第25話

 寄り添うように正の用意した宿へと帰っていく二人を見送ってから、タケキリは再び百合子から引き継ぐ文学の書物の選別に戻った。百合子に託された書物の量は多く、とても狸一匹で持ち帰れる量ではなかったために、何日かに分けて運ぶことにした。大量の文学集を選別し、寝座に入るだろう分だけを、まとめて紐で縛っていく。幾つかの本は、百合子がベッドの上で読んでいたから、題名だけは見覚えがある。狸には、あまり必要のないものだったが、それもまた人間の文化を知る教材となるだろう。そんな興味を持て余して、タケキリは遠慮をせずに、全て持ち帰ることを選択した。

 ハルと清司は、これからを正に相談しているらしい。これは正の提案で、身の振り方を決めるまで、暫くは京都の街に滞在するそうだ。それも百合子の遺言なのだ、と正は曖昧に笑った。

「自身がいなくなってから、二人に会うことがあれば、よくしてやって欲しい」と、百合子はしっかりと遺書に書き残していたのだと言う。聡明な眼を持った百合子らしい親切に、タケキリは小さく苦笑した。

「タケキリくんは、あの時、私が百合子を愛していて安心したと言ったけれど」と、タケキリが荷造りをしている傍らで、唐突に正が言った。手を動かしたまま見上げると、正はタケキリを真っ直ぐに見ていながらも、何処か遠くの、懐かしい思い出を手繰り寄せているような眼差しだった。

 それは百合子が入院をした時のことだろう。南座で女の腰に手を回しているばかりの正が、百合子の容態をずっと気にかけていたのが意外で、つい口から出た言葉だった。

「あの時は、なんとも失礼なことを言うてしまいました」

「いや、責めているわけじゃないんだ。あの時も言ったけれど、私と百合子は愛のある夫婦ではなかったからね」

「そうでしょうか。私には、今の正様はお辛そうに見えますよ」

 愛がないと言った唇の隣にある頬は痩けていて、双眼は目立たないが窪んでいる。きっと正も沢山泣いたのだろう。それはきっと百合子が亡くなった日だけではないはずだ。疲れの見え隠れする正は、もしかしたら眠っていないのかもしれない。

 今まで、へえへえ、と頷きながら、耳を寄せるばかりだったタケキリの言葉が意外だったのか、正は少しばかり目を丸くした。そうして、暫く考え込むように唇を結んでから、小さく「そうか」と呟いた。 

「辛いさ。別に愛がある夫婦でなくとも、身近な人間が亡くなることは辛い。私は、辛くて、悔しい。それに心細いんだ。これからは、多くのことを独りでやっていかねばならない」

「それは愛ではないのでしょうか?」

 寂しさを持て余し、無慈悲な死という別れを惜しみ、残された言葉をこれでもかと叶えようとする正の姿は、タケキリから見れば、情の深い夫の姿だった。それは、やらねばならないことをしているのではなく、百合子のためにせ動いているように感じているからかもしれない。

 百合子だって、幾度となくタケキリに「いらんこと」と溢しながらも、最期まで正のことを気にかけていた。

 それは、人間でいうところの夫婦の営みではないのだろうか。

 純粋な疑問を口にしたタケキリに、正は小さく首を横に振った。そうして、泣きそうな顔をしながらも、にこやかに笑う。

「私と百合子は戦友だったんだ」

 タケキリにとっては聞き慣れない単語だったが、意味は理解出来る。

「戦友、ですか……?」

「ああ、私も百合子も、互いを愛して結婚したわけじゃない。でも、結婚を断れなかったわけじゃなかった。お互いに断らなかったんだ」

「どうしてですか?」

「色々さ。家のこと、人生のこと、世間体もある。私の父も、お義父さんも、理解のない人柄じゃないから、私達が嫌だと言えば、違う人を充てがってくれただろう。それでもね、私達は最初に顔を合わせた時から、戦うことを選んだんだ」

 呟くように語る正の言葉は、タケキリの脳内に、諦念を抱きながらも「結婚」という単語を口にした百合子の顔を彷彿とさせた。あの頃の百合子は、確かに清司に恋をしていたが、女学校を卒業して結婚することを特別に嫌がってはいなかった。諦めはあった。しかし、百合子の眼差しから強い意思が消えることはなく、いつも前を見据えていた。

 タケキリは、百合子が卒業してから暫くは山に戻っていたから、正との婚姻がどのように行われたのかは知らない。こうして人間に化けられるようになるまでは、遠くから眺めているしかなく、この邸宅に出入りするようになっても、百合子の「いらんこと」しか耳にしてはいない。正と百合子の間に、何があったのかは知らないのだ。

「お二人は何と戦ってはったんです?」

山や街を焼くような戦は行われていない。獣と違って人間は短慮に争いを起こしたりしないことを知っているタケキリは、正に問いかける。すると正は小さく意地悪く笑った。

「時代とさ。知っているかい? もっと昔は、今よりも結婚に自由がなかった。人には生まれがあり、相応の責任がついて回る。それでも、文明が開花して、外国から様々な品や文化と共に、価値観でさえ新たなものが手に入るようになった。あれだけ長かった武士が消えて、私達は着物ではなく、洋服に袖を通している。分かるかい? 時代はいつも少しずつ動いて、人間の在り方は変わっていくんだ」

「それは、理解出来ますけど……」

それこそ人間の面白くて複雑怪奇な特徴のようなものだ。

「私と百合子は、もっと先の時代になれば、恋や愛すらも更に自由になると考えていたんだよ。その為に、私達は商人になることを選んだ。未知の価値を己が知るために、私達は伴侶を得ることを選んだんだ」

 それは最初に百合子と交わした誓約だったのだと言う。

 婚姻を結び、商家である百合子の家督を継ぐことで、二人は最短の道のりで時代の先に手を伸ばそうと考えた。女である百合子が家長になることは出来ない。次男である正も、それは同じだった。だから二人は出来るだけ自身と考えの近い伴侶を必要としていたのだそうだ。

「それでも、私も百合子も、最初はよそよそしいものだったけれど。私は様々なことに慣れずに、百合子を友としても、妻としても、大事にしていたとは言えない。彼女と人生について話せるようになったのは、君が来るようになって、百合子が床に伏せってからだった」

 にこやかなに笑いながら話す正を、タケキリがじっと見ていると、途端にその表情がくしゃり、と歪んだ。

「……なんて、美化し過ぎかな」正は涙混じりになりながら「そんなに美しい関係ではなかったかもしれないな」と、小さく呟いた。

「やっぱり私には、お二人は夫婦やったように思えます」

「いいや、私は良き夫でも、友でもなかった。本当なら、もっと大事にしてやれたはずなんだよ」

 絞り出すような声音は、正の後悔が詰まっていた。

 タケキリが見てきた百合子と正は、彼が言うような美しいばかりの関係ではなかったように思う。帰ってこない正に、諦めの婚姻に、ハツラツとした百合子が家の中に籠る生活をする。その経緯で、百合子は一時といえど、この街の裏側を覗き見るに至るまでの心痛を抱えていた。それでも、タケキリは知っている。百合子が「いらんこと」を吐き出しながらも、正のことを褒めていたのも、病に侵された身体で少しの間を不死鳥のように起き上がったことも、記憶の中に残っている。それに百合子は言ったのだ。最期の背中を見送る狸に、恨み言でも後悔でもなく、幼馴染や夫のことを託していったのだ。

 伏してしまった正とは、もう視線が合わなくなっていたが、声は届いているのだろう。

「私は、それでええんやと思います。百合子さんは、もう帰ってくることはないですけど、きっとあの方は、正さんが後悔を引き摺って生きはるよりも、美しい思い出を抱えて歩いていきはる方が、喜ばれるんやと思うんです」

「……そう、だろうか」

「そういうもんを、残していきはったんやと思います」

 タケキリが、はっきりとした口調で答えると、正の肩が小さく震えた。上等なシャツから伸びる指先が、伏したままの顔に押し当てられ、か細い嗚咽が漏れた。

 そうして、タケキリは百合子の残したものの美しさを改めて痛感する。正は、確かに良い夫ではなかったのかもしれない。友と呼ぶにも軽薄で、様子ばかりの良い男だった。それでも、百合子が病に伏してから、病状が悪くなれば、すぐに医者を呼び、婿入りした商家を支えるべく駆け回っていた。百合子の助言を得て、正が輸入したアルコールは、既にこの街に出回り始めている。

 人間は複雑だ。おおよそ真っ直ぐとは呼べない関係でありながら、時間を経てしまえば、こうして美しいものを形成する。歪んでばかりもいられず、形をきちんと整えることも苦手だ。生死を道を歩むために湾曲し、寄り道を繰り返している。それなのに、生命の長短だけは、いつも忘れてしまう。

 タケキリは、書物をまとめるために結んでいた紐から手を離し、そっと立ち上がった。未だ百合子という戦友を失った事実に、打ちのめされているのだろう正に近づいて、そっと背中を叩いてやった。

 そうして、嗚咽混じりの声に耳を寄せながら、正の死に様はどのような背中なのだろう、と想像する。百合子を失いながらも、まだ歩まなければならない男の生きた道を、見送る日のことを考える。

 それもまた、残されたタケキリの意義の一つに成り得るのかもしれない。

「すまない、タケキリくん。百合子のこと、本当にありがとう」

「いいえ。人間は難儀なもんですから」

 タケキリは柔く笑う。

 もはや獣の皮を脱ぎ捨てて、生死の道から外れたとしても、これから眺める多くの背中を思い描きながら、労わるような笑みを浮かべる。

 窓の外では、吹き抜けていく小風がガラスを揺らし、冬の訪れを知らせていた。

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