第26話

「それから正さんは、数年後に養子を連れてこられました。ハルさんと清司さんは、そのまま京都に戻りはったんですけど、結局作家としてはアカンかったようで……三人とも随分長生きされはって、私がこの店を始めた頃に、きちんと案内をさせてもろうたんです」

 カウンターの向こう側で、グラスを拭きながらタケキリが懐かしそうに目を細めたまま言った。明子は借りたエプロンを隣の椅子にかけ、座って夕飯だというアジを啄いている。付け合せにはほうれん草のおひたしと、味噌汁があり、茶漬けにしてくれた焼きおにぎりは香ばしく口内に広がっていく。

 咀嚼しながらも、小さく頷いた明子を眺め、タケキリは柔い笑みを浮かべていた。

「タケキリさんが、このお店を経営しているのも、百合子さんに託されたものなんですね……」

「ええ。あの頃、山にあった虚をオサキはんに無理言うて、二条に移してもろうたんです。代わりに管理と案内をする約束で」

 神無月でなくとも、迷子は少なからず現れる。迷いながらも最終的には辿り着くだろう者達が、この街の主達の手を煩わせることもなくなるだろう。そんな理由で、オサキが気まぐれに協力してくれたらしい。それからずっと、タケキリはこのバーを切り盛りしているそうだ。道端で耳を傾けるのではなく、最期を迎える迷子に百合子の描いた安息を与え、代わりにその背中を見送るために。

 託された百合子の夢を叶えながらも、狸を捨てた役目を果たす。意義を持ち合わせるタケキリは、もう死の淵に立つことのない身体で、ずっとここに在るのだろう。

「しかし、なんやオサキはんのことよりも、私の話ばかりになってしまいましたなあ。すみません」

「いいえ、オサキさんの新たな一面が見えた気がします。それに、私はマスターのことも知れて嬉しいです。長い付き合いになりそうですしね」

 アジを飲み込んでから、明子は小さく笑う。

 カウンターを挟んだタケキリと明子は、等しくはなくともオサキに命を預けた共通点がある。どちらも生命の理から外れることを自身で選んだ。そういうところに、明子はなんとなく親近感を覚えていた。

「それにしても、明子はんは聞きはれへんのですねえ」

「何をですか?」

「親しい人間を見送った私に、そんときの気分を」

 それは柔い音吐であったはずなのに、一閃のような鋭さを持って明子に突き刺さる言葉だった。瞬間的に喉が詰まったような感覚がして、咽せそうになるのを堪える。カウンターの向こうにいるタケキリを見上げると、それは令嬢の顔のまま、悪戯の成功したマスターの表情だった。この街の領分の異なる者は、人を驚かせることが大好きで、時々こうして虚を突かれてしまうのだから、性質が悪い。それでも嫌な気分にならないのも、出会った頃から変わらない、不可思議なままだ。

 明子は、瞳を右往左往させてから、最後の一口だったお茶漬けを飲み干して、呼吸を促すように煙草に火をつけた。胸につっかえた感情を押し出すように、紫煙を吐き出してから、もう一度タケキリを見やる。

「聞いても、きっと仕方のないことだと思うんです」

「ほう?」

「きっと私が私の周りを亡くした時と、タケキリさんが正さん達を失った時の感情は、似ているけれど、同じものにはならないと思うんです」

「それは狸と人間やからですか?」

「いいえ、そんな単純ではないからです。人間……というより、私達も結構複雑でしょう?」

 明子がゆっくり息を吐き出すと、また煙がバーの天井に立ち上っていく。

 タケキリは何度も人間が複雑だと言った。しかし、意義を得て、領分を飛び越えた狸も、様々なことを思考しているのだと明子は知っている。それはこの街の領分の異なる者達も同じくして、恋人であるオサキも、知人である天狗や化猫も、それぞれに発する言葉も音吐も違うのだ。明子は、人間だけが複雑なわけではないことを、彼らの領分に一歩踏み出した時から感じている。

「明子はんは、やっぱり面白いですねえ」と、タケキリは何故か満足そうに頷いた。

「そうでしょうか? 私からすると、この街の皆さんの方が、面白可笑しいのですけど」

 訪れるたびに新しい発見がある。観光地を全て回ってしまっても、知らない世界に踏み込んでいるような、夢見がちな心地になる。それは顔見知りの彼らが、明子にとって未だに慣れない未知で有り続けるからだろう。

「それに、私にはオサキさんがいますから」

「おや、ごちそうさまです」

「こちらこそ。とても美味しかったです」

「お粗末様です」

 恥じ入りながら言えば、タケキリはくすくすと上品に笑った。空になった食器をカウンターの上に差し出しながら、明子もつられて肩を揺らしてしまう。

 いつか自身が何かを失う時が来るだろう。オサキに領分を合わせたのだから、決して百合子のように、背中を誰かに見送られることはない。その時が来たら、明子はきっと正やハルや清司のように、涙を堪えることは出来ないのかもしれない。それでも隣には、神無月は出雲に出掛ける恋人がいる。肩を抱いてくれるだろうオサキが、きっと離れないだろう。それだけは、確信めいて自惚れている。

 食器を下げたタケキリが、用意していたかのように温かいお茶を淹れた湯呑を差し出してくれた。抜け目のないマスターの接客に感動しながら、明子は有り難く受け取る。

「……ホンマは、明子はんの背中も見送りたかったんですけどねえ。でも今は、あの時戻ってくれはって良かったと思うてます」

 それは、明子がはじめてこの店を訪れた時のことだ。正誤の問題に迷い、リフレッシュのために京都を訪れた。それでも塞いだ気分を無意識に抱えたままだった明子は、自死という形の手前で、このバーへと足を踏み入れたのだ。

 あの時、オサキに出会っていなければ、明子はタケキリに自身の生き様を語り、アルコールに酔って、地下にある虚への足を踏み出していただろう。

 人間の背中を見送ることを好む獣に、耳を傾けられ、恭しく案内をされていたかもしれない。あの夜に、明子の塞いだ気分を拭ってくれたのが、オサキだった。だからこそ、明子はオサキに自身の命を預けたのだ。

 明子は灰皿に煙草を押し付けながら、そうだろうと納得して、タケキリの言葉に耳を寄せる。

「オサキはんは私の恩人です。それはキイチはんもですけれど。百合子はんのことがあって、神無月を知ってしまった私は、ここにおるんが面白くてしゃあないんです」

「タケキリさんの意義であり、意味であり、願いなんですね」

「ええ。せやからオサキはんが、明子さんと一緒におれるようになって、良かったと思うんです。あの方は、退屈しか知らん方でした。それが今は、毎日が楽しそうで」

「そうなんですか?」

「ええ、それはもう。明子はんのおかげです。ありがとうございます」

「……こ、こちらこそ。このバーがなかったら、私もオサキさんに会えませんでしたから」

 まるで友人のような親しみを込めて下げられた頭に、明子も慌てて顔を伏した。高揚を持て余す頬の熱さを感じるのは、嬉しさと羞恥心が混じっているからだ。

 顔を上げると、いつもと変わらない柔い笑みがあった。それもなんだか恥じ入ってしまって、無意識にもう一本煙草を取り出している。自然な動作で火をつけて、害悪ばかりの煙を吸い上げると、呼吸と一緒に沸き起こった羞恥心も落ち着いていくような気がした。なんとも言えない心地になりながら、カウンターの中で指紋一つないグラスを棚へと戻していくタケキリを眺める。

 そうして、ぷかぷかと煙草を吸っていると、バーの出入り口である引き戸が、不意にガタガタと揺れた。まるで突風でも吹き付けたように、大気の揺れる轟音が耳にぶつかって通り抜けていく。天気模様が変わったのか、と明子が自然と視線を向けた時だった。

 無遠慮に引き戸が開き、見慣れた人物が不機嫌そうな顔が覗いた。

「おい、タケキリ。客だ」と、慣れた足取りで入ってきたのは、鞍馬山の大天狗であるキイチだった。天狗の後ろには、少年の姿をした三足烏に手を引かれた初老の男がいる。少し戸惑ったような表情しながらも、腕を掴まれたまま、なすがままにバーの中に連れ込まれていた。

「あれぇ、明子さんじゃないですかぁ。お久しぶりですぅ」

「三足烏さん、キイチさん。お久しぶりです。神無月のお仕事ですか?」

「あ? なんでお前がそんなこと知ってんだよ」

「さっきタケキリさんに聞いたところなんです。お仕事、お疲れ様です」

 明子が馴れ馴れしい笑みを浮かべると、天狗は小さく舌打ちをし、三足烏は慣れたように礼を述べた。そうして、男を店内に引き込む。まるで放り出された迷子のように、引き戸の前で男がおろおろと困惑する。

 神無月真っ只中であるのだから、天狗と三足烏は、今年も警邏の役目を担っているのだろう。先ほどの突風は、どうやら天狗風であったらしい。仕事は一時休憩であるのか、天狗と三足烏は、男をそのままにして無遠慮にカウンターに腰掛けた。

「明子さん、今日の軽食なんでしたかぁ?」

「焼きおにぎりだそうですよ」

「オサキがいねえのに、なんでいるんだよ?」

「連休が取れたので来ちゃいました」

 久々に顔を合わせたはずである天狗と三足烏は、いつもの調子で明子に声をかけてくれる。オサキの馴染みである彼らは、このバーの常連で、明子が京都旅行に来るたびに顔を合わせる仲だ。天狗のぶっきらぼうな口調も、軽食のメニュウに喜ぶ三足烏にも慣れたもので、明子は唐突な来客に、なんだか楽しくなる予感がした。

 カウンターの向こうから、タケキリが慣れた手つきでコースターを差し出している。そうして、天狗や三足烏の注文を取る前に、困惑しきりの男へと視線を向けた。

「ようおいでやす」

 抑揚のある音吐が店内に響き、令嬢の顔をしたタケキリが柔い笑みを浮かべると、恭しく男を地下へと案内する。

 カウンターの上に置いたままの明子の携帯機器が、タイミング良く出雲からの連絡を知らせていた。


〈終〉

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神無月の狸 陽本明也 @832box

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