呼ぶ声

 耳の奥で、ずっと音がしていた。

 物心ついたころから、ずっと聞こえていた。

 耳鳴りだと思って、気にしないようにしていた。寝る前や、ふとした瞬間に聞こえることがあっても、気にしないようにしてきた。


 会社を定年退職し、暇を持て余すようになると、その音が気になるようになった。気にし始めると不思議なもので、常にその音が耳にまとわりつくようになった。


「疲れているのよ」


 長年連れ添った妻が言う。そうなのかもしれない。


「気分転換に、旅行でも行かない?」


 妻にそう提案されて、そういえば、生まれ故郷にもう何十年も戻っていないことを思い出す。何十年? いや、小学生の頃にあそこを離れてから、再び足を踏み入れることはなかったように思う。なぜ、生まれ故郷に戻ろうと思わなかったのだろう?


 不思議に思いながらも、妻に故郷に行ってみようと提案してみた。


「あなたは故郷のことを全然話さないから、嫌いなのだと思っていた」


 いや、そうじゃない。忘れていただけだよ。それもひどい話ねと言いながらも、妻はテキパキと旅行の準備を進めてくれた。まったく役立たずな自分に、少し寂しさを覚える。働いていた時には、仕事ができると自他ともに認めていたものだが。


 幸い行楽シーズンでもなく、目的地も日本海側のさびれた田舎町だったので、苦労しなかったと妻は笑った。目玉となる観光地がなくても、宿屋はあるものだと、私は変なところに関心した。仕事以外の旅行など、新婚旅行で行った指宿くらいのものだ。


 特に目的があったわけではなかったが、とりあえず三泊四日の行程で、故郷には一泊、その後能登半島の方まで足を延ばしてみようということになった。新潟までは新幹線、そこからはローカル線で移動。駅からバスかタクシーで迷ったが、結局、タクシーで宿まで移動することにした。


「夫婦水入らずなんて何十年ぶりかしら」


 隣で喜ぶ妻を横目に、私は窓から見える錆色の海を見つめていた。寂しげなその風景を見て、なぜか戻ってきてという後悔の念が生まれていることに、私自身が驚いていた。生まれ故郷に戻ってきたのだから、もっとワクワクするような何かがあってもよかった。むしろと期待していたにも関わらず、肩透かしを食らったように何もない、何も感じない自分自身にがっかりしているのかも知れない。


 宿は、こんな寂れた町にしては、立派な宿だった。妻が仕入れてきた情報によれば、江戸時代から続く老舗らしい。江戸時代には、街道沿いの旅籠として、賑わいを見せていたらしい。


 温泉で身体を温め、部屋でのんびりしていると、疲れが溶けて流れていくように体は軽くなった気がする。しかし、あの音は相変わらず耳の奥で響いている。気にしなければいいのだ、と自分に言い聞かせてみるが、やはり気になってしまう。都会と違い、ここには雑音が少ないから、余計に音が大きく聞こえるような、そんな気さえする。


 夕食が運ばれてきた時、下がろうとした仲居が、何かに気が付いたように私の顔をじっと見た。私の顔に何かついているのだろうか?


「てっちゃん? ……印須磨の哲男ちゃんじゃないかね?」


 確かに私の名前は哲男だが……その時、ぶわっと記憶の蓋が開きあふれ出てきた。


「まさこちゃんか!」


 子供時代、一緒に遊んだ女の子の姿が、目の前にいる仲居の姿とオーバーラップした。


「いやぁ、懐かしい!」


 そこからは、妻を交えて昔話に花を咲かせた。印須磨とは、昔私が住んでいた場所の名前で、今は別の名前で呼ばれているらしい。ひとつ思い出すと、芋蔓式にどんどんと記憶が蘇ってくる。ここらあたりの子供たちを集めて、山の中に秘密基地を作ったこと、港の堤防で釣りをして、大人が驚くほどの大物を釣り上げたこと、等々……。

 なぜ、今ままで思い出さなかったのだろう。その答えも記憶の中にあった。


「てっちゃんもねぇ、あんなことさえなければ、ずっとここで暮らしていたかもしれないのにねぇ」


 あんなこと。


「ごめん、ちょっと」


 私は気分が悪くなり、洗面所に駆け込んで。記憶、恐ろしい記憶のフラッシュバックに耐えられなかった。


 あの夜。


 私たち家族の住まいにが侵入し、私の両親を惨殺した上に死体を持ち去ったのだ。その一部始終を、私は見ていたのだ。屋根裏で、声を潜めて。侵入者が現れる直前に、両親が私をそこへ押し込め、“動くな、声を出すな”と普段は見せない恐ろしい表情で告げたのだ。


 両親の行動によって、生き残った私は親せきに引き取られ、この地を離れたのだ。


 こんな衝撃的な事件を、なぜ忘れていたのか。衝撃的過ぎたから、記憶に封をしていたのか。こんな場所に来なければよかった。そうすれば、恐ろしい記憶を取り戻すこともなかった。忘れて、平凡だが幸せな人生を送ることができたのに。苦しい。辛い。


 私を心配して、妻が様子を見に来た。妻には心配を掛けたくない。「大丈夫だ」と強がりを言って、部屋に戻った。耳の奥で、あの音が大きく響いている。



 食事を終え、布団にもぐりこんだものの、まんじりともせずにいた私は、浴衣姿のまま旅館の外に出た。耳鳴りが大きくなる。

 旅館の玄関から外に出ると、懐かしい潮のにおいが鼻をついた。身体にまとわりつく潮風の感覚も懐かしい。ここで生まれ育ったのだと、実感する。耳鳴りが、さらに大きくなった。


 打ち寄せる波の音に誘われ、浜に出た。堤防を越え、砂地に足を降ろす。砂に足を取られながらも、波打ち際に向かって進む。空には月が。今日は満月か。そういえば、記憶よりも砂浜が狭い。今、大潮なのかもしれない。耳鳴りが。無視できないほど、大きく響く。


 波の音と、耳鳴り。


 招くような潮の満ち引き。脈動するような耳鳴り。


 おもい、だして、きた……この、みみなりは……。


「あなたっ!」


 堤防の方から、妻の叫び声が聞こえた。ゆっくりと、振り返る。


「あ、あなた……顔が!」


 手をあげて顔に触れると、ぬるっとした冷たい感触が。顔の形も少しずつ変わっていくのを感じる。


「く、るな……私は、もう……」

「あなたっ! 哲男さんっ!」


 すまない。もう、人間の言葉を話すことも難しくなってきた。ようやく、耳鳴りがはっきりした音に聞こえる。言葉だ。耳鳴りだと思っていたのは、言葉だった。「カエッテコイ」そう言っていた。


 私は、再び海を見た。私を呼ぶ海を。そこに、異形の姿を見つけることは、難しくなかった。かつて両親を裏切り者として処分した彼らは、その子供である私を受け入れてくれようとしている。いや、昔から呼んでいたのだ。還って来いと。


 私は、ゆっくりとした足取りで、故郷に──海の中へと戻って行った。もう耳鳴りは聞こえない。


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