第9話
「おおい、糸!海へ遊びに行くぞ!楽しいぞー。宿題なんか、後回しでいいだろ!」
あの日以来、父は休みの度に遊びに連れて行ってくれる、子煩悩な人物に変貌していた。それだけでなく、研究所で働いていたという事実もなくなり、あの喫茶店のオーナーとして当たり前のように私の父は存在していた。
きっと、マスターが宇宙へ帰る前に私に残してくれた、置き土産だと思っている。
「えーと、あなたは、私の息子…、いえ、娘よね。うーん、そうだった、気がする…」
母は、少しずつ、私のことを思い出してくれている。きっといつか、完全に記憶が戻ってきてくれると信じたい。
「糸ちゃん、遊びに来たよ」
陽ちゃんが玄関のドアを開け、明るい笑顔で手を振る。
「陽ちゃん!お父さんが、海に連れてってくれるって!一緒に行こうよ」
あの後、陽ちゃんがアパートに帰ると、知らない男の人はいなくて、全ては元通りになっていた。変な生き物を産んだという記憶は無くなっていて、以前の明るい陽ちゃんに戻っていた。これも、マスターが宇宙に帰る前に元に戻してくれたのだろうと思っている。
「おう、陽!糸!今日は何すんだよ」
「あっ、久竹。首の赤い発疹、大丈夫?」
「ああ、だいぶ治ってきたよ。宇宙のウィルスとやらも、たいしたことねえな!」
「着替えるから、待ってて!」
まだ部屋着だった私は、着替えるために自室に入る。
「ニャー」
机の上にいたシロが可愛い声で鳴く。
見ると、一瞬シロの目がカメラのレンズのように見えた。が、瞬きすると、いつもの黄色い猫目に戻っていた。
「海に行ってくるね!お留守番よろしく!」
額をくっつけてグリグリすると、猫の瞳に映った私の姿が、黒く、陽炎のように見えた。
シロが少し口を開く。
「宇宙から、いつも見守っていますよ」
かすかにマスターの声が聞こえた気がした。
が、私は気にしないことにして、いつものパーカーとズボンに着替えると、海へ行くために階下へ降りた。
赤い雨 砂野秋 紗樹 @goichido
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