悪魔の妹背が生まれた日

七星

誕生日と、その後日談




 足が痛かった。

 荒くなる息をひそめる余裕もない。パンプスで走るのは難しいが、それでも出来る限りの速さで歩いた。

 駅から約十五分歩いて、それなりに高いマンションに着く。オートロック付きで、私の部屋は九階だ。エレベーターのボタンを押しながら思う。

 大丈夫なはずだ。今日こそ。今月こそ。


 部屋に入るまでに誰にも会わず、入ったらすぐに寝ればいい。そうすれば、勝手に今日という日は過ぎてくれる。時間は偉大なのだ。


 チン、という軽い音を立ててエレベーターが開いて、そして。

 私はざっと顔が青くなったのを感じた。


「よお」


 てらてらと光る黒のレザージャケットが目に眩しい。長靴ちょうかの音が耳を穿つ。くらりと目眩がした。

 レザーで出来ているわけでもない彼の髪は、どうしてジャケットと同じような光沢を放っているのだろう。不規則に薄汚れた彼の顔は、ぞっとするほど美しかった。


「あ……」

「あとひと月で誕生日だな、紫苑しおん


 彼は私の名前を呼んで、美しく微笑んだ。


「これは餞別だ。受け取れよ」


 どうしてだろう。私はその声に逆らえない。反抗できた試しがない。震える手が彼の手を握り、同時に大きな箱を受け取る。私が私じゃないみたいだ。私の腕は、きっと彼に操られているのだ。そうでないと、だって私がこれを、受け取りたいはずがないのに。


「大丈夫だ、紫苑。俺にとっての一番はお前だ」


 呼吸が浅くなる。喉が潰された蛙のような喘ぎを生む。

 今しがた私に花でも捧げたような面持ちで彼は去っていく。まさか、彼にとっては花なのだろうか。これが? 冗談を通り越してショーでも見ている気分だ。笑えない。


 私は震える足取りで自分の部屋に向かった。今頃、顔は紙のように白くなっているに違いない。

 途中、世界を揺るがすような目眩がして、私は二、三歩ふらついて壁にぶつかった。咄嗟に箱を庇うように肩を突き出してしまい、笑いそうになる。こんなのを庇うだなんてどうかしている。


 部屋に着き、箱をテーブルに置く。無言で蓋を開いたその中にあったのは、白く、ほっそりとした、綺麗な手だった。手首から先だけのサイズで、ほんのりエタノールの香りが漂う。

 ああ、吐きそうだ。


 私はそっとその手を取り出し、隣の部屋へと向かった。


「十一個目……」


 ぼうっとしながら呟き、ベッドに横たわる綺麗な体の、手首の先に白い手を置いた。パズルが綺麗に合わさって、つなぎ目すら分からないほどにひとつになった。


 立ち上がって、全体を見渡す。

 一人の、女の体。

 ちょうど十一ヶ月前の、私の誕生日からだ。私の部屋に、バッグに、時には靴に。

 ひと月ごとに、人体の一部が送られてくる。

 最初は胴体だった。クール便で送られてきた白い背中を見た瞬間、思考が停止したのをよく覚えている。狼狽した私の前に、唐突に現れたがこう言った。


「俺の一番、みーつけた」


 なんの変哲もないその容貌。けれど、宵闇に紛れる黒髪は何かで濡れていて、体からは濃厚な死の匂い。

 見つかってしまったのだ、と、なんの疑いもなく私は理解した。


 そんな彼は私の頭を撫でて、額に祝福のキスを落とした。にっこりと微笑むさまはまるで人間とは思えない。


「なあ、お前に誕生日プレゼントをやるよ」

「たん、じょうび……」

「そう。俺は俺の一番を探してた。それがお前だった。だから俺は、俺の一番に相応しいプレゼントをお前にやるよ」


 意味が分からなかった。けれど、喘ぐように私は首肯する。そうでないと、次にこの白い背中になるのは自分なのかもしれなかったから。


「誕生日おめでとう。俺の一番は全部お前のもんだ」


 爽やかな笑顔でそう言って、彼はひと月ごとに、白い体を送り付けてくるようになった。


 胴体、太もも、ふくらはぎ、足、腕、手。


 全てのパーツが綺麗に切り分けられ、何をしようとも私の元に送られてくる。意味も分からず、それなのに私の体は否応なく、彼の望むように動いていた。


 次第に女の体が出来上がっていった。そして今、私の前にはほぼ出来上がった体がある。怖いのはきっと、あとは頭しか残っていないからだ。


 頭というのは恐ろしい。だって、頭が違ったらもう、誰が誰だかも分からない。せいぜい体全体の二割にも満たない大きさなのに、それがなければ、人間だとは思えない。

 いや、逆だ。頭があったら、もうそれは人間になってしまう。


 これが揃ったら一体どうなるのか。彼は私を殺すつもりなのかもしれない。これは、そのカウントダウンなんじゃないのか。


 不意に高い機械音がして、私の携帯が震えた。電子文字で「母」と記されているのを見て、私は無言で携帯の電源を落とした。






 それからひと月は、何があったのかよく覚えていない。ついに誕生日になって、大学の友達に「おめでとう」と言われるたび、彼の顔が閃いた。うまく「ありがとう」と返せていたかは、正直よく分からない。


「よお」


 玄関のドアを開けると、やっぱり彼がいた。不思議そうに首をかしげる様子は少し幼く見える。


「逃げねえんだな」

「……無駄、かなって」

「ふうん。ま、俺はそっちのが助かるけど」


 さて、と呟いて、彼はそれを差し示した。


「一年越しのプレゼントだ。誕生日おめでとう、紫苑しおん

「……」


 随分と綺麗な顔で笑うのだな、と、ぽつんと思った。


 私は視線をずらす。彼は小さな棚のようなものに座っていた。

 とても雑にその扉を足でこんっと叩く。


「俺も、まあ嫌だったんだけど、曲がりなりにもだからな。ちょっとは我慢してやったよ」


 滑らかな声。ふと気づいた。この声は、なんだかひどく心地が良い。

 唐突に甲高い機械音が響く。

 私の携帯が震えていた。

 彼は妖しく笑っている。

 私は、そっと棚の扉を引き開けた。


 私とそっくりそのまま同じ顔が、目を閉じて、中に静かに鎮座していた。

 ああ、と天を仰ぐ。

 やっぱりそうだったのだ。もう、逃げられはしないのだ。私は、今から彼に糾弾されるのだろう。

 しかし予想に反して、彼は優しく言った。


「なあ、俺の一番はお前だよ」

「……え?」

「俺の一番。俺の唯一。だからそんなに怯えるなよ。これは誕生日プレゼントなんだぜ?」


 私は呆然とする。彼はふわりとその場から降りて、小刻みに震える私の肩を抱いた。


「よかった。いきなり現実を見せられても、お前は俺から逃げなかったな。お前の選択は正しいよ。俺はお前を選んだんだ」


 彼の柔らかな声が、ピーッという電子音によって中断された。

 携帯の電源を落とすのを忘れていた。母は、娘に電話が繋がらないときは、決まって留守電を入れる。私の体は動かないまま、機械が作った音が響く。


『ちょっと紫苑! 電話に出なさいよ! 今日はお姉ちゃんの三回忌でしょう、帰ってきなさいって言ったわよね!? 全くあんたはいつもそうだわ、誕生日に死んだお姉ちゃんの気持ちにもなってみたらどうなの! ちゃんと電話かけ直しなさい、じゃないと……』


 ぴっ、と音がして、声は途切れた。彼が忌々しい顔で電源を落としていた。


「お前の娘は一人じゃねえだろうが……」


 のろのろと顔を上げる。憤りに歪んだ顔が見えた。


「今日はお前の誕生日でもあるのにな……」


 困った顔で、私の頭を緩く撫でる。


「大丈夫だ。誰が何を言ったって、俺の一番はお前だよ。お前の姉貴なんて、俺にとっては小指の先くらいの価値もない」

「どうして……だって、だってお姉ちゃんは、」

「お前が殺した。知ってるさ」


 喉がひきつれたような響きをもらした。


「いい、大丈夫だ。気にすんな。そんなことどうでもいい。大事なのは、今ここに姉の体があって、お前は死ぬほど苦しんでいて、お前には俺がいるってことだけだ」


 涙が溢れた。彼は全てを知っている。


「遺伝子が同じなのに、神ってのは不公平だな」

 

 嘲笑うように言って、彼は懐から綺麗な白いハンカチを取り出した。


「さて、これからが本番だ。見破れるかどうか見物みものだな」


 ぐいっと拭われた視界を、二、三回瞬く。私が首をかしげると、彼は心底嬉しそうな顔をした。


「俺の一番。俺の唯一。一緒に高みの見物といこうぜ」





 次の日、匿名の通報によって、私の家から死体が発見された。首を締められて殺されていたその死体は、綺麗に部屋に横たえられ、眠るような顔をしていたという。

 テレビに私の名前が表示されているのを、なんだか不思議な心持ちで見つめる。


 姉の死体は、見事に私のものだとされた。二年前の死体なのに、と言うと、彼は笑って、


「鑑識に知り合いがいんだよ。報告書さえ書き換えればそれが事実になる」


 などと嘯いた。姉の死体をどうやって保存していたのかは、知らない。ただ、彼は私のことを、二年前から好きだったと言った。


 そう、好きだったのだ。これは一世一代の告白だったらしい。確かに最初から、彼は私が「一番」だと言っていた。

 姉とは比べ物にならないくらい劣っている、私を。


「なあ、お前、どんな顔にしたい?」


 綺麗な顔の写真を色々と用意しながら、彼が言う。私は整形しなければならない。世間で騒がれている双子と同じ顔では、外を出歩けない。


 私はカタログをしばらく眺めてから、ふと、彼の顔を見た。綺麗に整った、美しく白い顔。


「ねえ」

「ん?」

「あなたと、似ている顔は駄目?」


 彼は少し目を見開いた。出過ぎた真似かもしれないと思いつつ、付け足す。


「私、あなたと兄妹になりたかったから……」


 あんな、完璧な姉ではなくて。殺される瞬間まで私のことを愛していた、聖人のような美しさを持つ姉ではなくて。

 人を笑って奈落に落とすような、悪魔のような美しさを持つ彼と、兄妹だったなら。


 彼は呆然としながら目元を覆う。


「お前、兄妹間でも恋愛ってアリなほう?」

「……? 私、あなたと兄妹じゃないけど……」


 だから困っているのだ。

 けれど彼は、嬉しそうに私の額にキスを落とした。


「いいぜ。俺の一番。今日からお前は俺の妹で、恋人で、唯一だ」


 彼の微笑みは美しい。これと同じになれるなら、私も今日くらいは、心から笑えるような気がした。

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悪魔の妹背が生まれた日 七星 @sichisei

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