ある菓子職人の過ち
龍輪龍
三周年
「祝 三周年!」
思い返せば、あの頃が一番幸せだったかもしれない。
目が覚めればクッキーの焼き上がる香ばしい薫り。
リビングに降りると、パパがおっきなシュークリームを作っていて、それを朝食代わりに頬張ったっけ。
サクサクのクッキー生地から溢れる、甘いカスタードクリーム。
口の中であっという間にとろけてしまう。
ごくん、と飲み込めば鼻に抜ける香ばしさ。仄かなアーモンドの匂い。
お客さんはこれを求めて毎朝長蛇の列を作っていたので、優越感というトッピングも加わっていた。
パパは洋菓子店を営んでいた。
小さな、と謙遜するつもりはない。
三周年の頃にはカフェテリアも併設する、ちょっとした有名店になっていた。
――この写真は、その時撮ったものだ。
小さな私はパパに抱かれ、隣にはママ。周りには店員さんと、共同出資したパパの友達がいて、みんな笑っている。私も、笑ってる。
この頃が一番幸せだった。
二ヶ月後の事故で、私は一人になった。
身寄りのない私を引き取ってくれたのはパパの友達で、それから色々あって、彼のことは「お父様」と呼んでいる。
お父様の経営でお店は更に繁盛した。
ココ・メルティは今や、全国で名の通じる一大チェーン店だ。
全てはパパのレシピが優れていたから。生きていれば、更に独創的なスイーツを世に出していただろう。
――お父様は、そう言ってくれる。
彼は優しさと無縁の人物だった。
引き取られた後、週に20の習い事が詰め込まれていたし、友達と遊ぶ時間も作らせてはくれなかった。
だからこそ、彼の言葉はお世辞ではないと信じられる。
パパは偉大なパティシエだったのだ。
12の誕生日、黄ばんだ紙の束を手渡された。
これは、パパが遺したレシピノートなのだと。
紙面に踊る幾何学と数学とフランス語の混合物は、とてもレシピには見えない。暗号か何かのようだ。
事実、ココ・メルティが抱える料理人の誰もが、これを解読できなかった。
フランスで修行を積んだショコラティエでさえも。
「しかしこれはレシピノートなのだ」とお父様は言う「娘のお前になら、解けるかもしれない」
その日から私には専用の厨房が与えられた。
材料も調理器具も、言えば何でも揃えられたし、何でも試した。
これまでに習った数々のこと――フランス語、スペイン語、ヒエログリフ、数学、幾何学、熱力学、化学、歴史地学……一見料理の埒外にあることも総動員せねばならなかった。
これは間違いなく暗号だった。
『料理とは魔術である』
レシピは、このような序文を携えて始まる。
『愛を隠し味という人がいる。大きな間違いだ。緻密な計算と、冷徹な目をもって成される一塊の芸術作品。それが料理だ。不確定要素は排さねばならない』
『深く、さらに深く。チェスの盤外に駒を打て。ユークリッドだけが裸の美を目にする』
解読した文章は、更なる謎を暗示する。私は頭を抱えた。
『虹をバラせ。無垢なる二つの眼を以て』
『自然を幾度腑分けしようと、より一層の神聖が横たわる。大いなる精緻にこそ神は宿る』
半ば哲学に踏み込んだ科学理論。
このような研究者をなんと呼ぶか、私は知っている。
錬金術師だ。
歴史家はそう名付けたが、実際の所、彼らは
この世全ての『真理』。
彼らはそこへ至ろうとし、結果、人類にもたらされた科学は副産物に過ぎなかった。
パパも同じだ。
料理を通じてなにがしかを求め、人々を惹き付けて止まないお菓子の数々は、副産物でしかない。
このレシピの先に、パパは一体何を見たのか。
私は研究にのめり込んでいった。
5年が過ぎた頃、ようやく一つの料理を再現するに至った。
天才パティシエの遺した未発表の新作。
――そのような謳い文句で世に出されたそれは飛ぶように売れ、連日品切れになるほどだった。
お父様も珍しく褒めてくれ、それは確かに嬉しかったけれど、満たされなかった。
ただ上辺をなぞっただけ。
本当の『』には届いてない。
それが味なのか構造なのか、私には何も分からないのだ。
◇
私も年頃だ。間違いを起こすこともある。
パパがあれほど愛を禁じていたというのに、バレンタインデーなんぞに向けて、お菓子を作っている。
それも、食べた人間が一撃でメロメロになってしまう奴だ。
我ながら馬鹿げていると思う。
奴が「美味しい」と言えば私の勝ち。初めて白旗を引き出せる。
一般にバレンタインデーとは、甘く切ない男女の駆引き、らしいのだけど、私と彼の関係はそうではなかった。
いわば宿敵との果たし合い。
愚かにも「お菓子なんて作れるの?」とほざいた男の口を塞ぐのだ。
奴め。よもや私がプロ級の腕前とは思うまい。
イメージしてる内、なんだか無性にわくわくしてしまって、クリームを攪拌する手も速くなる。
そうしてうっかり飛び散らせたり、焼きすぎたり。何もかもグダグダ。
綿密な計算も、厳格な測量も上の空。
日付を跨いでも納得のいくものは出来なかった。
――むしゃむしゃむしゃ。
そんな咀嚼音で目を覚ました。
シンクに突っ伏した私が顔を上げると、見知らぬ少女がそこにいた。
山のようにこしらえたガトーショコラの失敗作を、一心不乱に頬張っている。
「あなた、誰?」
「……んんっ?! んんんッ!?」
喉を詰まらせ、牛乳パックをラッパ飲み。
彼女はぷはぁっ、と息をついて。
「わしは神である!」
ミルクの口髭を作ったまま胸を張った。
――嘘をつけ。
「嘘ではない。この部屋にいることが、なによりの証左であろう?」
確かにここは内鍵の掛かる密室。私以外には、小バエ一匹入れないはず。
しかし、だとしても神様なぞ。
「どうしてもというなら、神通力を見せてやらんでもない」
「……できるものなら」
神様が指を鳴らす。
と、私の体が白煙に包まれた。
晴れてみれば衣服がない。エプロン一枚を残して素っ裸。
「……ちょっ」
「これで信じたかの」
「……わかった。わかったから、戻して」
「疑った罰じゃ。そのままにしておれ」
女神は意地悪く笑って椅子に腰掛ける。
「さて、わしが来たのは他でもない。汝の、そのチョコケーキ、貰い受けに来た」
「……ダメ。これは、先約がある。……他のはいくらでも食べていいけど、これはダメ」
「ただで貰おう、という訳ではない。譲ってくれるのなら『料理に関する望み』を一つ、叶えてやろう」
「……料理に関する?」
「わしは『レシピの神』でな。天上の料理番を担っておるのじゃ。故に、神々の舌を唸らせる料理を
「私のケーキが、それに値する、と?」
「でなければ、ここにはおらん」
加えて、どうする? と訊ねてくる神様。
「一つ聞きたい」
私は黄ばんだレシピの束を掲げた。
「私のパパ……。
「懐かしい名じゃな。……なんだ、奴の娘か。言われてみれば、目元が似ておるな」
「パパも、あなたと取引したの?」
神様は首を横に振った。
「わしは足繁く通ったが、奴は全く応じなかった。――『神に会う』の一点張りで」
「……あなたが神様なんでしょ?」
「廉也に言わせれば、わしは精霊か――、さもなくば研究を掠め取る悪魔なのだと。全く失礼な」
「……悪魔、なの?」
「一度、天に上げられたレシピは、地上で二度と作られなくなる。製法は消え去り、今後誰も思いつかない。……故に奴は、1ページたりとも寄越さなかった」
少女は足を組み直した。
「結局、望む神には会えたのか。……もう10年以上、新作を見ていないが。息災か?」
「それは……」
これまでのことを話すと、彼女は寂しそうに目を伏せた。
「……ふん、愚かな男じゃ。わしの誘いに乗っておればな」
「私も、渡さない」
「……なに?」
「パパがあなたに頼らずこれを書いたなら、私もそうする。……そして、その先を見に行く。このレシピと一緒に」
「ふふふ。……愚かじゃな、親子揃って。……ならばその決意、
そう言って神様は消えてしまった。
目が覚めると間もなく登校時間。
ガトーショコラは完成していて、私は裸ん坊。
朝の忙しいお屋敷内。どうやって自分の部屋まで戻ろうかな……。
◇
色々な物を代償にして、ガトーショコラが彼の口に運ばれる。
彼は黙々とそれを味わい、私を焦らす。
第一声が「美味しい」以外の言葉なら、絶交してやる。
「……まいった」
彼は出し抜けに微笑んだ。
「気絶するかと思った。――美味すぎて」
いよっし! 勝った! 完全勝利! どーだこの野郎! などと顔には出さず、見えない位置で拳を握る瀟洒な私。
「当然。私に掛かればこのぐらい」
「その割にはホッとしてるみたいだけど」
「……ち、違う。
「ああ、毎日でも食べたいぐらいだ」
この男は、平然とそういうことを言う。
天然を装ってからかっているのだ。その手には乗らない。
「それより、覚悟して。ホワイトデーは三倍返し」
「考えておくよ」
彼は今、気絶するほど美味い、と認めた。
その三倍なんて絶対無理だろう。
◇
結果として、私は撃沈した。
詳細は省くけれど、大変羞恥的なシチュエーションでプロポーズされたのだ。
顔から火が出るかと思った。あのまま気絶できていたら、どれほど楽だったろうか。
それが数年前の想い出。
私達は今、地元を離れて洋菓子店をやっている。
パティシエは私で、ウエイターが彼。
レシピを持って実家を飛び出し、ブランドは継がなかった。
お父様には感謝している。
けれど、両親の事故に関与している疑いが、どうにも拭えなかった。
私を引き取ったのも、レシピの解読が目的だったように思うのだ。
国中に勢力圏を持つココ・メルティを敵に回して、私達は健闘している方だろう。
大抵のお店は、1年以内に半分が潰れ、3年以内に2/3が消える。
生き延びた私達は、軌道に乗っていると言える。
「来月で三周年だな。パーッと祝うか」
彼の提案に「やらない」と答えた。
「どうして?」
「私達は、もっとずっと、先に行く」
オーブンで焼き上がる、クッキーの薫りに包まれながら、私はそう言った。
ある菓子職人の過ち 龍輪龍 @tatuwa_ryu
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