパスタにした。多分、今日のお姉ちゃんのお昼ご飯だった分。

いつもと同じように、1人で食べてるのに。

「…あんまり美味しくない。」



「ごめんね、ただいま。」

「お姉ちゃん!おかえりなさい!」

宿題も終わったし、寝ようと思ってた、正にその時お姉ちゃんが帰ってきた。

「ごめんね、遅くなっちゃった。」

「いいの、お仕事ご苦労さま!」

お姉ちゃんのカバンを持って、フラフラなお姉ちゃんの体を支えた。仕事帰りのお姉ちゃんはあんまり好きじゃない。いつもお酒の匂いがするから。

でも、今日のお姉ちゃんはちょっと違った。

「お姉ちゃん、お風呂入ってきた?」

「…え…?」

「お酒の匂いしないし、石鹸の匂いがするから。」

お姉ちゃんが、固まった。

「…うん、いっぱいお酒飲んじゃったから…先にお風呂入ろうと思って、銭湯に寄ってたら遅くなっちゃった。」

「そっか!なら良かった、まだお風呂沸かしてなかったんだー。」

なんだ、銭湯か。お風呂気持ちいいもんね、そりゃ長くなるよね。


「…ねぇマーガレット。今日はね、お仕事、お休みしたから…一緒に寝れるよ?」

「えっ、本当!やった、一緒に寝ようお姉ちゃん!」

嬉しい!お姉ちゃんと久しぶりに一緒に寝れる!

「あのねあのね、話したいこといっぱいあるの、学校でテストあった事とか、あっ、あとお姉ちゃんのパスタ食べちゃった!」

「分かった、分かったから。パジャマに着替えて、ベッドでゆっくり聞かせて?」

「…うん!」

お姉ちゃんの体温が暖かい。こんなに暖かいベッドは久しぶりだなぁ。話したいこと、沢山、あったけど…。



朝起きたら、お姉ちゃんはいなかった。




それから、時々お姉ちゃんはすごく遅く帰ってくることが多くなった。遅い時はいつも石鹸の匂いで、時々タバコの匂いもしてた。

お酒より、好きじゃない、匂い。


「いってらっしゃい、お姉ちゃん!」

「あ……、うん。」

あと、ちょっとだけ。お姉ちゃんが、遠くなった。

毎日毎日お仕事で、話す時間もなくて。


「…お姉ちゃんに、会いたい。」

お風呂で考えて、考えて、思いついた。

「そっか、わたしが会いに行けばいいんだ!」


お姉ちゃんの部屋をこっそり覗いて、引き出しからお姉ちゃんの名刺が出てきた。

仕事場の住所が載ってたから、1枚だけ名刺を抜き取った。

「ごめんね、お姉ちゃん。後で絶対返すね!」



「いってきます!」

からっぽの暗い部屋に、挨拶をした。





「…嘘でしょ。」

「だぁかぁらぁ、ホントだって。キミの愚痴もあられもない声もオナニーも全部エースに丸聞こえ。」

「そんな事してないしそんな声も出してないっ!」

「え、ホントぉ?」

ケタケタ笑う声が妙に癇に障る。こういう人間、嫌いだ。

「ってな訳で、今日から…あー、いや正確には。まぁいっか、今日からって事で!…ボクに逆らおうとすれば、容赦無く君の脳髄に直で突き刺さる電気流してあげるね。」

「…っ、」

空気が変わった。この人、本気だ。何処にスイッチがあるのかも分からないけど。

…この人、怖い。


「いやー、それにしても羨ましいなぁ。だって電気だよ?しかも脳に直で届くヤツ!最っ高じゃん!今度ボクもエースに強請ってみようかな、ね、ソレ作ってるのってエース?それともアイリス看守長?」

ぱ、とさっきまでの顔に戻った。

なんだこの人。…ドM?

「や…知りません。ぼくも、何か…勝手に付けられたし。正直迷惑だなって思ってて。」

「ふーん。いいなぁ、自分の意図しないタイミングで流れる事もあるんでしょ?いいなぁいいなぁ!」

流す側の人間の言葉じゃない。何かこの人、自分の興味本位だけでカチカチスイッチ入れそう。めっちゃ怖い。

「…エースさんの方がまだマシだったかも。」

「無理無理、あの人アイリス看守長が直接監視してる囚人だし。」

「看守長、あの小さい子…ですよね。っていうか、エースさんが監視されてる側!?つまり囚人!?…嘘でしょ。」

「ホントホント、ボク知ってるもん。…でも、教えない。少なくとも今のキミには、教えらんないなー。もっとエースの右腕として実績上げてからだね!」

ふんふん、と鼻歌を唄い乍ツキさんはぼくの牢を出て行った。ぼくは癖になりつつある、右耳のイヤーカフを軽く弄った。


「って、違う違う違う!すっごく今丸く収まりそうだったけど全然違った!」

ダッシュで扉を開けたツキさんは焦った様にぼくの肩を掴んだ。

「ねぇ、キミ今からハッキングして!?」

「……は!?」





「なぁユカリ。この世で1番重い罪は何だと思う?」

牢に微睡んだ茜色の光が差し始めた。赤は余り好きじゃない。生々しい、何かを思い起こさせる。

けれど、僕にはこの赤いマフラーはなくてはならないものだ。赤は嫌いだけど、このマフラーだけは違う。

「随分唐突ね。…殺人、かしら。」

「正解。その殺人の中でも、最も重い罪って言われてるのが、身内を殺すことなんだ。」

「…父親、母親、兄弟姉妹…かしら。」

先程アイリスに手渡された資料を読み乍、僕はユカリに問い掛けた。流石ユカリ。僕が言いたいことをもう理解してる。

多分今の顔は、ユカリぐらいしか見せられないな。


「うん。だから今回は、其れを利用する。」



マーガレット・ライトバッハは両極端な人間だ。


五年前に両親を事故で亡くし、以来八歳上の姉と二人で生活している。

姉は高校を中退。年齢を偽り、賃金が高いという理由だけで水商売に就いた。

二人きりの生活で欠かせないものは、三つの約束。挨拶、感謝、相談。


「…約束、か。」

細い糸が千切れる様な痛みを覚えた。続きを読んでくれと資料をユカリに手渡し、額に手を置いた。

「絶対何て、この世には存在しないんだ。」

「そうね。…でも、そう在ろうと努力するのは、無駄じゃないと思うわ。」

「…そうだな。そう、在ろうとするのは、…美徳だと思うよ。」

目を閉じた。溢れんばかりの記憶の濁流、溢れてしまえばいっそ楽だろうか。

「エース。」

ユカリの声だ。暗闇の縫い目が割れる。コンクリートの床が、一部色を変えていた。

「大丈夫。貴方は、まだ大丈夫。」

嗅ぎ馴れた匂い、触れ馴れた柔らかさと温もり。そうか、泣いてたのか。

「…うん。大丈夫、大丈夫だ。」

僅かに残る水滴に頭を振った。

濁流は流れ続ける。けれど、もう大丈夫だ。

立ち上がる。まだ、立てる。ユカリの手を握った。柔らかな甲に恭しく口付ける。


「行こう、ユカリ。約束が果たされなかった時、きっとマーガレットは暴走する。」

「暴走のピーク、正にその瞬間ね。いつになるかは分からないけど、取り返しのつかない事に、ならない様にしないと。」

既に牢には月の光が差していた。円舞曲ワルツに誘う様に、ユカリの手を取った。暖かい、小さな手を。


踊るのは葬送曲レクイエム

死んだ魂と死んだ体を、無理やり生に繋ぎ止める為に。

先駆者は生者。僕が道連れにした、死という概念に限りなく近い生者。





「…お姉ちゃん。」

「───マーガレット、なんで、ここに、」


お姉ちゃんは、裸になって、踊ってた。


「なんで、裸なの?」

「マーガレット、お願い、見ないで…。」

「おい、早く続けろ!」

部屋の隅に、ソファに座るイカついおっちゃんが叫んでた。お姉ちゃんはびくびく怯えながら、また踊り始めた。

これが、お姉ちゃんの仕事なの?

お客さんを、笑顔にする仕事だって、言ってたのに。

「マーガレット、帰って…お願い、」

腰をグリグリ、天井まであるポールに擦り付け乍お姉ちゃんは泣き出しそうな声で呟いた。

お姉ちゃんが、泣いてる。



「興が冷めた。折角だ、相手しろ。」

おっちゃんが立ち上がった。お姉ちゃんの前まで歩いて。そしたら目を塞がれた。腕を掴まれた。

「…流石にこれ以上は。」

後ろに、バーテン服の兄ちゃんがいた。

「何?何で?離してよ、…お姉ちゃん!」

痛いって叫ぶお姉ちゃんの声が、なんか、だんだん違う人の声に変わっていった。

「嫌、いや…ぁ、あ、あぁ…っ!」

お姉ちゃんの声なんだけど、なんか、嬉しそうな声みたいな、よくわからない、声に。

「ああ、あ、ああ──────っ!!」

「嗚呼、中々良い塩梅だ。妹に見られてると思って興奮したか、ん?」


なんか、嫌だ。

こんな声が出るお姉ちゃんも、嫌だ。

お仕事が変わったって、お姉ちゃんは言わなかった。

挨拶、しなかった。

こんなの、お姉ちゃんじゃない。

約束って、言ったのに!


ぷつん。頭の中で、何かが切れた音がした。





「─────うあ、あぁ、あああああ!!」






「エーース!」


ユカリの手を取って牢から出て直ぐ。

もう聞きたくないと思ってた甲高い発情声。

逃げたい。面倒臭い。超逃げたい。

「待ってってば!アークにハッキング効かせて店の防犯カメラ確認できた!」

「…意外に有能。若干見直した。」

「普段キミがボクをどう思ってるか大体分かった。いーや今はどうでもいい!」

ツキは随分と慌てている。

まさか、

「マーガレットが来たの?」

「そう、まずいことになってる!エースのインカム、アークと繋げてあるから、店までのルートはアークに案内させる!」

ジジ。インカムからノイズ音、アークと繋がった。

「最短距離で頼む。マーガレットが姉を殺せば取り返しがつかなくなる!」

ツキを置いて、ユカリと駆け出した。





赤は、好き。

正義の色だから。

ほら、何とかレンジャー、あれの真ん中!

何とかレッドって、カッコイイし!

それに、


お姉ちゃんの色だから。



「…お姉ちゃん?」

お姉ちゃんが、いっぱい居る。

床、壁、天井。お姉ちゃんだらけだ。

優しくて、時々怖くて。

でも、わたしのたった一人の、お姉ちゃん。


「…まーが、れ、」

「お姉ちゃん?お姉ちゃん!」

声が聞こえた。お姉ちゃんだ!

「どうしたの?眠い?あのね、ここ、お姉ちゃんがいっぱい居るんだ!…お姉ちゃん?」


あれ?

あれあれ?

なんか、何か、


違う?





『その角左、民家の屋根突っ切って!』

「漸く真面目にナビゲートしてくれるか、それでいい、最高。」

「余り派手な事はしないって看守長と約束してあるのに…。」

「今は緊急事態だ、背に腹は変えられない!」

『ぼくは最初からナビゲートしてた!普通の道だと面倒だから一直線に行けるルート出せって無茶振りしたのエースじゃないか!』

アークからの指示はどんどん上手くなってる。此奴、化けるな。面白い。言葉遣いも他人行儀じゃない方が楽だ。下手な気を遣われるとこっちが参ってくる。

ユカリの一歩先を走り続け、目的地迄辿り着いた。

ド派手なビルだ。眩しいくらいのイルミネーション。停電でも起これば、逆に目立つ。

外には見張りだろう黒スーツがちらほらと。

「…外から中は伺えない。窓は完全に目隠しが施されてる。成程これは違法事をやっててもおかしくないな。」

「気になるのは、見張りがいるのに何故マーガレットが入り込めたのか…よね。」

「余程容姿が似てるか、若しくは…最初から妹も引き込むつもりだったか?」

「酷い話…姉妹ごと食う算段って事ね。」

「さてどうするか…強行突破しかないか。」


呼吸を整えた。一歩踏み出す。

ビルから、落ちた。





お姉ちゃんが、変だ。

息してない。声がない。

変なお姉ちゃんだらけだ。


「ねぇ、お姉ちゃん。」


「お姉ちゃん?」


「お姉ちゃん。」


鏡があった。

赤い髪。赤い手。

なぁんだ。


「お姉ちゃん、此処に居たんだ。」






「やぁ、マーガレット。」

お目当ては有難い事に鏡をうっとりと眺めていた。

「だぁれ?…お姉ちゃん!」

全身返り血塗れ、真っ赤に染ったマーガレット・ライトバッハが駆け寄って来た。

錯乱状態にあるのか、彼女は僕を「姉」と思っている。

「エース…これって、」

「全部マーガレットがやったな。多分、善悪の区別もついてない。…振り切った性格してるよ、ほんと。」

死体の確認と処理をユカリに任せ、僕は駆け寄るマーガレットを抱き留めた。

「どうしたの、マーガレット。」

マーガレットの姉を装うのが、懸命だろう。


「あのね、いっぱいお姉ちゃんがいるんだ!でもみーんな、返事しないんだ!約束したのに!」

「そうね、約束したのに。悪いお姉ちゃんにバイバイしましょ?」

「…うん!わたしのお姉ちゃんはお姉ちゃんだけだもん!」

強く抱擁された。腕をマーガレットの背に回す。

「帰ろうか、マーガレット。」


マーガレット・ライトバッハも、僕の「手」

となる。僕の言う事を正義と断定し、正義が成される迄上手く撹乱できるレベルに引き上げる必要がある。

…アイリスに一存しよう。監視に関しても、「彼女」がいるんだから。





「…マーガレットは、」

「おはよう、リリー・ライトバッハ。目覚めて直ぐ妹を探すのも良いが、自分の状況を理解するのが先決じゃないかな。」


白いベッド、広がる紅い髪。煉瓦色の瞳とかち合った。

「妹は、マーガレットは!?」

「落ち着いてくれ、どうどう。君の傷はその妹によって出来たものだろ?」

「…、まーが、れっと。…そう、そうよ。私がマーガレットを、裏切ったから。」

顔を覆って泣いてしまった。否、泣かせたなこれ。僕が悪い様に見えてしまう。

「あー…その気持ちは分からなくもない。けど、本当に。安心して欲しい。妹さんは無事にこっちで保護してる。今はまだ冷静に話が出来る状態ではないけど、五体満足で生きてる。」

「ほんと…ほんと!?」

泣き腫らした目で訴え掛けられる。苦手だ、こういうのは。純粋な人間の、純粋な目は。

僕が世界から浮いてしまう、飛んでしまう。


「本当よ。大丈夫。」

扉が開いた。ユカリだ。

浮いたものに重りが付く感覚、地に足が付く感覚。まだ、僕は僕として動ける。

「今は傷を治す事に専念してください。それが終わり次第…此方から、リリーさんに大事なお話があります。」

僕は二人から離れた。穢してはいけない空間だと感じたから。

扉の開閉音を背中で聞き乍、廊下に出た。




「ねぇ、今回ぼく役に立ちました?」

「たった、たった!十分!だってキミが監視カメラハッキングしないと中が分からなかったし!めっちゃナイスタイミングだった!」

自分の牢へ戻る最中、聞こえた会話に引き寄せられる様にそっと様子を伺う。アークだ。

仲は良さそうだ。何より。



自分の牢に戻ると、アイリスが居た。

「…アタシが此処に居る理由、分かるわよね?エース。」

ベッドの傍ら、サイドテーブルに置かれた真新しい資料。後で読めという事か、成程。

「……僕への罰より、マーガレットの回収を優先させたのは英断だと思いますよ?アイリス殿下。」

後ろ手に扉を閉める。最低限の防音はできた。これから僕がされるであろう事への、覚悟もできた。


「気が済むまでどうぞ、アイリス。」






「妹さんは、此方の職員がきちんと診ています。」


「それじゃあ、また。」

リリーさんは良い人だ。妹との約束を破った事、妹が暴走した理由、その全て自分の責任だと言っていた。人が良すぎる。

部屋を出て、エースの元へ走る。

「…マーガレット・ライトバッハ。エースの一声で、きっと、やろうと思えば大衆すら相手に出来るでしょうね。」

まるで野生動物。首輪が無いと死ぬまで暴走してしまう。

その首輪が、エース。ライオンに火の輪くぐりをさせる調教師。


けれど、その調教師もまた、団長によって支配されている。



「ぐ、つぅ…っあ、あ…!」

バチン、バチ。扉を閉めていても聞こえる電流の音と、エースの声。


「エース、」

我慢できなかった。扉を開け、エースに駆け寄ろうとした。

「来るな…!」

蹲って頭を抱え乍、エースはそれでも私を見て言った。

「其処、で…止まって、く…っあぁ!」

バチン。また鳴った。強い電流が、エースに流れてる。


看守長の目は、冷たかった。非情で在ろうとしている。

「エース。揺れないで。」

バチン。

「あなたが崩れれば、あなたは自分を見失う、自我が壊れる。」

バチン。

「…ねぇ。どうして、どうして。」

バチン。

まずい。

「どうして、アタシが此処にいるの。どうして、あなたが其処にいるの、」

バチン。

「ねぇ、アリ、」

「…っ。」

看守長の口を覆った。自分が何をしてるかは、理解している。こんな事、国に報告されればクビ間違い無しだ。

けれど、こうしなければいけない。こうしなければ、『エース』も『看守長』も崩れてしまう。

「…アイリス看守長、どうか、今は。…これぐらいで止めておいて頂けませんか。」

エースはぐったりと床に四肢を投げ出している。見てみて痛々しいぐらいに。背中が上下しているのが、唯一の救いと言っても良いくらい。

「…アイリス看守長、貴方が今の地位に就くには幼すぎる。それは分かっています。ですが、貴方が訴えたい相手は、もう死んでいます。其処に寝転がっているのは、…ただの、死体と何ら変わりません。」

「う…、っ、う。」

するりと私の手をすり抜けて、看守長は出て行ってしまった。


「…エース、エース。」

細い体を抱き起こした。私には味覚障害でも食べろと言っていた癖に。細い体に、細い首、本当に死体の様。

「────、ご、めん。」

うっすらと目が開いた。真上を見つめ乍、エースは口角だけ上げた。

「ちょっと…、揺らいだ。僕も、まだまだ…調教は必要だ。」

私を押し退けてエースは覚束無い足取りで立ち上がった。ベッドに腰を掛けるエースの、隣に座った。


「…ユカリ。」

「なぁに、エース。」

「今日は、泊まって行ってくれ。僕が僕である為には、君でないとダメなんだ。」

「ええ、構わない。貴方が貴方である為に、私が此処に居るもの。」

手を握る。私よりも白い、血色のない肌。冷たい肌。

マフラーは調教の最中に落ちたのだろう、首輪だけが残る首に触れた。今ここで、両手で首を締めればこの子は楽になるだろうか。

自分でも馬鹿げた考えだと頭を振った。


「エース、あいしてるわ。」

「うん。ユカリ、あいしてる。」

エースを労わって、先にベッドに寝かせた。エースを跨ぐ様に上に乗って、黒い服を剥いで白い肌を露わにする。


明日は、少し遅く起きる事にしよう。

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