ラスト・エチュード

七四六明

最後の練習曲

 澤城さわしろさんは努力家だ。

 僕が初めて会ったのは、高校入試の合格発表のとき。

 自分の番号を見つけて歓喜していた僕は、掲示板の前に群がる好敵手らと一線を引いて、ずっと後方で受験番号を握り締めている彼女を見つけた。

 僕は少し気になって、彼女に話掛けた。

「見に行かないの?」

「まだ、まだね。もう少しよ」

「ふぅん」

 僕は少し待ってみた。彼女の言うもう少しまで。

 確認し終えた受験生が蜘蛛の子を散らすように去って、彼女が見られるだけのスペースが空いたのだ。

 人の少なくなった掲示板へ向かい、自分の番号を確認した彼女の軽やかなステップは颯爽の一言で、わずかに緩んだ頬の見せる微笑みは静謐の中に整えられていた。

 今の今まで抱き合ったり叫んだり、胴上げされたりと興奮の坩堝状態にあった掲示板前を舞うように抜き出た彼女は、どこか異質に見えた。

「あった?」

「……あった」

 僕は彼女に合わせて、静かにタッチした。

「おめでとう。同じクラスになったら、よろしくね!」

「うん……よろしく」

 数日後、僕と澤城さんは同じクラスになった。

 そして僕らはよく、放課後の図書室で喋った。

「テスト勉強してないなぁ。澤城さんは?」

「それって高得点取る前振り?」

「違うって。僕は勉強が苦手って話。澤城さんはしてる? テスト勉強」

「家では毎日、二時間は勉強するようにしているの。だから特別な勉強はしていないけれど」

「へぇ、そうなんだ。よくそんな続くね」

「まぁ、ね……そういう習慣をつけるよう、頑張ったの」

 そう言っていた澤城さんは、一学期最初のテストで一人だけ九十点台を叩きだした。

「あれ。澤城さん、その指怪我したの?」

「あぁ、これ。家庭科の調理実習があるから、練習しているの。でも指、切っちゃって」

「そっかぁ。澤城さんの料理、楽しみだなぁ。あ、僕ら同じ班だからよろしくね」

「うん」

 後日僕は、澤城さん手作りのハンバーグを食べた。

 おいしかった。特にデミグラスソースは絶品の一言だった。

 今度は肉じゃがを作ってもらおう。

「明日は林間学校だね。キャンプファイヤーで一緒に踊ると、永遠に一緒になれるって噂らしいよ」

「そう、なの? ……で、鳴無おとなしくんは誰かと踊るの?」

「それが今、予定がないんだよねぇ。澤城さん、一緒に踊ってくれない?」

「い、いいの……? 私で」

「むしろお願いします」

「そ、そう……じゃあ、練習しないと。付き合って、くれる?」

「もちろん! では、シャルウィダンス?」

 放課後、橙色の夕暮れに沈む図書室で僕らは踊る。

 たどたどしいステップを踏む僕と、軽やかな足捌きを見せる彼女の凸凹コンビは、林間学校に向けてダンスの練習を続けた。

「澤城さんてピアノ弾ける?」

「弾けないわ。でもなんで?」

「今度の合唱祭、ピアノ弾く人がいなくてさ。澤城さんはどうかなぁなんて」

「じゃあうちのクラス、どうするの?」

「うぅん。何人かが練習してるみたいだけど、先生に頼むかもしれないね」

「そう……わかったわ。私も練習、頑張ってみる」

「ホント? ありがと、澤城さん」

 後日、彼女は音楽室でピアノを披露した。

 相当に練習を積んだのだろう。高速の『ねこ踏んじゃった』はもちろんのこと、モーツァルトの『怒りの日』まで、彼女の細い指は美しい旋律を奏でた。

 優勝はうちのものだ。僕はそう確信した。

「二年生最大のイベント……修学旅行だよ! 澤城さん!」

「そう、ね……」

「どうしたの? 気分悪そうだけれど」

「沖縄への修学旅行と言ったら、やっぱり戦争体験の話を聞かされると思って、戦争の資料とかを見ているのだけれど、そのとき見た映像がグロテスクで……」

「大丈夫? 保健室行く? 澤城さんは本当に勉強熱心だなぁ」

「聞き流していい話じゃないもの。せっかく話してくださるのに、みんながみんな下を向いてあくびして、挙句の果てに寝てしまっては失礼だと思うから」

「それもそうだなぁ。よし、僕も付き合う! 一緒に勉強しよう!」

「……うん、ありがと」

 僕と澤城さんは後日、修学旅行先は沖縄なのに広島の戦争資料を見てしまって、夜になかなか眠れない日が続いた。

 だけどそのお陰で、僕は周囲がウトウトしている中、まったく眠くなることなく話を聞くことができた。戦争はやっぱりしちゃいけない、絶対。

「ねぇねぇ、澤城さん。学園祭で何やりたい?」

「うぅん……あまり、思いつかないけれど、鳴無くんは?」

「僕は焼き鳥屋をやりたいと思ってるんだ。簡単にできるし、三年生は火も使えるしね」

「いいんじゃ、ない……?」

「よし、じゃあ澤城さんはタレ担当ね!」

「タレって、焼き鳥の、よね……できるかしら」

「大丈夫、大丈夫! 澤城さんの料理スキルの高さは知ってるから!」

「一年生の調理実習まで、包丁も握ったことなかったけれどね」

「というわけで、僕は屋台を組んでくるから澤城さんもよろしくね」

「うん……わかったわ」

 学園祭当日。

 澤城さんの作った焼き鳥のタレはやはりおいしかった。

 学園で一番最初に売り切れるくらいに好評で、学園賞を受賞した。

「進路かぁ……澤城さんはどうするの?」

「私、私は、大学に行こうと思って、勉強してるわ」

「そっかぁ。僕も澤城さんと同じ大学行こうかなぁ」

「じゃあ、一緒に勉強する……?」

「いいねぇ。よし、じゃあ二人で頑張ろっか!」

「うん」

 放課後の図書室。

 僕の家。

 そして彼女の家で、僕らは勉強を重ねた。

 部活の先輩で目指してる大学に行ってた先輩がいたから、その人のアドバイスも受けて僕らは勉強に励む。

 そして僕らは揃って、自分の家のパソコンで合格を確認した。

「やったね!」

「うん、お疲れ様」

 放課後の図書室。

 いつもの場所で、僕らはそれこそ三年前の高校入試合格発表の時と同じように、静かにタッチして喜んだ。

 僕らはお互いの健闘を称えて、帰りにファミレスで祝勝会を開いた。

「いやぁ、思えばこの三年間で色々ありましたなぁ」

「まだ卒業したわけじゃないのに」

「でも残すところあと一ヶ月くらいじゃん? 三年があっという間なんだから、一ヶ月なんてもう明日みたいなものだと思うんだよねぇ」

「それもそうね……」

 僕の言った通り、僕らは一ヶ月という時間をあっという間と表現することもない一瞬で消費し、卒業式を迎えた。

 僕は卒業証書を手に、いつもの図書室に駆け込む。

 いつも通り、しかして今日が最後となる高校生の澤城さんが、そこに立っていた。

「澤城さん」

「……鳴無くん」

「卒業式、終わったよ」

「そう、ね」

 彼女は悲し気な表情で俯いていた。

 なにか言いたそうで、しかし言ったところでどうにもならないことを噛み締めて言い出せない、そんな表情だ。

 僕にはその気持ちがよくわかる。

 だからこそ僕は、いつも通りに振る舞おうと思っていたのだけれど、今日ばかりはどうしようもない。

 今日が何せ、最後だからだ。

 僕は彼女の手を握って、引こうとした。

 一抹の不安を抱いた彼女は一度立ち止まるが、僕が微笑みで返すと僕の誘導に従って、一緒に歩いてくれる。

 図書室からは廊下を突っ切って、階段を二階分上がったところ。そこに、僕ら三年生が一年間お世話になった教室がある。

 歩いてしまえば五分もない距離だが、僕らは十分、二十分と時間をかけて進む。

 教室が近付く毎、澤城さんの顔が青くなっていく。酷く辛そうだ。

 最初に彼女の容態に気付いたのは、入学式のときだったか。なんとなく図書室で会った僕は、入学式にも教室にもいなかった彼女に、何故いなかったのかと問うた。

 当時の僕らはまだあまり知らない仲だったからか、彼女は話してくれた。

 澤城さんは小学生の頃に酷いいじめを受けて、それ以来学校の教室に入れなくなってしまったのだと。だから小学校、中学校と図書室で勉強して過ごしてきたのだと。

 だけどそんな自分が嫌で、毎日放課後の誰もいない時間に一人、教室へ行く練習をし続けていたが、今まで一度も行けたことはないらしい。

 なら僕が一緒に行ってあげるよ。

 始めこそ、階段すら上がれなかった。

 だけど僕らは一歩一歩近付いていった。三年生になると図書室から一番遠い教室になってしまってとても大変だったけれど、それでも僕らは諦めなかった。

 毎日の放課後、図書室から教室へ行く練習を続けた。

 それこそ何度辛くなろうとも、何度僕がやめようかと訊いても、例えその日は折り返しても、澤城さんは練習を続けた。

 そんな彼女を放っておけなくて、僕も三年間付き合った。今日はその三年間の成果を見せる唯一にして最後の機会。

 足取りが重くなっていく。吐き気が酷い。震えてしまう。

 過去に浴びた罵詈雑言。仕打ちの数々を思い出して、涙が止まらない。

「大丈夫、大丈夫」

 気付けば僕は最初、ただ彼女の手を引いていただけだったのに、彼女の肩を抱いていた。

 一歩、一歩、僕らは進んでいく。

 学年トップの成績を収めた彼女を、僕以外の誰も知らなかった。

 調理室に行けなかった彼女の作るハンバーグの味も、僕しか知らない。

 キャンプファイヤーは一緒に囲めなかったし、修学旅行も行けなかった。ピアノを皆の前で弾くこともなかった。

 学園祭に澤城さんが貢献したと伝えると、彼女は電話の向こうで嬉しそうに泣いていた。

 大学受験、僕はまた彼女が教室に行けるように練習に付き合うために同じ大学を選んだ。

 澤城さんはずっと、ずっと、努力し続けてきた。誰よりも真面目に頑張って来た。

 僕はそんな澤城さんを知っている。

 教室の扉のまえ、僕は先に教室に入って迎える形で腕を広げた。

「大丈夫、澤城さんならできる! 僕が受け止めるから!」

「鳴無、くん……」

 僕は彼女を受け止めた。

 三年間という月日をかけて、ついに彼女は無事、自分の教室に辿り着いたのである。

 彼女が学ぶはずだった。一緒に過ごすはずだった教室には、もう誰も残っていなかった。

 だけどそこにはついにここに辿り着くことに成功した彼女がいた。

「ありがとう」

「おめでとう、澤城さん」

 澤城さんはやっぱり努力家だ。

 最後の最後で、努力が実を結んだ。

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ラスト・エチュード 七四六明 @mumei

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