公衆電話が笑っている
フカイ
掌編(読み切り)
研究室で徹夜のデータ・クレンジングを行い、気づいたら夜が白み始めていた。
目頭がじんわりと重く、若い頃のように無理がきかない自分に気づかされる。
それでも、夜明け近くまで仕事と格闘した自分が嬉しくて、ひとつ伸びをした後、とたんに解放感に包まれる。
このまま山あいの自宅に帰るのもつまらない。宏行はそう思う。自宅では、アメリカ人の妻が幼い娘とまだ寝室で深い眠りの中だろう。貿易風の吹くこの島に来て十五年。結婚してちょうど十年。娘が生まれて六年。思いのほか長い時間が経った。
大学のこのオフィスでなく、そしてワイキキのダウンタウンを見下ろす自宅でもなく、海から太陽が昇るワイマナロのビーチで夜明けを迎えるのはどうだろう?
突然に浮かんだそのアイディアが、とたんに彼の心の多くの部分を占めた。オフィスのMacを終了させ、鍵をかけて研究棟を出る。広い駐車場のなかのいつもの位置に、彼のホンダがパークされていた。中に乗り込むと、ブリフ・ケースから彼はiPhoneを取り出した。この古いホンダにはiPhoneはつながらないから、彼はいつもポータブル・ラジオ/カセット・プレイヤーを後部座席に乗せている。そのプレイヤーの外部入力端子に、iPhoneをジャックインして再生するのだ。
フリーウェイに乗る前にあるいくつかの信号で停車するたびに、iPhoneを操作して、目当ての音楽を探した。
tune box the summer 1986
白いアルバムジャケットには、薄手の夏のスーツを風にはためかせた男の上半身が、シルエットになって映っている。とてもシンプルでインテレクチュアルなジャケットだ。
1986年。それはもう、十分に遠い時代となった。
昔、とか、あの頃、とかという定冠詞を伴って語られるほど、遠ざかった日々だ。
その頃彼は、日本の北国の少年だった。冬の嫌いな北国の少年だった。
宏行のホンダは高速に乗った。
オレンジ色のハロゲンランプがいくつも後ろに消え去ってゆく。午前四時。クルマの数はまばらだ。やがて街並みが遠ざかり、都市部を抜けると、ハイウェイは溶岩の岩肌のいかつい山道に入ってゆく。ウミガメの研究者としてこの先にある岬の飼育センターに行くために何度も通った道だ。
1986年に彼が馴染んでいたのは、海辺を走る曲がりくねった県道だった。冬場には何もかもが凍りつく寒い町だったけれど、短い夏は何もかもがきらめき、そして解放感に充ちた。ウミネコの歌声。牡蠣の養殖棚をたくさん配した、真っ青な湾。トウキビとタバコの畑。テレビからは歌謡曲とメロドラマ。
でも彼は、FM放送の愛聴者だった。それだけが、都会の息吹を運んでくれた。ニュー・ミュージックという言葉はすこしすたれたけれど、いまのようなポップ音楽というくくりがなかった時代(久々に帰国した彼は、Jポップという言葉にはどうしてもなじめなかった)、洋楽のエッセンスを持ったその音楽を、彼はこよなく愛した。
街に一軒だけあったレコード店でそのLPを取り寄せ、カセットに録音しては、ウォークマンでそれを聞きながら、街中を自転車で走った。
いま、そして彼は、この貿易風の島でその音楽を聴く。午前四時の、カラニアナオレ・ハイウェイで。
やがて、目指す
長い海岸線につきだした、人口の桟橋だ。そのピアは、ウミガメの飼育センターとして彼の所属する大学が管理している。その桟橋の入り口にクルマを停めて、やがてやってくる夜明けを彼は待った。
いろいろなことがあって、いま、自分はこうして故郷を離れた場所で暮らしている。あの頃の、十七歳の自分からは想像もできない距離だ。
あの北国の故郷は、この春の大地震で壊滅に近い被害を被ったと聞く。彼自身も一度、故郷の町を訪ねた。そして、言葉をなくした。
すべては変わる。
時とともに。
音楽は、A面の楽曲を演奏し終わり、B面に移る。
ウォークマンにオートリバース機能がなかった時代、よくカセットをひっくり返してB面を聴きはじめたものだ。
とてもスマートで、洗練された音楽がつづく。この三十年間、このアルバムを変わらずに愛し続けてきた。このアルバムを聴くと、いつもあの頃の光が、空気が、気配が蘇る。地震はすべてを奪ったが、彼の記憶の風景は変わらない。時間はすべてを風化させたが、彼の想い出の景色は色あせない。
ハワイ、オアフ島、ワイマナロ。
紫色に世界が染まる。盛夏の夜明け。薄くたなびく雲が、オレンジに色づき始める。水平線の向こうにある太陽の光を映しているのだ。
急速に輝きを失う、空の星たち。
音楽は、「
公衆電話ではなく、彼が笑った。
ゆっくりと、朝日が世界を目覚めさせてゆく。
また新しい、今日が始まる。
公衆電話が笑っている フカイ @fukai
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