雪解けのケーキナイフ
山田恭
氷漬けのクロカンブッシュ
この瞬間を、誰か祝ってくれるだろうか。
二十年前のこの日は寒い日だったと記憶している。
父は山登りが好きな人で、しばしば幼かった彼を連れて山に登った。連れが子どもであればそう難易度の高い場所へは行かないとはいえ、登山をすれば数多の艱難辛苦がある。二十年前のその日に登った山は標高はそうは高くなかったが、冬が迫りつつある季節柄と急な悪天候により、父親と彼は山頂の小さな山小屋に取り残された。視界を塞ぐ吹雪に極寒と、状況はけして良くなかったが、さりとてそう悪いわけでもなかった。山小屋には食料から水から燃料から十分に蓄えがあり、麓に電話をかけることもできたからだ。新しい予報によれば、明日の朝になれば天候は快復するらしい。
そういうわけで、その日は山小屋に宿泊した。少年にとってはキャンプのようなもので、父にとってもおそらくそうだっただろう。
彼が目を覚ましたのは夜半である。異変を報せたのは身を切るような寒さか、男女の呻き声か、あるいは木張りの床が軋む音か。
一酸化炭素中毒を避けるために暖房は眠る前に切っていたが、それにしても寒かった。あまりの寒さに、寝袋から首から上だけを出して周囲を見回す。入口の戸が開いていて、外の景色が見えていた。太陽はまだ昇っていなかったが、既に雲は晴れていて、差し込む月明かりとそれを照り返す雪のおかげで、山小屋の中を明瞭に見ることができた。
仰向けの父の上に女が乗っていた。
寝入ったときには小屋の中に父と彼以外の人間がいなかったはずだ。新たに遭難者が入ってきたのやもと思いかけたが、それにしては女の格好はあまりに軽装過ぎた。女は白い着物を身に纏うだけなのだ。いや、正確なところを述べるのであれば、着物を纏っているというのも間違いになる。なにせ、父の上に大股を広げて跨っている女の着ているものははだけられていて、白く艶かしい脚が見えていた。胸がぶるんぶるんと揺れていた。
格好が異常といえば、父もそうだった。寝入る前には、しっかりと上着を着ていたはずだ。それなのにいまは上着の前をはだけ、下穿きに関しては膝のところまで降りていた。そんな状態で、起きているのか寝ているのかわからないような表情のまま、ときたま呻くだけで、女が跨るのを受け入れているのだ。
少年は動けなかった。声を潜めて、じぃと父と女を観察することしかできなかった。
何分、何時間とそうしていただろう。その間、ずっと女は父の上で腰を振り続けていたが、父の呻き声は途中で聞こえなくなっていた。
急に女がこちらを向いたとき、自分が漏らしたと思った。なぜならば股間のところは濡れている感じがするし、あまりの恐怖で漏らしてしまうという現象も、直接は見たことないながらも物語などで知っていたからだ。
「見ていましたか?」
女は若く、美しかった。だがその背筋が凍るような声で、少年は服の中に雪を突っ込まれていたような感覚を味わった。
彼は頷きも首を振ることもできなかったが、女はしばらく逡巡する様子を見せたあと、真っ白な着物を直して立ち上がると、音もなく彼のもとへと近寄ってきた。
「今日のことは、誰にも言ってはいけませんよ?」
昼になって救助がやってくるまでのことはよく覚えていない。たぶん、股の冷たさなど瑣末なことには気にも留めずに、寝袋の中でぶるぶる震えていたのだろう。
救助隊は救助隊で、さぞ驚いたことだろう。なにせ、朝になって天候が快復すれば降りてくるはずの親子が戻ってこず、迎えに行ってみれば父親のほうは服を半ば脱いで死んでいるのだ。子どものほうは詳細を聞いても何も答えないわけで、おそらく刑事事件になったのだろうが、変死としてしか片付けられなかっただろう。あるいは遺体を調べ、死ぬ前の行為を推定することができたとしても、同行していたのは息子ひとりだけなので、犯人の目星や当時の状況はわからなかったに違いない。あるいはわが子である少年に欲情して、という可能性も考えられただろう。だから少年は何も言わないのだ、と。まさしく馬鹿げた考えであるが、そうした馬鹿げた噂ほどよく広まるものだ。母親が当時途方もなく大きな心労を負っていたはわかる。その後数年してから身体を壊して亡くなった。
あれから二十年、成長した少年は父が亡くなったのと同じ日付に、あの山小屋に来ていた。
二十年前と同様、目の前が見えないほどに吹雪いている。山小屋には彼のほかに滞在者はいない。燃料や食料は十分にあり、麓からの予報ではやはり明日の朝には天候は良くなるらしい。山小屋にも少年にも年月による変化がある以外には、二十年前の再現だった。
であれば、その晩に起きる出来事も、二十年前の再現になるに違いなかったのだ。
音もなく山小屋の前室と居住部屋の扉が開くや、美しく若い女の姿が現れた。真っ白な肌に真っ白な着物。彼女が歩くそばからそばから空気が凍てつき、霜が降りる。静謐な空気で満たされた山小屋の中、女は男の寝袋の上にそっと跨ると、ゆっくりとそのファスナーを下ろし始めた。
その刹那だった。かっと彼の目が見開かれたのは。
「かかったな!」
男は上体を起こして女の身体を跳ね除けた。瞬時に寝袋を脱ぎ捨てて仁王立ちになる。「きゃっ」という可愛らしい声をあげて尻餅をつき、呆然とした表情になった女を見下ろす。
「これを見な!」
防寒ジャケットのファスナーを開けて中の服を剥ぐと、彼の腹には彼の名前が刺繍された毛糸の腹巻が巻かれており、そこにはライター、携帯カイロ、小型湯たんぽなど、ありとあらゆる着火・暖房器具が差し込まれていた。ネックウォーマーを額までずり上げて鉢巻のようにすると、腹巻から取り出した蝋燭を二本差し、チャッカマンで火を点けた。
さらに腹巻からコードの付いた操縦桿のような形の黒い装置を取り出す。桿の上には赤いボタンが付いているので、それが何らかの装置を動かすための道具であることは目の前の女にも理解できるだろう。
「おっとっとぉ……動いてくれるなよ。この小屋には暖房装置が各所に隠れて備え付けられてある。いっせいに起動すれば、いかに雪女でもどうしようもあるまい!」
すべてはこの日のために計画されていた。両親の死後、遠縁の親戚に引き取られたが、そこで必死に勉強をした。雪女に負けぬ方法を、だ。雪女の目撃情報を調べた。伝承を調査した。身体を鍛えた。南極にも行った。働いた。金を貯めた。土地を買った。山小屋を改良しつつも外観や内装を保とうとした。客を遠ざけた。
すべては今日、この日のために。
女だ。雪女だ、間違いないだ。女は涙を浮かべ、おろおろとした表情で不安げに周囲を見回している。両方の掌を床につき、立ち上がりたいのかもしれないが、腰が抜けてしまって動けないという様子だ。
雪女を見下ろす。跳ね除けられた勢いで帯が緩み、着物ははだてしまっていて、白い肩や太腿が覗いていた。二十年前と変わらない美貌だ。変わった点があるとすれば、小さくなったことくらいだ。そう見えるのは、少年のほうが成長して大きくなったからだろう。
ほかに方法はなかったのか。いまさらながら、そんなことを考えてしまう。いや、接近するためには、これしか方法がなかった。相手が得体の知れない魑魅魍魎であれば、先制して脅すしかなかった。これしかなかった。これしかなかったのだ。
己に言い聞かせながら息を吸って、吐く。
「おれを覚えているか……? 二十年前、あなたに父親を殺された者だ」
問いかけてから、男は唇を噛んだ。練習とは違うことを言ってしまった。もっと、もっと違うことを言うはずだったのに。
雪女はがたがたと、まるで極寒の中にいるかのように震えていた。「ご、ごめんなさい……ごめんなさい」と何度も呟いている。彼女にしてみれば、まさか襲おうとした男がこんな準備万端で待ち構えているだなんていうのはまったくの予想外だったのだろう。形成逆転だ。だが、だが違う。彼が聞きたいのは、そんな謝罪の言葉ではない。それどころか「ごめんなさい」はもっとも聞きたくない言葉だ。
「父は死んで、母もそのあと死んだ。きょうだいはいない。引き取ってくれた親戚は親切で、おれのやりたいようにやらせてくれた」
だから、だから……くそ、違う、言いたいのはこれじゃない。雪女の表情も、驚きと困惑が混じったままで変わらない。
「おれは学があるし、金を持っている」口下手だが。「商売もできる。身体も鍛えている。健康だ」たぶん。きっと。「寒さに強い」
これでもない。練習した言葉が出てこない。
もう一度深呼吸をする。
この状況を見ている者がいたら、滑稽に思うだろうか?
「誰だって、一生懸命やっている者は滑稽に見えるもんさ」
幼い頃にそんな話をしてくれたのは、死んだ父だった。目の前の、明らかに人間ではない、化け物のような存在が殺した、父。彼は、成長した少年がこれからすることを喜んではくれないだろう。母も。
ごめんなさい、と心の中で両親に謝罪してから、男が最後に腹巻から取り出したのは、小箱だった。開くと、中には指輪が入っていた。
「好きです。結婚を前提に付き合ってください」
二十年前のあの日、一度だけ見た雪女の姿はあまりに美しかった。彼女がどれだけ恐ろしい化け物であるかを理解しながらも、近づきたい、その肌に触れたいという欲求は振り払えなかった。正体も何もわからない、肉親を殺しただけの存在なのに。
魅了された。
恋をした。
会いたかった。
だからこの彼女と会うための準備のために、この二十年間を捧げた。復讐の気持ちはどこにもなく、だから故人には申し訳ないとも思ったが、気持ちを止められなかった。彼女と結ばれるためならば、呪われてもいいと思った。
でも、誰かが、誰かが……雪女が男の手を取ったこの瞬間を祝ってくれればいいとも思う。一言だけでも。なぁ、どうだ?
雪解けのケーキナイフ 山田恭 @burikino
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