遅かった男 【ホラー短編集】

水乃流

遅かった男

 彼の性格が、そもそも幼少期からの性格だったのか、親の教育のせいで歪んでしまったのか、それは分からない。しかし、二十歳はたちを越えた彼は、であった。彼が「ありがとう」とか「すまない」「ごめん」という意味合いの言葉を口にするところを、誰も見たことがなかった。彼を知るものは、彼を評して“自尊心が服を着ている”、“感謝を知らない男”、“リアル・ジャイアン”などと言っていたが、彼自身はそう言われてもまったく気にすることはなかった。他人が彼をもてなすのは当然だし、当然のことに感謝する必要はないと考えていた。

 そんな彼の趣味は、旅行であった。旅行先では、誰もが彼を歓待する。それは、彼が支払う対価としてのサービスなのだが、そんなことは彼にとってどうでもいいことだった。彼の両親は資産家で、金に困ることはなかったからだ。

 それは、彼が東北地方を旅していた時のことだった。レンタカーを借りて観光地を巡った彼は、のんびりとした風景を十分に楽しんだあと、その日の宿を目指して走っていたのだが、いつしか道に迷ってしまった。こんな時にこそ役立つはずのカーナビも、なぜか現在位置を正しく表示しない。

「くそっ、レンタカー屋にクレーム入れてやる」

 しかし、携帯電話も圏外であった。ついていない、と思っていたが、最大の不幸はその後にやってきた。山深い道の途中で、なんと車がエンストし止まってしまったのだ。何度エンジンをかけ直しても動かない。ツキのなさに悪態をつく彼だったが、そうもしていられない。そろそろ日が暮れる頃だ。このまま車を捨てて、歩いて民家を探すか? それとも車中で一夜を過ごすか? なかなかに決めかねているところ、突然窓がノックされた。

「う、うわっ!」

 驚く彼の目に映ったのは、一人の老婆だった。助手席の窓から、ひょっこり顔だけを覗かせている。

「こげなとこで、なんしちょるんじゃ?」

「え? あ、あぁ、道に迷って。車も動かなくなってね」

「ほぅ、それは難儀なことやねぇ。よかったら、おらンとこ来なさるけ?」

 彼は、老婆の勧めに従い、車をそのままにして彼女の後を付いていった。五分ほど、山道とも獣道とも付かないような道を進むと、小さな集落に出た。民家が二、三軒見える。すでに陽は傾き、辺りは夕陽に赤く染まっていた。遠くでカラスの鳴き声もしている。

「こっちじゃけぇ。足下気ぃつけてな」

 何歳くらいなのだろうか? 少なくとも六十は超えていると思われる老婆は、その姿に似合わず矍鑠とした足取りで一軒の古民家へと向かった。彼も、辺りを観察しながら老婆に続いた。

 古民家の中は、やはり古民家だった。三和土には竈があり、板張りの今には囲炉裏がある。

「なんもねぇとこで、もうしわけねえけんど、まぁ、ゆっくりしてくんろ。いまぁ、火ば熾すだで」

 そう言って老婆は、囲炉裏をごそごそといじり始めた。彼は、初めて肉眼で見る古民家の内装をぐるりと見回し、本当に何もないのだな、と思った。テレビもラジオもない。まるで江戸時代にタイムスリップしてしまったようにも思える。聞けば、電話もないという。

「すまんねぇ。田舎なもんで。限界集落? 言うて、役場の人たちも呆れとるよ」


 そのうち、囲炉裏からパチパチと火の爆ぜる音が聞こえ、薪の間からチロチロと火が燃え上がり始めた。老婆は、古びた鉄鍋を天井から吊り下げられた自在鉤に引っかけ、その中に水を入れた。そこに芋や人参と一緒に布袋に入れた煮干しを入れ、沸騰した後に山菜を入れた。煮干しを取り出して味噌を溶き入れいると、ほのかに食欲をそそる臭いが部屋に広がった。老婆は、火の勢いを調節すると、「風呂沸かしてくるけぇ、火ば見といてけろ」と言って席を立った。囲炉裏の中で小さく燃える薪を見ていると、なんだか眠くなってくる。

 居間に戻ってきた老婆は、風呂が沸いたからと入浴を勧めた。彼が持ってきた荷物の中には着替えもタオルもあったので、老婆の勧めに従って風呂に入ることにした。風呂は五右衛門風呂、ということはなかったが、薪で火を沸かしていた。


 彼が風呂から上がると、今度は食事の準備ができたと言われ、囲炉裏を挟んで老婆の対面に座った。囲炉裏に掛けられた鍋の中から、椀に盛られた汁物と白い飯、漬物の皿が彼の前に並べられていた。はて、いつのまにご飯を炊いたのだろう? と不思議に思いつつも、彼は当然のようにそれらに箸を付けた。

「魚でもあれば良かったんだども」

 老婆の言葉にも彼は無言のまま、食べ続けた。野菜だけだったが、思いのほか美味かった。


 食事の後、「あんた、若いけぇ、飲むジャロ?」と老婆は酒を彼に振る舞った。どぶろく、というのだろうか、白く濁った酒は、甘口で彼の口に合った。アテは、残った漬物だった。

「ほぃでも、あんた、変わっとるのぅ。さっきから、なぁんも言わんと……おらも別に感謝してくろとは言わんけど、何もないんはちと寂しいのぅ」

 パチパチと囲炉裏の中で火が爆ぜていた。

「あんたのようなお人を見とると、昔の話ば思い出すなぁ」

 老婆はそう言って、ゆっくりと話し始めた。


                 ※


 村はずれに住んでいた末吉は、昔から人に感謝することができなかった。それでも両親が生きているうちは、村人もつき合いを続けていたが、両親が死んで一人きりになった末吉は、人の手伝いはしないくせに、自分の畑も人に耕させようとする始末。やがて、呆れた村人は、末吉を遠ざけるようになる。村から浮いた存在になった末吉は、なんとか一人で生きていこうとするが、両親が残した遺産も底をつき、生活はどんどん苦しくなっていった。

 生活に困った末吉は、盗みを働くようになる。最初は他人の畑から芋を何本かくすねる程度だったが、少しずつ大胆になり、村人が蓄えていた大切な種籾や保存食にまで手をつけるようになった。村人たちも頭を悩ませていた頃、とうとう末吉は一線を越えてしまった。ある日、旅人を家に泊めた末吉は、旅人の路銀目当てに彼を殺して裏庭に埋めてしまったのだ。

 だが、それから末吉は夜になるたび、旅人の亡霊に悩まされることになる。眠れぬ日々が三月みつきほど続いた後、末吉は気が触れてしまった。自ら家に火を放った末吉は、燃えさかる炎の中で旅人の亡霊を見た。

「すまねぇ、すまねぇ」

 苦しみながら謝る末吉を見て、亡霊は言った。

「今更遅い」


 末吉の家は焼け落ちて、その中から末吉の遺体が見つかると、村人たちは丁寧に彼を荼毘に付し、懇ろに供養したという。


                 ※


「オラたちの村に伝わる昔々のお話だぁ」

「ふん。ずいぶんと説教臭い昔話だな」

 よくある教訓話だ、と彼は思った。子供を脅かすことはできても、大人には通じない。そう思った。

「いやぁ、話には続きがあんのさ」

 老婆が鉄の箸で囲炉裏の薪をガサガサとかき混ぜると、火の勢いが強くなった。

「気が付くと、いつの間にか末吉の家が元通りになっていたんだと。で、なぁんにも知らねでそこに泊まった旅人が、みぃんな死んじまったんだと」


 ガサガサ、パチパチ。


「んでなぁ……」


 老婆がゆっくりと顔を上げる……

「ここが、その末吉の家だぁ」

 老婆と視線があった。だが、そこには瞳はなく、ぽっかりと黒い深淵が飽いていた。


「うわぁぁぁつ! 化け物っ!」

 彼は驚き、三和土に飛び降りると、そのまま裸足で家の外に飛び出した。


 そのくらい走っただろう?

 気が付けば、辺りは明るくなりかけていた。ズキズキと痛みが走る両足は、血だらけだった。それでも、彼は走り続け、ようやく舗装された道へと出ることができた。疲れ切った彼は、そのままへたり込みそうになったが、ここで止まったら追いつかれるかも知れないと思いとどまった。

 道の向こうから、車の音が聞こえてきた。朝霞の中、ヘッドライトが近づいてくる。彼は慌てて車が走ってくる方向に向かい、手を振りながら走り寄った。


「どうしたね?」

 軽トラックを運転していた、いかにも農家という老人が、彼の様子を見て驚きながら声を掛けた。

「はぁはぁ、や、やまのなかで……」

「なんだぁ? 狸か狐にでも化かされたかね? なんだ、ひどく怪我しとるじゃねぇか。診療所まで連れてってやるから、ほら、乗んな」

「あ、あぁ……」

 彼は、軽トラックのドアを開け、助手席に滑り込んだ。助かった、座席は詰めたかったが、安心感が彼を包んだ。と大きなため息をつき、老人に向かってこれまで一度も言ったことのない言葉を口にした。


「ありがとう」


 そんな彼を見て、老人は言った。


「今更遅い」



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