第23話

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 水道の蛇口を締め忘れた明子の丸々とした瞳に見つめられ、タケキリは小さく苦笑した。止まることのない水道の先を指差すと、まるで止まっていた時間が動き出したように、明子が慌てて蛇口を捻る。

「すみません。驚いてしまって」と、明子は恥じ入るような表情をした。

「いいえ、突飛なことを、お聞かせてしてしもうたかもしれません」

「その、オサキさんは……食べちゃったんですか?」

 タケキリさんの心臓を、と続けようとした明子の声は出なかった。心臓な食べるなどというのは、あまりにも現実味がなくて、なんと言えば良いのか分からなかったからだ。濡れた手を掛けてあるタオルで拭きながら、明子は呆然とした心持ちだった。非現実であることなど、オサキと恋人になってから、幾つも体験してきたはずなのに、やはり未だに慣れていないのかもしれない。

 それに、誰かの心臓を食べてしまうオサキは、明子の知る恋人のイメージとはかけ離れていた。明子にとってのオサキは、恋人であるからか随分と柔く、情が深い。悪戯好きではあるが、それでも人間でいたい、という明子にいつも譲歩をしてくれている。

 なんとも言えない心地にいる明子を眺めて、タケキリは令嬢の顔のまま優しく微笑んだ。

「確かにオサキはんは、私の心臓をぺろり、と食べてしまいはりました。でも、明子はんも同じやないですか」

「えっ?」

「明子はんの場合は、ゆっくり生死の理を剥がしてるんでしょうけれど。結果は同じやと思いますよ」

「そうなんですか?」

「ええ、だからこそ、今の明子はんは、とても半端な立ち位置なんです。死ぬことも老いることもないけど、人間として生きていける。そう望みはったんやと、オサキはんからは聞いてます」

「……そのとおりです」

 明子が頷くと、タケキリも満足そうに小さく首を縦に振って、ビール樽に炭酸の詮を繋いだ。バーの開店準備は着々進み、そのうちにバーの明かりに引き寄せられるように客がやってくるだろう。

 オサキと恋人になろう、と言い合った時、確かに明子は人間を捨てることが出来なかった。領分の異なる者であるオサキと、人間の自身では持ち合わせている時間も、生命の有無の差異もある。一緒にいることが出来ないのなら、どちらかが相手の領分に合わせるしかなく、それは必然的に明子の役目だった。元より生命を持たないオサキが、人間になれずはずはなく、生きている明子から奪うことしか出来なかったからだ。

 オサキに想いを告げた時、明子の胸中には、故郷に残してきた家族の姿が脳裏を過ぎり、長らく共にした友人達の顔が浮かび、これまで生きる手段にしていた仕事や、過去の経験が駆け抜けていった。全てを捨ててオサキだけを選ぶことなど、到底出来なかった。だから明子は、自身の周りから全てが失くなるまで、オサキに領分を合わせたまま、人間でいることを選んだのだ。その為に、酷く曖昧な立ち位置なのだ、とタケキリは言う。オサキの側でもなく、生命を持ち合わせてはいない。もしかしたら、幽霊のようなものなのかもしれないが、肉体も思考もしっかりしている自身を、そんな風に感じることは難しかった。

 自身のことを思い出しながら、製氷機の水を足していた明子に、柔いタケキリの声が届いた。

「私には、時間がなかったもんですから」

「時間、ですか?」

「ええ。私の狸としての命は尽きることでした。ですから、オサキはんは食べるしかなかったんです。私の命が終わる前に、私の生命の道を奪わなあかんかったもんですから」

 生死の理を真っ直ぐに歩んで死んでしまう前に、オサキの領分へと引きずり込む必要があった。たった一匹の毛玉に礼を尽くすためのオサキの行動は、非情に見えるのかもしれなかったが、他に手早い方法がなかったのも事実だ。やんわりとした口調のタケキリは、そう確信しているようだった。そう言われると、確かにオサキは手酷いやり口など、面倒だ、とそっぽ向くだろうし、狸の心臓など特別に好んでいるようにも見えない。

 連休のたびに時間を共に過ごすようになった恋人を思い浮かべて、明子は納得した。

「それで、その後はどうなったんですか?」

「次に目が覚めた時には、私は狸ではなくなってました。まあ、見た目はこのとおり狸なんですけどねえ」

「いや、全く狸には見えないです」

 タケキリが冗談のように少しおどけて言えば、明子は小さく笑った。まだこのバーのマスターである青年の姿や、今のような令嬢の形をしたタケキリしか見たことのない明子は、彼が狸だということには半信半疑だ。オサキの巧妙な化ける姿や、貴船の化猫が愛玩猫になったり、大きな化猫になったりするのを目の当たりにしているから、信じていないわけではなかったが、それでもそうなのだ、と素直に納得は出来ない。

 くつくつ、と笑う明子を、タケキリは目を細めて眺めている。しかし、やはりその視線は明子を透かして、その奥にある思い出を見ているようだった。慈しむような笑みを浮かべるタケキリは、令嬢の顔をしているからか、随分と上品な顔立ちで背筋が伸びている。

 そうして、明子は溢れ出る興味を抑えることが難しくなっていることを自覚する。オサキに出会い、天狗に出会い、百合子と別れた狸が、どうなってしまったのか。この店を構えるまで、きっと色々な苦労があったに違いないと想像すれば、その分だけ気になってしまう。この街に足を踏み入れて、オサキに出会ってからは、まるで幼い頃のように好奇心を胸に留めておくことが、出来なくなっているような気がした。

 バーの開店準備は、もうすぐ整う。

 手のひらの上で、軽食用の味噌汁の具材になるという豆腐を、器用に四角く切っているタケキリの横顔を、明子は少しばかり期待して見つめた。その視線を受けて、タケキリは手元から目を離さないままに、唇を動かした。

「私が次に目が覚めたんは、その二週間後のことでした」

「二週間も?」

「ええ。キイチはんなんかは、死んだと思うてたみたいですけど。実際には色々ショックで、目が覚めるのが遅かっただけなんでしょうね。その間に、百合子さんの葬儀は終わってしもうてました」

「……そう、ですか」

 真っ直ぐに生死の道を歩みきった女性の最期は、いつの時代も同じように業火に焼かれ、土の下へと還っていったらしい。

 明子は何か言葉をかけるべきかと考えながらも、唇を結んだ。タケキリの話してくれる思い出から、もう時代が変わり、随分と時間が経っている。目の前で起きたことのように、ただの慰めや、労う言葉は、なんだか不釣り合いで、口にするのは気が引けた。

「そんな顔せんでください。葬儀は、どのみち出ることはなかったでしょうから。それに人間と違うて、私らは慣習を大事としてませんし、百合子さんの背中を見送ったんは、確かに私なんです」

 今はこのバーの地下にある虚の向こうへと歩んでいく人を見送るのが、タケキリの仕事だという。肉体が業火に焼かれ、埋葬される最期を見ていなくとも、百合子と言葉を交わし、見送ったのはタケキリだ。

 明子は、自身もきっと、そうなっていくのだろうという予感があった。オサキに生命を預けて、これから長い時間を過ごすことになる。その間に、生死の道を辿っていく人間は、いつか死の淵へと旅立っていくのだろう。領分の異なるオサキに時間を合わせた時から、覚悟しなければならないことだ。オサキ自身もその点に関してだけは、恋人になる前から気にかけてくれていた。人間としての暮らしを捨てられないのは、いつか来るだろう別れを、先延ばしにしただけなのかもしれない。

 タケキリのように見送る側になって、こんなふうに笑っていられるだろうか、と明子は考える時がある。そうして、身近な人間の死を想像するだけでも、酷く気分が落ち込むことがあった。だからそれも、やってこないことには分からないのだろう。そう自身に言い聞かせて、考えることを先延ばしにしている。

 カウンターの上で、火にかけられた鍋の中が踊り始めていた。溶き入れた味噌が煮立たないように加減しているタケキリが、小皿を差し出してくれる。味見なのだろう。小皿の上で、色づいた味噌が揺れていた。

 そっと手に取って、唇をつける。舌の上を流れていく味噌汁の、芳醇な香りと良い塩加減が口内に広がっていく。

「相変わらず、タケキリさんの味噌汁は美味しいです。お出汁が絶妙で、お酒欲しくなりますね」

「お口に合うて何よりです」

「お料理も、こちら側に来てから覚えたんですか?」

「ええ。ただの狸だった頃は、火には近づかんものでしたから、店を始めてから覚えたんですよ」

 小皿をタケキリに返すと、また懐かしそうに瞳が細まっていく。明子はその表情を見ているだけで、なんだか酷く哀しい思い出話を耳にして抱いた、同情めいた気分が何処かへ消えていくのを感じていた。別れを悲しいと判断するのは、実は明子の勝手なのかもしれない。こうして、ここにいるタケキリが、楽しそうにしているのを見ていると、なんだか明子まで陽気な気分になる。

「そしたら、明子はん。冷蔵庫からアジと卵を出してくれはります?」

 火を切って鍋に蓋をしながら、指示を出してくれるタケキリに、明子はそっと頷いた。バーの玄関口にある引き戸の磨硝子の向こうは、もう陽が沈んだのか、随分と暗くなっているようだった。夏に比べると、夜が随分早く訪れるようになったことを、明子はそっと実感する。

 自身の夕食になるというアジと卵を差し出して、時計を見る。もうすぐ、このバーの開店時間だ。それまでに、もう少しだけタケキリの話を聞いていたかった。

「タケキリさんは、狸ではなくなったことに戸惑ったりしませんでした? 私は、未だに驚くことばかりで……」

「私は、神無月の職業体験がありましたから」

「ふふ、職業体験」

 アジを捌くタケキリの冗談めいた口調に、明子が肩を揺らす。

 身近な言葉を使う横顔は、やはり美しい令嬢だったが、出てくる口調や揶揄はカウンターを挟んだマスターそのものだ。気兼ねし過ぎずに、まったりアルコールを摂取して、心地よい空間を作り上げるこの店の主だ。

 捌いたアジに下味をつけてから、タケキリは手馴れた動作で魚焼きグリルに放り込んだ。

「それでも、目が覚めてからは見ている景色が、また一段とガラッと変わってもうて、暫くはオサキはんについて回ってました。それで慣れてから、ようやく正さんに会いに行けたんです」

 思い出を語る横顔が、また朗らかに笑みを浮かべていた。


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