第3話 島沢尚斗 3

 相変わらず、俺と愛美まなみは仮面夫婦状態。

 ナッキーはさくらちゃんと暮らし始めて…絶好調。

 新しい曲もガンガン書いてくるし。

 歌の面では、いつもながら何も問題はない。


 本当に感心するのだが…

 ナッキーは、バンドを組んで一度も風邪をひいただの、ノドの調子が悪いだの…とにかく不調を訴えた事がない。

 本人は普通のつもりでも、ん?と思うような事が一度だけあったが…それは、本当にメンバーにしか分からないような小さな事だ。


 体が丈夫なのもあるかもしれないが、ナッキーのプロ意識と言うか…

 見えない部分で努力してる所…本当に尊敬する。



「…え?」


 それは、ナッキーが絶好調になって一年経った頃だった。


周子しゅうこが産んでた。」


 …なんと。

 周子さんが、ナッキーの子供を…

 産んでた。


 過去形。


「今、七ヶ月。」


「……」


 これには、メンバー全員が言葉を失くした。


 基本、ナッキーは子供好きだと思う。

 だが、自分の子供は要らないと言い続けていた。

 それを知っていたであろうはずの、周子さんが…


 しかしそこは、いつも気持ちのいい男。


「子供が生きにくい環境を作りたくない。」


 別に黙っててもよさそうなものを。

 そんな理由で告白するなんてなあ…



 だけど、さくらちゃんには打ち明けられないままだったらしく…その夏、俺は初めて絶不調のナッキーを見た。

 事務所にいても、誰とも喋らない。

 下ばかりを向いて、ナッキーの溜息でこちらが滅入りそうなほどだった。


 …バレたんだろうな。


 何となく、そう察した。


 さくらちゃんとの事は、俺しか知らないようだったが。

 マノン達も、一緒に暮らしてる存在がいる事には気付いていて。

 ナッキーの調子が戻らないようだとしたら…一度家に押しかけてみるか…などと言っていた。


 まあ、そういう事をしなくても…ナッキーは何とか自力で上を向いて、復活した。

 …俺は、まだ、愛美とスッキリしない関係のままだと言うのに。



 そんなある日。


「…何これ。」


 俺は一枚のチケットを手に、瞬きをたくさんした。


「確かナオト、ファンや言うてたやろ?」


「あ…ああ…」


 チケットは…天使のリサイタルの物。

 しかも…

 めちゃくちゃいい席じゃないか!!


光史こうしが、麻疹になってん。うつしたらマズイし、行くのやめとく言うて。なら、ナオトにどうかって。」


「……さ…サンキュ…行かせてもらう…」


 しかし。

 チケットは二枚。

 愛美と…行くって事だよな…



 天使を見ている俺を、愛美には見られたくないと思った。

 だいたい…愛美は俺がピアノを教えた事もあるし、就職活動のためにピアノを習っていた事もあるが、公演を見に行くほど音楽にしろピアノにしろ…興味はない。


 …しかし、仕方ない。

 愛美と行くしかない。



 帰って、愛美にチケットを見せながらその事を話すと。


「ふうん…あたしはいいよ。ナオトさん、行ってきたら?」


 意外にも、そっけない言葉。


「…ああ、分かった。」


 ここ数年の俺達の様子で言うと…俺が何かに誘ったら、愛美は手放しで喜んでいたが。

 …そろそろ、この状態に限界を感じているのかもしれない。

 もう、どれぐらい愛美を抱いてないだろう。






 罪悪感はあるものの、俺はチケットを片手に天使のリサイタルへ向かった。

 何年ぶりかの天使のピアノに、変わることなく胸を打たれ…心揺さぶられた。


 こんなピアノが弾ける天使は…やはり俺の憧れの人で…初恋の人だ。


 そして…今も大切に想える人だ…



「島沢様。」


 公演が終わり、ロビーを歩いていると…声をかけられた。


「はい?」


「控室へどうぞ。」


「え?」


 ま…まさかの展開だった。


 控室へ!?

 天使と話せるのか!?


 俺は自分のライヴでも、こんなに緊張した事はない。というほど…ひどく手に汗をかいた。

 控室までの道のりが、遠く遠く感じられた。



「では。」


 案内してくれた男性がお辞儀をしていなくなり…

 俺は一度深呼吸をして、ドアをノックした。


『はい。』


「し…島沢です。」


『ああ、はい、どうぞ。」


「失礼します…」


 ドアを開けて中に入ると…


「素敵なお花を、ありがとうございます。」


 天使は…俺が贈った深紅のバラの花束を手にして、微笑んだ。

 ああ…いくつになっても、やはり天使は天使だ…



「今日、奥様はご一緒ではなかったの?」


「あ、は、はい…体調が優れなくて…」


「あら、それはいけないわ。お引止めしてごめんなさい。」


「いえ……あの。」


「はい?」


 俺はゴクンと生唾を飲み込んで。


「…小さな頃から、あなたに憧れていました。」


 おい。

 俺。

 何勢い付いて…告白なんかしてんだ!!



「…え?」


 天使は驚いた顔。


「あなたのピアノに…魅了されて…その…」


「まあ、嬉しいわ。」


 天使は俺に近付くと、両手でギュッと俺の手を握った。

 俺と天使の間に、深紅のバラ。


「あっ、ああ、いえ…」


「世界のDeep Redと言われるバンドで、鍵盤を担当されてる方にそう言われるなんて…あたしもまだまだ頑張れそうだわ。」


「も、もちろんです。貴女のピアノは…俺にとって、ずっと世界一です。」


「島沢さん…」


 天使の指は、思った以上に細かった。

 近くで見ると、年齢よりは若く見えても…やはり相応にしわがあった。

 だが、それが何だ。

 それも全てが美しい。


「…あの…」


「はい。」


 俺も、空いた手を天使の手に添える。


「聞いてもらえますか?」


「なんですか?」


 …告白するのか?俺。

 どうかしてるぞ?

 …だけど。


 変わらなきゃいけない。

 このままで、いいわけがない。


 …終わらせるんだ。



「…貴女は、俺の初恋の人です。」


「……え?」


 さすがに、驚かれた。


「9歳の発表会の時に、控室でバッタリお会いして…天使だと思いました。」


「……」


「あの時からずっと、貴女は、俺の天使です。」


「…こんな、おばあちゃん捕まえて、天使だなんて…」


 天使が、手を引こうとした。

 俺はそれをギュッと掴む。


「…島沢さん…」


「貴女はきっと、いくつになられても…俺の天使だと思います。」


「……」


「貴女への気持ちが…ずっと残ってしまって…前に進めませんでした。」


 俺のバカな告白を、天使は優しい笑顔で聞いてくれている。


「妻がいます。なのに…貴女への想いを断ち切れなくて…」


 …ああ?どうした?俺…

 俺の目から…涙が…


「…辛いんです…」


 俺は、なんだって…こんな無様な告白を…天使に!?


「…島沢さん。」


 天使はゆっくりと手を離して…

 俺を、抱き寄せた。


「…きっと、あたしは島沢さんの理想の天使なんでしょうね。」


 天使は俺の耳元で、ゆっくりと喋る。


「理想のままでいてあげたいけれど…あたしも妻で母で…ピアニストとしてやっていくために、色んなものを犠牲にしたり…色々思い悩みました。」


「……」


「天使と言ってもらえるような、人間じゃないんですよ。」


「…それでも、俺には…」


「ありがとう。島沢さん。」


「……」


「あなたの、その言葉で…あたしも踏ん切りがつきました。」


「…踏ん切り?」


 天使は俺の頬を撫でながら。


「息子のような方から、こんな光栄な言葉をいただけるなんて…あたしは世界一幸せなおばあちゃんです。」


「…貴女は、永遠に天使です。」


「ありがとう。」


 頬を合わせた。

 バラの香りが、二人を包んだ。



 天使への片想いが…

 愛美と結婚して、苦しくなった。

 違う。と言い聞かせながら、精神的な浮気だと自負していた。


 愛美は気付いていたのかもしれない。

 天使のレコードやCDを聴く時だけは、俺は部屋にこもる。

 …まあ、気付いてても気付いてなくても、それはいい。


 …ちゃんと、話し合おう。



 そして…この数ヶ月後。



 天使は引退発表をした。






 家に帰ると…


「……」


「…何よ。」


 玄関で、愛美が知らない男と抱き合っていた。


「…とりあえず、君は帰ってくれるかな。」


 抱き合っていた男に言うと。


「……失礼します…」


 男は、そそくさと走り去った。


「…今のは?」


「知らない。」


「知らない男と抱き合うのか?」


「誰だっていいの。寂しいだけだから。」


「……」


 無言で、愛美を後ろから抱きしめる。


「……何よ、これ…」


「誰だっていいんだろ?じゃ、俺でもいいわけだ。」


「…何なの…今さら…」


「…そうだな…」


 溜息をつきながら、愛美の頭に顎を乗せる。


「…ごめんな、愛美。」


「…何が。」


「気付いてたんじゃないのか?」


「……好きな人がいる事?」


「………ああ。」


「……」


 愛美はガックリと肩を落として。

 それから、俺に向き直って。


「で?好きな女の所に行くから、別れてくれって言いたいの?」


 俺の足元を見ながら言った。


「……」


「そりゃあね…前の彼女を知ってるからさ…あたしなんて、ガキに思えてつまんなくなったんだろうなって。気付いてたわよ。」


「……」


「だけどさあ。あたしの人生、ナオトさんが作るって断言したよね。まあ、そんな誓いも愛も、時間が経ったらどうでも良くなるんだって、あたしは勉強させられたって思えばいいんだけどさ。」


「……」


「…何なのよ…好きな女って誰よ…あたし、ずっと…」


武城たけしろ 桐子とうこさん。」


 俺が名前を言うと。

 愛美は一瞬息を飲んで。


「………は?」


 涙の溜まった目のまま、俺を見上げた。

 見上げた勢いで、右目から涙がこぼれる。


「俺の、初恋の人。武城桐子さん。」


「……るーさんの、お母さん…?」


「ああ。」


「…マノンさんの…義理のお母さん…?」


「ああ。」


「…光史くんの…お祖母ちゃん…?」


「ああ。」


「…え?」


「…9歳の時に好きになって、以来…ずっと憧れてた。」


「……」


 もはや愛美は言葉も出ない。

 口を開けたまま、俺を見つめている。


「あの人と、どうこうなりたいなんて気はないよ。ただ…憧れが強かったのと、俺の中であの人が純粋過ぎて…」


「……」


「愛美にあの人の何かを求めてたわけじゃない。だけど……俺の身勝手な片想いに、愛美は振り回されただけだな…ごめん。」


「……」


「今日、公演を観て…自分の中で完璧に終わらせた。」


「……」


 愛美は瞬きをたくさんして、眉間にしわを寄せて。


「…ちょっと…頭が…混乱してて…」


 震える声で言った。


「…さっき、男と抱き合ってるおまえを見て思った。あー、俺何してたんだろって。」


「…それは、あたしと結婚した事の後悔?」


「いや…いつまで憧れと夢の世界に浸れば気が済むんだって。」


「……」


「まだ、俺の事好きか?」


 俺の問いかけに、愛美は。


「はあ?」


 下からえぐるような声でそう言ったかと思うと。


「ふざけないでよね!!何年あたしをほったらかして、寂しい想いさせたと思ってんの!?」


 俺の胸ぐらを掴んだ。


「…二年ぐらい?」


「二年二ヶ月よ!!」


「…申し訳ない。」


「で?ナオトさんは、どうしたいの?どうして欲しいの?」


 胸ぐらを掴まれたまま。

 俺は、愛美の涙いっぱいの目を見つめていた。

 …こいつ、こんなに大人っぽい目してたっけ。


「…何でも、愛美の言う通りにする。」


「…別れたいって言ったら…?」


「それはダメ。二年二ヶ月を償うためにも、一緒に居てもらわなきゃ困る。」


「……」


 愛美は一度涙を拭うと、ふっと冷たい顔をして…吐き捨てるように言った。



「…じゃあ…もう一度プロポーズして。」


「…分かった。」


「ただし、あたしの心を動かすような物じゃなかったら…ダメだから。」


「……分かった。」


 ああ…

 分かった。と、答えてしまった。

 いいのか?


 だけど償いたい気持ちは本当だ。

 本当だけど…


 もう一度プロポーズ。



 …さて。

 そこまで熱くなれるのか?


 俺。

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