三天走路恭喜婚礼

古月

三天走路恭喜婚礼

「なに、あの楊将軍の娘、えんが結婚だと!」


 飯店で飯を食っていたたん玉良ぎょくりょう、隣席からの会話に聞き耳を立てていたわけではないが、生まれ故郷の訛りに聞き覚えのある姓名とあれば問わずにはいられない。食いかけの飯椀と箸を両手に持ったまま立ち上がり、椅子を蹴倒して振り向いた。

 突然、強面な大男が話しかけてきたので、話をしていた旅芸人らしき一団は揃って身を震わせて飛び上がり、茶杯を手にしていた者は驚きのあまり杯の中身を真上に飛ばしてしまった。一拍遅れてべしゃっと卓上に散る緑茶。しかし全員の視線は潭玉良を向いている。彼らだけではない。他席の客や店員までもが何事かと経過を見つめる始末だ。


 旅芸人たちがぽかんとしているので、潭玉良は苛立ちもあらわに声を張り上げる。

「お前たちが言っているのは、金陵きんりょうの楊府が娘、楊媛のことかと聞いているのだ!」

「あんた、あの方をご存じなのか」

 潭玉良の眼光に射竦められ、余計な口をきいた芸人はたちまち唇を引き結んだ。

「俺は潭玉良。楊媛とは昔馴染みだ。ともに幼少期を過ごした義兄弟だ。あれが結婚するとは本当か」

「これはこれは、潭英雄でしたか。滾元刀こんげんとうのお噂はかねがね」

 芸人たちと同席していた男が一人、立ち上がって抱拳の礼を取る。その男は見たところ芸人ではなく、武具を纏い腰に剣を提げていることから、用心棒の類と見て取れた。


「いかにも我々は金陵の街からやってきました。楊将軍の名はかの地で知らぬ者なし、当然そのご令嬢の婚礼となれば、それはそれは大騒ぎですよ」

「相手は誰だ。媛は誰に嫁ぐのだ」

「先日、探花たんか及第を果たしたかくしんという進士です」

「郭晋だと? あのへなちょこ郭か!」


 飯椀を取り落とし、潭玉良の腕が用心棒の肩をがっしりと掴む。用心棒はそのあまりの力に一瞬顔を歪めたが、すぐに平静を装って愛想笑いを浮かべる。

「郭殿は立派な方と聞いていますよ。確かに文弱なところはあるかも知れませんが、あの若さにして科挙及第は異例のことです。縁談など山ほど来たでしょうに、それでも故郷の想い人を選ぶとは、なかなか味な真似じゃあありませんか」

「味? 味だと? なんの味もせんわ!」

 叫ぶなり、潭玉良は身を翻して飯店を飛び出した。店員が「ちょっと、お会計!」と叫ぶのへ、懐からさっと銀子を飛ばした。銀子は一直線に潭玉良が座っていた卓にターンと音を立てて止まる。店員が安心した様子でそれを拾い上げようとしたところ、銀子は卓面に埋まっており、ちょっとやそっとでは取れそうになかった。


*****


 潭玉良は慌てたあまり、飯店の店先に繋いでいた馬を置き去りにしてしまっていた。それに気づいたのは街を飛び出し、すでに金陵へ向かう街道をかなり進んでからの事だった。今から戻ったのでは時間の浪費にしかならない。潭玉良はこのまま自らの脚で駆けることにした。


 走りながら指を折る。記憶が確かなら、あと三日で吉日だ。楊媛が嫁ぐとすればその日に違いない。金陵までは通常の旅路でも十日以上はかかる。果たしてそれまでに間に合うのか?

 いや、間に合うかではない。間に合わなければならない。どうしてもその日までに楊媛に会い、この縁談を破棄してもらわなければ。


「楊媛よ、楊媛。俺とお前は約束したではないか。お前はそれを、忘れてしまったのか」


 潭玉良、楊媛、そして郭晋の三人は昔から仲の良い友人同士であった。いつでも一緒に遊んだし、いつでも一緒に学び、いつでも一緒に怒られた。そうしていつしか、潭玉良は当たり前のように楊媛を好きになっていた。あの日、帰り際の楊媛を呼び止めて言った言葉は忘れもしない。

「将来、俺が親父さんの右腕になれるぐらいに強くなったら。俺と結婚してほしい」

 楊媛は一瞬驚いたようにして、それからにこっとはにかんで、いいよと言ってくれた。あの日、あの瞬間、あの光景を、潭玉良は今でもはっきりと覚えている。


 それなのに。それなのに、どうして。


 わかっている。あれは分別のつかない子供が言い交わしただけの、ほんの戯れ。だが潭玉良にとってはずっと大事に胸に仕舞い込んできた、大切な約束なのだ。楊媛をいつか妻とするのは、この潭玉良なのだ。ずっとそう信じていたのに。


「郭晋、弱虫の郭晋よ。お前に媛が守れるものか。お前に媛を渡せるものか……!」


 拳を関節が白くなるほど握りしめ、潭玉良は疾風の如く駆けた。

 金陵までの道のりはまだまだ遠い。


*****


 金陵の街に到着したとき、潭玉良は眩暈を覚えた。それは三日三晩を走り通したからではない。管楽の音が鳴り響き、爆竹が炸裂し、あちらこちらを赤い提灯やら双喜紋が彩っているのを目にしたからだ。今日は吉日、婚礼にはうってつけの晴れ空だ。


 人が集まっている方角へ向かうにつれ、潭玉良はいよいよ前後不覚になりかけた。ここは郭晋の家ではないか。大勢の人だかり、赤い祝いの飾りが郭家だけでなく周囲の家々にまで広がっている。祝いの音楽は高々と外まで鳴り響き、門前は詰めかけた祝賀客で塞がってしまっている。

 潭玉良は大きく息を漏らした。楊媛はきっともう、郭家に輿入れしてしまったに違いない。花嫁行列に飛び込んで楊媛を連れ去ろうとの計画は早くも破綻してしまった。


 ここで諦める潭玉良ではない。息を落ち着かせると衣装屋に飛び込んだ。江湖者の衣装を脱ぎ捨て、式典衣装を店側の言い値で買った。それからまた郭家に戻ったときには、もう日が暮れそうになっていた。


 急がなければ――。人気が少ないところから屋根に飛び移り、そこから屋根伝いに人垣を越えて郭家に侵入した。院子にわに椅子と卓が大量に並べられ、酒壺や豪華な料理が所狭しと並んでいる。もしや朝からずっとあの調子なのだろうか。かつての郭家は没落貴族のようなありさまで、あんな大盤振る舞いはできなかったはずだ。それもこれも、探花及第の進士という肩書と、楊将軍の援助あってのことだろう。

 目を凝らして見てみれば、郭晋は酒に酔った真っ赤な顔で祝賀客に挨拶している。もう十年近く会っていなかったが、背も伸び顔つきもきりりとして、往年の弱弱しさはすっかり消え失せていた。


 潭玉良はそれを横目に、給仕の人間から身を隠しながら奥の部屋へと進んだ。新郎新婦の閨房けいぼうはすぐに見つけた。窓の隙間から覗き込めば、天蓋付きの寝台に大紅衣裙を身に纏い、紅蓋頭ヴェールで顔を隠した女が一人。

(――楊媛!)


 潭玉良はとうとう我慢できなくなり、戸を押し開いて中へ入った。大紅衣裙の女ははっとしたように顔を上げ、潭玉良を見た。

「媛……」

「玉良? 玉良兄さんなの?」

 弾んだ声と共に楊媛は立ち上がる。身をこわばらせた潭玉良へ、飛びつくようにして駆け寄りその両手を取った。紅蓋頭の向こうの容貌がうっすらと透けて見える。その表情は満面の笑みを浮かべていた。


「どうしてここに? もう長く会っていなかったのに」

「媛、俺は」

 お前を迎えに来た――潭玉良は言いさして、しかしその先を呑み込んだ。


 楊媛は美しかった。そんなことはもちろん知っている。だが潭玉良が知るどの楊媛よりも、今日の彼女は美しかった。それは彼女が成長したからでも、記憶が劣化していたからでもない。

 彼女の纏う幸福の気配が、何よりも彼女を輝かせていたからだ。


「俺は、お前を祝いに来た」


 言ってしまってから、自身の発言に驚いた。この三日三晩を走り通したのは、彼女をこの腕に抱き、この世の果てまで連れて行くためではなかったか。それなのにどうして、自分はそんな言葉を吐いているのか。


「おめでとう、楊媛。おめでとう」

「ありがとう。私、とてもうれしい。晋にはもう会ったの? 私たち三人、また再会できる日が来るだなんて!」


 楊媛は本当に嬉しそうだった。潭玉良はただ静かに笑んで、彼女を押し離した。

「新婦の顔を一足先に見たかっただけだ。俺は、本来ここに入ってはいけない。これから晋に会って来る」

「そうね、そうしたほうがいいわ。ねえ、しばらくこっちにいるの?」

 質問攻めにされそうな気配を感じて、潭玉良は無言で頭を振りながら閨房を出た。


 それからただ当てもなく歩いていたら、給仕に見つかり、会場はこちらですよと背中を押されて院子に案内された。がやがやと客で賑わう中に放り込まれ、潭玉良はやれやれと手近な椅子に腰を下ろし、酒杯を取った。


「俺には媛をあんなにも幸せそうな顔にできる気がしない。郭晋よ、郭晋。お前は立派になったなぁ」


 その呟きが聞こえたのか、客と話し込んでいた郭晋の視線が潭玉良を捉えた。驚き、そして破顔。潭玉良はただ酒杯を掲げて会釈した。


 おめでとう、新郎新婦よ。

 おめでとう、兄弟よ。

 おめでとう、俺よ。


 酒杯を一気に干したとき、潭玉良の胸には何もなかった。

 すうっと胸は空っぽで、とても清々しい心地だった。


(了)

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