第24話
南座のあたりをウロウロしているタケキリに、正が声をかけてきたのは、神無月もとうに過ぎて、本格的な冬がやってくる肌寒い日のことだった。
タケキリは、オサキに願いを叶えられたおかげで、京都の街の表と裏を自由に行き来し、時々出会う迷子の案内をしたりしながらも、変わらない日常を送っていた。人間に化けてゆるゆると表の街を闊歩することもあれば、伏見の山で獣達に化術を教えたりもした。生死の道を失ったタケキリは、山の獣達からは一目置かれる存在となり、寒さの厳しい冬を越す心配も、食事や睡眠といった生きる本能に翻弄されることもなくなっていた。それが自由と呼ぶのか、タケキリにはよく分からない。生きることが目的だった獣が、その根幹を失って、果たして自身が狸であるかすらも曖昧だった。
それでも、タケキリには、この世に存在すべき意義があったから、どちらかといえば狸であった頃よりは、有意義と言えただろう。
正とは、一度顔を合わせなければならないと感じていながらも、機会を伺ってばかりいたタケキリとって、声をかけられたのは好都合だった。
「タケキリ君っ! 探したよ!」と、開場したせいで混んでいる人垣を抜けて、足早に正が駆け寄ってくる。
「これはこれは、正様。この度は、なんといえば良いのか……」
「ああ、もう知っているんだね。君は不思議といつも耳が早い」
「知らずと噂を耳にしたもので、葬儀にも出向けず申し訳ありませんでした」
「いいや。私の方こそ、失念していた。君の住所や連絡先を何一つ聞いていなかったのだから」
タケキリが深々と頭を下げると、正は大きく首を横に振った。人間は儀式めいた慣習を大事とし、また身近な人間の死というものは、大変なことだ。百合子の背中を見送ったタケキリは、表の街の正しい道順に参加しなかったことを、正に詫びなければと思っていた。なにせ、夫である正を差し置いて、狸が最期を見送ったのだから、これもまた複雑怪奇なことだった。
「正様は、大丈夫ですか?」と、頭を上げて、妻を亡くしたばかりの正を真っ直ぐに見る。覗き見た病室で、静かに顔を歪め、百合子の手をしっかりと握っていた正の姿を覚えているからだ。久々に顔を合わせた正は、何処か痩せたようにも見えた。前はもっと様子の良い男だったが、今も上等な服に身を包んでなんとなく毅然としているようだが、疲れが見え隠れしている。
「ああ、まだ落ち着いてはいないがね。私には、やるべきことが多いんだ。落ち込んでいては、きっと百合子に怒られてしまうだろうから……」
「そう、ですね。百合子さんは、そういうお人やと思います」
「そうだろう? だからめげてばかりもいられない。それで、私は君を探していたんだ」
「私を、ですか?」
正の思いもよらない言葉に、タケキリはキョトンと目を丸くした。
百合子の訃報を知らせるのなら、もう用は済んだはずだ。商家の娘である百合子の婿である正は、きっと酷く忙しいのだろう。商売はいつも待ってはくれないだろうし、正と百合子の間には跡取りとなる世継ぎもいない。南座の前で人間の話に、へえへえと耳を寄せていたタケキリは、狸に理解の難しい複雑な事情で人間が混乱を極めることを知っている。
ボロを来た学生もどきの狸に、かまっているほど暇でもないだろう。だからこそ、タケキリもおいそれと、百合子の邸宅に足を運べずに機会を伺っていた。
不思議そうなタケキリに、正はにこやかな笑みを浮かべて見ている。
「ああ、百合子の遺言があってね。君に渡したいものがあるんだ。それに、君に会わせたい人がいる」
言うが早いか正は有無を言わせない素早さで、タケキリの腕を掴んだ。南座の前で人垣を縫うようにして歩き出した正の後ろを、タケキリはよく分からないままについていく。
通い慣れた百合子の邸宅の、百合子の部屋だった場所で、タケキリの前に大量の書物が積まれていく。それはどれも百合子がベッドの上で愛読していたフランス文学や、近年話題になっていた作家達の本だった。誰もいないベッドの上を射し込んだ陽光が照らしている。その場所で横たわっていた百合子の姿は当然となく、それでも柔いベッドの上には清潔なシーツが敷かれ、いなくなってしまったのが嘘のようだった。病の匂いに満ちていた室内は、今は少し埃っぽく、それがなんだか感じたことのない生活感を醸し出していて、尻尾を消したはずの尻がむず痒い。
自身が死んだあとは、本は全てタケキリに渡して欲しい。
百合子が丁寧な字で残していた遺書には、確かにそう書いてあったらしく、どうやら正はそのとおりにしてやろうと意気込んでいるらしかった。
そうして、女中達の手で積まれていく書物の横で、タケキリは驚いて目を丸くしている。隣に立った正がにこやかに笑い、目の前に立つ二人の人物は、なんとも言い難い顔をしていた。
それは、いつか檻の中から見上げたハルと清司だった。あの頃よりも、随分と大人びた顔つきになった百合子の馴染みが、偶然にも正を訪ねてきていたらしい。百合子の書物を贈呈すると同時に、正はタケキリをハルと清司に引き合わせたかったようだった。
「はじめまして、ハルと申します。こちらは夫の清司です。タケキリさんのことは、百合子さんから、ずっとお手紙で聞いていました」
呆然と立ち尽くすタケキリに、楚々とした動作でハルが頭を下げる。それにつられるようにして、清司も小さく会釈をした。
「はじめまして、タケキリです。お二人のことは、私も百合子さんから、よく聞いていました。お会い出来て光栄です」
タケキリも柔和な笑みを浮かべて会釈をする。
ああ、なんてことだろう。
言葉とは裏腹に、タケキリは酷い絶望感のようなものが、腹の中で渦巻いていくのを感じていた。百合子が求めた光景が、こんなにも簡単に目の前にある。ハルからの手紙を読んで、くしゃくしゃと泣いた百合子の願いが、ようやく叶っているというのに、彼女はもうベッドの上にはいないのだ。
聞けば二人は、百合子の葬儀に参列するために大阪から足を運んできたのだという。それから正の計らいで、葬儀が終わってからも、暫くの間は京都に滞在しているらしい。あれだけ会いたいと互いに想いを募らせながら、あれだけ懐かしいと泣きながら、百合子の死がなければ、こうして集まることが出来なかった。そんな事実に、タケキリは小さく打ちのめされる。託された想いの一つは、こんなにも簡単なことで叶ってしまうものだった。慣習を大事とするだけで、百合子が病に破れただけで、京都と大阪の距離は埋まってしまう。
弱々しい手紙を送ってきたハルの目は赤く、もしかしたらずっと泣いていたのかもしれない。何度も自殺未遂を繰り返したという清司も、酷く目が窪んでいる。
それでも、二人は初対面のタケキリに対して、ぎこちない笑みを浮かべようと努力しているようにも見えた。檻の中から見上げていた若くも朗らかな幼馴染達の顔は、どこにもない。
「百合子さんから、もし自身が亡くなったらお二人の様子を見に行って欲しいと、頼まれておりました。本当に、お会い出来て良かった」
タケキリが、人間がそうするように握手を求めると、ハルの目尻にまた涙が溜まり、代わりに清司がしっかりと握り返してくれた。
「すまない。ハルはまだ百合子の死が受け止めきれていないんだ。私が色々苦労をかけてばかりで、敏感になっていて……」
「いいえ。心中お察しします。百合子さんは、いつもお二人の心配をなさってましたから」
握手したままの手をぎゅっと握り締めると、清司の双眼も潤んでいた。
タケキリは伝えるべきことを、なんとか胸中で整理する。いつかハルと清司を、裏側の街で迎えに行くのだとしても、すぐにそうなってしまっては、きっと百合子が悲しむだろう。だからこそ、百合子がいつも思いを馳せていたことを伝えなければならないような気がした。
「……そうか、そうか。百合子は、他には何か言っていたかい?」ぐっと涙を堪えるように、清司は言った。
「百合子さんは、ハルさんからのお手紙を楽しみにしてはりました。清司さんの小説がいつか世に出るものだと、私に聞かせてくれはりました。だからご自身も頑張るのだと言うてはりました」
「そうか……」
タケキリが言葉を吐き出すたびに、ハルの顔がくしゃくしゃになっていき、ハンカチで顔を覆う。嗚咽が室内に流れ、崩れそうになりながらも必死に頷いている。清司のタケキリの手を握る力がこもっていき、正はじっと耳を澄ませていた。
「お手紙を、一度見せて頂いたことがあります。せやから、お二人が大変なことも、少しは承知しています」
タケキリは、百合子の頬に流れた涙を思い出す。ハルや清司に不幸が訪れることで、涙を流した百合子は、最期の最期まで手を伸ばしても戻らない学生時代に思いを馳せていた。幼い頃に抱いていた恋心を胸に秘め、妹のようだと愛した幼馴染を心配していた。二人がこの街に帰ってくることを望み、不調を気にかけていた。百合子の残したものが、こうしてまだ二本足で立っていることに、タケキリは安堵する。生死の長短をよく知る狸は、ハルや清司がいち早くこちら側へ舞い込んでくるのではないか、と危惧していたからだ。
タケキリは、清司と握手を交わしたままの手を、もう片方で包み込み、真っ直ぐにかつて見上げてばかりだった青年の双眼を見つめる。
「ホンマに……こうしてお顔を見れて、良かったと思うてます」
元気で良かった。もう百合子に伝えることは出来ないが、それでも残された狸の眼差しが、しっかりと見ている。何も心配がないことを確認している。
清司の目から、堪えきれない涙が落ちた。それでも、眉を寄せながらも、清司もまたしっかりとタケキリの手を握っていた。
「タケキリさん、ありがとう」
何に対しての礼なのか、タケキリには判然としなかった。しかし、絞り出すような清司の声には、何処か百合子の背中を彷彿とさせる強い意思があったような気がする。この二人を迎えに行くのが、もっと時が過ぎてからであればいいと考えながら、タケキリも小さく頷いた。
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