隙間から

 最近、財布やスマホの遺失物が多い――そんな噂が流れ始めたのはいつだったか。遺失物といっても忘れ物ではなく、忽然となくなるのだ。しかも、特定の車両の、特定の座席に座っている時に。なくした人がいくら探しても出てこない。しかたなく、警察に出す遺失物届けの書類だけが厚みを増していった。


 やがて、SNSで「電車に乗っていただけなのに、物がなくなる」という話が広まり、マスコミや警察までが動き出すことになった。警察は、集団窃盗団、車両内専門の泥棒が複数いて、連係プレイで盗んでいるのではないかと疑っていた。しかし、捜査は思うように進まなかった。私服警官が張り込んでいたにも関わらず、紛失事件は収まらなかったのだ。


 ついには、マスコミも騒ぎ出した。「連続紛失事件ミステリー」「集団催眠か、はたまた神業窃盗犯か?」などといった煽り文句が新聞や週刊誌、テレビに踊った。これに食いついたオカルト系雑誌が「呪われた車両」「異次元からの干渉」などと書き立てるに至り、当事者たる鉄道会社は、ついに紛失事件が起きる車両の使用を中止した。


――東京近郊某所にある車両基地。


 その車両は、他の車両とは離され、ぽつん、と置かれていた。


「まったく、なぁ。機能的に問題ないのに分解廃棄だなんてなぁ。これが一体いくらすると思っているだよ」


 整備士の一人が、ハンマーで車体を叩きながら、相棒に向かって毒づいていた。


「しかたないよ、いろいろな憶測が出回って、海外ですら引き取り手が居ないんだから。今じゃ、SNSを通じて海外にも情報がすぐに流れちゃうからねぇ」


 話しかけられた相棒、つまり、もう一人の整備士は、チェックシートに記入しながらなだめるように答えた。廃棄処分が決まっていても、保管している間は点検しなければならないのだ。


「よし、っと。異常なし」


 打音検査を終えた彼は、ふと車体を見あげて思った。俺が紛失事件の謎を解いたら、有名になれるんじゃないか、と。そして、相棒に持ちかけた。


「なぁ、少し中を確かめて見ないか?」


「内部点検は、今日の検査項目に入っていないぞ」


「そうじゃなくてさ、知りたいと思わん? 紛失事件の謎って奴をさ」


「アホか。警察やらなんやらが、あれだけ調べて何も分からなかったんだぞ。俺たちがちょっと見たくらいで何が分かるって言うんだよ」


「警察は犯罪の専門家だけど、俺たちは車両の専門家だろ? 違った視点で見れば、何か分かるかも知れないじゃないか。そうじゃなくても、なくなった物が見つかれば、被害者たちは喜ぶだろ」


「まったく……ちょっとだけだぞ」


 彼としても、興味がなかったわけではないのだ。


 二人はドアを開け、車両の内部に入った。車両内部は昼間だというのに少し薄暗く、空気もひんやりとしていた。解体されることを知っていて、悲しんでいるかのようだった。


「♪ドナドナ ドーナー ドォナァ~」


「おい、止めろって」


 一人目の整備士は、鼻歌でドナドナを奏でながら、車両の後方へと向かった。


「俺、こっちから見てくから、お前、そっちから見てけよ」

「勝手だなぁ、おい。……わかったよ」


 二人目の整備士は、チェックシートをドア付近の床に置くと、近くのシートに近づき、下を覗き込んだ。もう何回、何十回となく様々な人間が調べた場所だ、何も見つかるはずがない。シートを外してみるか? そう考えていると、相棒が向かった車両後部から、ガコン、と大きな音がした。あぁ、あいつは手が先に動く奴だった。


「おいおい、解体前に壊すなよ」


 ……。


 応えがない。

 不思議に思って、整備士が顔を上げて車両後部を見た。


 誰もいない。


「お、おい!」


 ガランとした車両内に、声が虚ろに響く。


「お前、悪ふざけが過ぎるぞ! 出てこいよ」


 しばらく待っても、何も変わらない。静寂が圧力になって身体を締め付けるようだ。


「わかった、シートの下に隠れているんだな。まったく、しょうがない奴だ」


 敢えて大きな声を絞り出しながら、彼は相棒が居たはずの場所に向かった。何の変哲もない座席。座面が少し白くなっているのは、毎日毎日多くの人がそこに座っていたあかしだ。


「手間かけさせるなよ……自分から出てこいよ……おい……」

 じっとりとした汗が、全身から噴き出していた。ごくり、と唾を飲み込む。その音が、とても大きく、車内に響いたような気がした。


「よ、よし……開けるぞ……」


 彼は、シートを外すだめに手を伸ばした。その時。


 彼は確かに見た。シートの隙間からこちらを覗いている目を。そして――。


「うわっ!」


 シートの隙間から伸びた手が、彼の顔面を鷲掴みにした! 彼は抵抗できないまま、シートの隙間へと、引きずり込まれていった。


 開け放たれたままのドアから吹き込む風で、はためくチェックシートだけが残されていた。

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