第22話


 虚の前にタケキリだけが残った。

 百合子の背中が暗闇の中に消え、もうすぐ神無月が終わる。二本で立っていた足を四足歩行に戻し、ボロだった服を身体を覆う体毛に変化させ、丸く小さな狸のまま、タケキリはほう、と一つ息を吐き出した。伏見の山中に帰って、寝座の中で丸くなりたい、とも考えたが、タケキリはなんとなく、その場から動けずにいた。時計の針は今、どのあたりにあるのだろう。百合子を追って、京都の街の裏側に入り込んだ時点で二十三時は超えていた。あれだけ沢山喋っていたにも関わらず、まだ神無月であるらしい。

 百合子の願いを叶えるなら、タケキリはこれから冬を越す準備をしなければならない。幸いにも人間に化ける感覚は戻っているから、食い繋ぐことは出来るだろう。痩せた身体をふくよかに膨らませたら、また正に会いに行かなければならない。一度、大阪に足を向けるのも良いかもしれない。ハルや清司の、今の姿をきちんと眺めておくのも良いだろう。まるで人間のように、タケキリにはやらなければならないことが多く思いついた。自由気ままな狸でありながら、それが全く嫌ではないのだ。百合子はもういない。彼女が残したものを抱えていくのが、丸い一匹の毛玉であるのも、やはり可笑しなことだった。

「難儀なことやなあ」と、雲ばかりの空を見上げて、タケキリは苦笑する。

 人間は死の際に何かを残していく。美しくも儚く、それでもと強く前を見据えた百合子の残したものは、狸であるのだ。もっとマシなものがあったようにも思えたが、それでも残されたタケキリには意義と誇りに成り得るものだった。

 思い出すことは幾つもある。今日で神無月は終わってしまうが、それでも胸に抱く想いの幾つかに検討をつけたり、たった一ヶ月の思い出を、振り返るのも良いかもしれない。明日からは、また化けてやらねばならないことがある。ぽてぽて、と歩いていくタケキリは、僅かな寂しさを抱えながらも、明日というものを思い描いて高揚した。

 そうして、ゆっくりと四本の足で立ち上がった時だった。

 けたたましい獣の咆哮と、腹を抉られるような衝撃がタケキリを襲った。

 草葉の揺れる音に狸の甲高い悲鳴が混じる。吹き飛ばされた身体が地面に落ちると、どうしようもない痛みと熱が駆け回った。毛の奥にあるはずの皮膚にぬるりとした生暖かい感触と、鼻につく鉄錆の匂いがする。それがタケキリ自身の体液と血脈だと、瞬時に理解出来た。瞼が重く、それでも薄く押し上げると、大きな影がタケキリを覆っていた。

「……あ、んたは」横たわるタケキリからは、絞り出すような声しか出てこない。その間にも喉が詰まって、身体が痙攣しているのが分かる。

 タケキリを見下ろしていたのは、鋭く目を光らせていた鬼だった。この街に住まう者ではなく、異邦から神無月の留守の隙に、主達の場所を狙ってやってきた鬼だ。鈍く光る眼差しが、退屈そうにタケキリを見下ろして、屈強な身体を曲げている。

「ああ、やはりタヌキだ。伏見の留守は、タヌキが守っているというのは本当だった」

 声を発しようとするたびに、タケキリの喉がひゅう、と音を立てる。留守神によって、この街に残る異邦者は、既に追い出されたはずだ。神無月の最終日であるからと、見たこともないほどに賑やかに、騒がしく、掃討されたはずなのだ。百合子を迎えに行く前は、確かに嵐のような天狗風が吹き荒れて、化猫の咆哮が天を貫いていた。

 タケキリを見下ろす鬼は、地面に血の池を作る狸を見下ろしたまま、喉で音を立てて嘲笑う。

「オレ達だって、バカばかりじゃあない。留守神は脅威に違いないが、ただのタヌキなら話は別だ」

「な、んで……」

 体毛が血に濡れていくのを感じながら、タケキリは声を絞り出す。視線だけで見上げた鬼には、見覚えがあった。それはまだ、この神無月の仕事に慣れず、死の匂いに鼻をヒクつかせていた頃だ。はじめて伏見の主以外の領分の違う者に出会った日で、決して忘れることはない。狸を笑う鬼は、必死に婦人の腕を引き、天狗風に煽られて尻餅をついていた鬼だった。

 あの時、確かに天狗の手によって京都の外へと放り出されたはず。三足烏が言うには、藻屑となったはずの鬼である。

 もう長くない自身を悟りながらも、タケキリは疑問を口にせずにはいられなかった。この神無月の京都の街を警邏する者達は、誰も彼もが奇妙であったが、しくじるようなことはしない。身近にあった三足烏や大天狗も、多くの烏を引き連れて、確実な仕事を成していたはずだ。

 分厚い筋肉の隆々とした肩を震わせ、鋭くも濁った目を細めた鬼は、頬の肉を持ち上げて笑い続けている。

 タケキリは、地面に伏したまま、ぼう、と歪んでいく視界の中で、重くなる瞼を持ち上げるだけで精一杯だった。激痛ばかりであった身体が痙攣しているのを感じながら、熱かった肉が冷たくなっていくことだけを理解した。鬼には、既にタケキリのことなど眼中にないようだった。絞り出した疑問の返答はなく、留守を任された獣を死の淵へと追いやって、他の留守神を出し抜いたことに歓喜して、咆哮のように雲ばかりの空に向かって笑い声を上げている。

 しかし、それもまた一瞬の出来事だった。

 人間ほどの身の丈のある白い二匹の獣がタケキリを横切って、鬼の喉元へと食いついた。

 ギ、ァアアアアア――情けないほどの悲鳴が、かろうじて聞こえている狸の耳を突き抜けていく。霞む視界で視線を向けると、まるで陶磁器のように白い二匹の狐が、鋭い牙で天を仰いでいた鬼の喉元を食いちぎるところだった。

 何処からともなく、甲高い鈴の音がする。幻聴のような澄んだ音が幾つも重なって聞こえてくる。そうして、鼻腔を擽る害ばかりの毒のような匂いが鼻についた。それはタケキリの嗅ぎ慣れた煙草の匂いだった。

「なんだ、せっかく出雲の土産を持ち帰ったのに、死にかけているじゃないか」

 軽薄そうな声が届いたかと思えば、土を踏む草履の音がした。もう首を動かすことの出来ないタケキリが、視線だけで見上げると、白沢の着物に身を包んだオサキが立っている。

「オサ、キ、さま……?」どうしてここに。続けようとしたタケキリの声は、喉に上がってきた血液によって塞がれる。

 しかし、オサキはタケキリを一瞥するだけで、まるでそっぽを向くように鬼へと視線を投げかける。

「お前は異邦の者だろう? 俺は別に、お前が何者であることに興味はないが、お前が狸に手を出したのなら、この街の作法に乗っ取らなくてはならないなあ」

「貴様ァっ、伏見の主か!」

「神無月はもう終わったからな。まさか、狸相手にあれだけ息巻いておいて、時刻も読めないわけでもないだろう?」

 オサキが白い着物の裾を揺らすと、それに応えるようにして、喉元に食いついていた二匹の狐が飛び退く。小気味の悪い皮膚を破る音は、喉元を食い破った証だろう。再び怒声にも似た悲鳴が上がる。オサキはいつものように口元をにんまりと持ち上げたまま、転がる鬼の様子を眺めていた。

「お前たちは、先に帰っているといい。あんなものを食っても、何の足しにもならないさ」

 足元に擦り寄るようにやってきた二匹の狐に向かって言えば、長い鼻が同時に小さく頷いた。踵を返した足が地面を蹴ると、まるで夜陰に浮かぶぼんやりとした灯火のように、木々の間を駆けていった。

 ああ、神無月が終わった、とタケキリは、密やかに胸を撫で下ろす。

 それはタケキリを、少しばかり寂しい心地にさせたが、それでも留守神としての仕事を完遂したことを意味していたからだ。オサキの留守を守ることが、奇々怪々な神無月の本質だった。伏見という土地が鬼に取り上げられる前に、主が出雲から帰還したのなら、タケキリは無事に仕事を終えたことになる。

 自身が血だまりの中に浮かんでいることを自覚しながら、タケキリはなんとか息を吐き出した。もう長くはないだろう。今まで何度も生命の危機に出会い、死の淵を予感したが、こんなにも近くに這い寄るのは初めてだ。それでも、タケキリは狸であったから、予期する死が間近であることを自覚しても、そうだろう、と受け入れることが出来た。

 喉を破られた鬼からは、鮮血が流れることはない。それでも痛覚は存在するのか、悶えるように呻いて地面を転がっている。オサキがゆっくりと一歩を踏み出す。その度に、美しい鈴の音が空気を震わせた。清らかで洗練された耳心地の良い音と、穢れのない白衣に身を包むオサキは、見たこともないほどに荘厳な空気を身に纏っていた。山の袂で、ぷかぷか、と紫煙を吐き出して、奇妙なお面を被っている姿には、似ても似つかない。口元に浮かべた笑みだけが、タケキリの知るオサキだった。

 地面に伏してもがく鬼を、オサキの足の裏が踏みつける。「ギっ、」悲痛な悲鳴がまた上がる。

「知っているか? この街にはこの街の作法がある。俺はあまり物事に執着しない性質ではあるが、伏見は俺の土地で、ソレはまだ俺の留守を預かる者だ。理解はしているか?」

「ぐっ、ぁ……俺を、殺、すつもり、か?」

 ただ足の裏に踏みつけにされているだけだというのに、まるで壁に圧迫されているような気がした。肺を押し潰す足の上に、涼しい顔をしたオサキがいる。唇の端を持ち上げて、蜜のような笑みを浮かべていた。まるで大きな岩のような重さを感じながら、鬼は呼吸も切れ切れに喘いだ。

「殺す? 随分と仰々しい言い方をするものだなあ。生命など持ち合わせていないのだから、死ぬことなどありえなだろう」

「俺は、この場に在る者だっ!」

「在るだけだ。俺も在るだけだ。死など上等なものなど、やってくるわけがない。諦めろ」

 ぐっ、とオサキが足に力を入れると、まるで風船が破裂するような軽さで、鬼が潰れた。空気の抜けるような音がして、そのまま地面の中へと消えてしまったかのようにも見えた。鬼がいたはずのオサキの足元には、体液や肉片が染み付いたり、転がったりしていることもない。先ほどまで轟いていた咆哮が嘘のように、山中に静寂が戻ってきた。鬼がいた痕跡は塵一つ残ることはなく、ただいつものようにオサキが立っていた。

 詰まっていく喉の微かな隙間を通る空気が、ひゅうひゅう、と音を鳴らし、タケキリの痙攣していた身体は、次第にその力すらも失っていくようだった。案外長いこと生きているものだ、と血だまりの地面に頬を押し付けながら、タケキリはぼんやりと考える。

 鬼の消滅を見届けたオサキが、ゆっくりと近づいてくるのを、微かに感じながらも、もう首を擡げることすらもできそうになかった。

 生温い鮮血が、じっくりと冷やされていくのを感じていると、不意に小風が流れていく。まるで大気を揺らさないように気遣うような柔い空気の揺れが起こり、やはり目玉だけを動かしてみると、タケキリの視界の中に赤い着物の裾が見えた。空気に揺れるふわふわとした赤い着物は、神無月では見慣れたものだった。

「て、んぐ、さま……?」いつもなら突風にも似た天狗風が吹き抜けていくはずなのに、今日の風は、随分と柔らかい。垂れ下がる髭や、朱く濡れた毛を、撫でられているような心地よさがあった。

「オサキ、てめぇ……」と、タケキリを一瞥した天狗から、怒気の溢れる声がした。

「おや、キイチか。久しいな」

「お前が帰ってきていて、なぜ狸が死にかけてやがる?」

「俺が帰ってきた時には、そうなっていたぞ。なんだ、俺のせいだと言いたげな顔だな」

「ふざけんなよ。ただの獣に留守を預けたのは、お前だろうが。こいつには、まだ理があるはずだ」

「それを言うのなら、お前たちが追い出し損ねたから、とも言えるだろうに。天狗ともあろう者が、責任の所在を問うのか? 人間のように?」

 にんまりと唇で弧を描いたままのオサキが言えば、瞬間的に嵐でも起きるような怒気を含んだ風が吹き抜けていった。不思議なことに地面に伏したままのタケキリの周りだけは、砂塵の一つも浮かばず、オサキの白い衣が色味を持たない木々の葉と共に翻っている。

 しかし、オサキは、ただにんまりと笑みを浮かべたままだった。天狗は小さく舌打ちをする。

「お前は、こうなることが見えていたんじゃないのか? 見えていたから、ただの狸なんぞに留守を任せたんだろう? 千里の先まで見えている癖に、なんでお前に関わる狸に慈悲を持てねえんだよ」

 天狗は、オサキが千里の彼方まで見渡す眼を持っていること知っている。それは過去を見据え、現在を眺め、未来を覗き、どんなに離れた場所も、時には他者の胸中を暴く双眼だった。神無月に出雲に出向くオサキは、伏見の山の主であるのだから、当然のように全てを見渡している。生死の領分に在る者からすれば、それは超常の力と呼べただろう。

 貴船の主は、願うと雨を降らせ、また止ませることも出来るという。怨嗟に巻かれた猫に慈悲と寵愛を与え、軒下を貸してやっている。嵐山に住まう龍神は、人間を眺めることを好み、時々目があった者に恩恵を与えるという。互いの領分を侵さず、互いの行いに口と手を出さないのが、この街の生きる者と領分の異なる者達の作法であるが、些細な慈悲や気まぐれは、この街には溢れていた。

 しかし、天狗は堪え性がなく、伏見の主は慈愛など持ち合わせてはいない。

 オサキという奇妙な伏見の主が、何事にも興味がないのを、天狗は知っている。自身の領分にも、目の前で誰が死のうとも興味はない。元より関わる必要性を感じずに、欠伸をしながら退屈を持て余している。普段、オサキの顔を覆っている奇抜な面は、人間を相手にしていながらも退屈しのぎに過ぎず、京都の街ですれ違った誰かも、肩のぶつかった誰かも、オサキは覚えていないだろう。

 ただ全てを見渡しながら、オサキの瞳は何も映さない。

 その双眼は、目の前を歩いていく人間が、時節を巡らせる世の中が、ただ過ぎていくだけであることを知っている。手出しをしたところで、声をかけたところで、死への道を歩み、泡沫のように消えていくことを、何度も見てきた。

 しかし、タケキリはオサキが選んだ留守神だ。こうなることが分かっていて、どうして違えることを選ぼうともしないのか。天狗には分からなかった。

「これではあんまりだ。この狸は、お前が声をかけたからこうなったんだぞ」

 天狗は、神無月の間、あまりにも役立たずでありながら、勤勉だったのを知っている。そうして、獣ながらに、死の淵へ向かう背中を見送っていく中で、何やら感じ入っていたのも見てきた。

 本来ならば、知ることのなかった領分を駆け回り、それなりの仕事はやってのけていたのだ。その事実だけは、この街の神無月の留守を守る達ならば、誰もが知っていることだろう。

 鋭い眼光で天狗が睨むと、オサキは小首を傾げた。

「俺には、キイチがそんなに怒っている理由が分からないんだが」

「あ?」

「俺はタケキリに、神無月の礼をするつもりぐらいはある」

 今度は天狗が目を丸くする番だった。

 オサキは身体を地面に伏したまま横たわるタケキリの傍にしゃがみこむ。血だまりを踏みしめたオサキが、未だ口元に笑みを浮かべたままであるのが、まだ微かに世界を映しているタケキリの目にも見えた。

 もう傅く気力も、体力もない狸は、伏見の主をぼんやりと、視線だけで見上げることしか出来ず、四肢の感覚がゆっくりとなくなっていた。反射でピクピクと動いているのは、もうタケキリの意思ではない。溢れていく血液に喉を通っていく管が絞められて、笛の音のような呼吸が、僅かに生きていることを告げていた。

「そう、俺はお前に礼をしなければならない。ただの狸の身には、余りすぎる働きだったからなあ」

「……っ、ぁ」

「ふうん。喉が詰まっているな。とりあえず言葉を取り戻した方がいいだろう」

 オサキの長い指がタケキリの半先をちょん、とつついた。すると消えたはずの痛みがどっと戻ってきて、思わず咳き込んでしまう。喉に詰まり、固まっていた血が塊となって吐き出されると、今度は鬼に打ち抜かれたはずの皮膚の痛みが途絶えた。瞬間的な身体の変化に驚きながらも、タケキリは軽くなった瞼を持ち上げる。

「オサキ様、一体何を……?」よろよろと立ち上がりながら、タケキリは恭しく頭を下げてから顔を上げた。

 鮮血に濡れた毛が酸化して玉になっているのが心地悪く、身体に空いた穴は塞がってはいない。四本足で立っているのが不思議なほどに、未だ血を流れ続けている。まるで貧血のように頭がぐらぐらと揺れていて、どうにも心持たない。死の淵に立っていた自身の身に起きていることが、タケキリには理解が出来なかった。

「少しばかり痛みを取り除いただけだ。まあ、あまり長くは持たないだろうが、礼をする前にお前が死んでしまっては、キイチがまた怒るからなあ」

 オサキがちらり、と背後に立っている天狗を見る。つられるようにタケキリが視線を向けると、相変わらず不機嫌そうに腕を組んでいる天狗と目が合った。一介の狸でしかない獣を心配して、飛んできてくれたことだけを把握して、タケキリは小さく頭を下げた。

「さて、まずは礼を言おう。この一ヶ月、よくぞ俺の領分を保ってくれた。出雲から時々覗いていたが、随分と活躍してくれていたようだな」

「滅相もない。私は、オサキ様の言われた通りに駆け回っていただけでございます」

「それこそ狸の本分だろう。おかげで俺は恙無く神無月での仕事を終えられたわけだ。だから、まあ礼の一つとして、お前の願いに一つ耳を寄せよう」

「私の、願いですか?」

 タケキリの円な瞳が、オサキを見上げたまま、少しばかり丸まった。そんなことを聞かれたことは、一度もなかった。狸であるのだから、それは当然のことだ。願望など持ち合わせてしまったら、もうただの獣ではないだろう。

 しかし、やはりオサキは気に留めている様子はなかった。出会った頃と同じように、退屈そうな目をしながら、口元だけに笑みを浮かべている。

「ああ。俺は大抵の願いを叶えることが出来る」

 オサキは伏見の主でありながら、生きている者とは領分を違える獣だった。その双眼で千里の彼方まで見通している。伏見の主であるオサキは、形を定めず変幻自在でありながら、世の中の大抵の事に飽きてしまった万能の獣だ。一匹の狸として野を駆け回り、人間よりもずっと近くに、その存在を感じていたタケキリは知っている。気まぐれに街を闊歩して、眺めるだけの主は、きっとタケキリの願いをなんでも叶えてくれるのだろう。

 にんまりと笑うオサキを直視したまま、タケキリは思考した。

 それは遠慮でもなく、嫌悪でもなく、ただ自身の願いは何であるかということだ。もうすぐ死の淵へと旅立ち、あの虚の向こうへと歩いていくだろう毛玉であることを自覚しながらも、タケキリには胸中に燻る想いがあった。百合子から引き継いだ彼女の願い。神無月の間に見送った多くの人間たちの背中が、すっと脳裏に浮かんでは駆けていく。

 それは獣の本能には近かった。冬に備えて食べる時。木々の間で丸くなり眠る時。春を迎え番を探す時。それらと同様に、自然と喉奥から這い出てきた。

「本当に、なんでもよろしいのでしょうか」

「ああ、かまわない。お前には、その権利があるからな」

「では僭越ながら、私は、このまま神無月の仕事を続けたく存じます」

 タケキリは恭しい態度でありながら、頭を下げることはなく、ただ真っ直ぐにオサキを見て言った。すると、オサキの口角が更に上がったような気がした。

「ほう。死の淵にあるお前が、生きることではなく、こちらの領分が望むのか?」

「私は一介の獣に過ぎない狸でございます。しかし、こちらの領分は、オサキ様が言ったように果てなく奇妙で面白く、私は楽しくて仕方ありませんでした」

「狸でありながら、狸を捨てるのか?」

「百合子さんから託されたものがあります。あの方への恩を返すためなら、私は狸でなくても良いのです」

 正のことを託されて、ハルや清司を待っていて欲しいと頼まれた。虚の中へと消えていく華奢な背中は、百合子のように悔い惜しむ死に様の人間を見送ってくれ、と願っていた。出来る限りで良いから、という柔い音吐は、決して無理強いを含んではいなかったが、タケキリにとって今が、その限りの果てだ。

 オサキからの願ってもない申し出は、放っておけば、すぐに百合子の背中を追うはずだったタケキリを、今までのように繋ぎ留めることも出来ただろう。ただの狸として冬を迎え、人間に変化して街を駆け回り、また冬に備えて生きていく。やがてやってくる寿命を、生死の道になぞらえて果たすことも、容易いことかもしれない。しかし、それでは胸中に燻る欲求が、満たされそうになかった。生き様を語り、死に様の背中が虚の暗がりへと消えていくのを眺め、先を行く人間の歩んできた道に触れる。奇妙で複雑怪奇な生き様が、最も美しく過ぎ去っていく瞬間を眺めるには、オサキや天狗の立つ場所に足を向けるしかないのである。

 それがもう、狸という生命の枠から外れたとしても、タケキリはかまわなかった。人間の匂いをつけて故郷の山を追い出された時から、既に狸としての矜持など持ってはいなかった。面白可笑しく生きることの方が、タケキリにとっては余程に大事だった。

 きっぱり、と言い切った眼下の狸を、視線で捉えたままのオサキは、小さく肩を震わせた。いつもは口元だけが歪んでいるオサキの目尻が、下がっていることに気づいて、タケキリは不思議な心地を抱く。しかし、オサキが笑い終える前に、天狗が先に不機嫌な口調で割入ってきた。

「おい、待てっ。お前、ちゃんと意味は分かっているのか?」と、天狗は焦ったようにオサキの肩口から顔を突き出した。

「天狗様、私は……」

「今ならお前の傷を癒して、そのまま狸に戻ることが出来る。生きる者の道を歩めるんだぞ。こちらに身を寄せたところで、お前はまた百合子みたいなのを永遠に見送る羽目になる。それが、どういうことか分かってんのか?」 

 まくし立てるような天狗の声は、酷く真摯だった。

 大天狗もまた伏見の主と同じくして、生きる者と領分の異なる者だ。生まれた頃を知らず、いつの間にかそこに在るだけの風だ。生命を持たない彼らは、生き様も死に様も持ち合わせてはいない。進退を繰り返して、歩んでいく人間達の背中ばかりを眺めてきた。

 それでも、知っているだけだった。生きる者と全く異なる場所に立っているからこそ、天狗もオサキも、面白可笑しく転ぶように変化していく街並みを、ただ指を加えて見ているしかない。だから、生死の理の外枠に在ることは、拷問のように退屈だけを生む。過ぎていくだけの景色のような瞬間に手を伸ばしても、結局は刹那に消えていく。

 天狗は知っているからこそ、問いかけた。まだ見聞きしただけで好奇心を抱く獣が、慣れてしまったあとの末路は、退屈を持て余すオサキかもしれず、天狗自身であるからかもしれないからだった。

 不機嫌な表情だった天狗は、いつもよりも眉を釣り上げている。その意味を汲み取れないほどに、タケキリにとっての神無月は薄い記憶ではなかった。

「天狗様、ありがとうございます。せやけど、私は、もうあかんのです。私は人間を知ってしまいました。生きる者の残滓に触れてしまいました。私は真っ当に生きる狸でおるよりも、あの酷く奇妙な背中を見送りたいんです。そうして、百合子はんの望みはった狸でおりたいんです」

 百合子が残したのは、憂慮ばかりの小さな夢だ。いつも誰かを想って生きた百合子の背中が、幾度となく瞼の裏に映る。あんなにも美しい歩みをタケキリは見たことがなかった。哀しいと、寂しいと、泣いた百合子の顔が忘れられない。タケキリを見上げる強い灯火の眼差しも、何度も起き上がる病に伏した白く細い身体の形も、狸を抱いた柔い細腕の温かさも知ってしまった。 何一つ恩返しの出来なかったタケキリに、百合子は最期に、ようやく言葉にすることが出来た願望を置いていった。複雑怪奇な人間の生き様を身近に感じ、タケキリは、もうただ生きるだけでは我慢ならない。

 意義が欲しい。

 生きることが目的なのではなく、そこに在ることに意味が欲しくてたまらない。

 真っ直ぐにタケキリを見ている天狗に恭しく頭を下げる。何も知らない狸の世話を焼いてくれた天狗もまた、神無月によって大きな恩人となってしまったからだ。

「悔いたところで、人間のように終わりはないんだぞ」

「それも理解出来てると思うてます。それでも、私はまた百合子さんみたいな人間の背中を、見送りたいんやと思うてます」

「酔狂な狸だな」

「同感です」

 タケキリが苦笑をすると、口元からぼたり、とまた血だまりが落ちた。眉を寄せる天狗は深い溜息を吐き出して、それ以上は何も言わなかった。タケキリは、痛みが消えたままの穴が空いた身体を引きずって、数歩だけオサキの足元に近寄る。鼻先をヒクつかせても、もう何の匂いもしなかったが、それでも深々を頭を下げた。

「オサキ様、どうぞよろしくお願いします」

「こちら側に来てしまったら、お前はもう狸には戻れないぞ。死んだ者が生き返らないのと同じくして、この世の理から外れてしまえば、生死の道は歩めない」

「かまいません。元より、何度も死ぬはずだった命でございます」

 タケキリの円な双眼が、再びオサキを見上げると、ほう、と小さく息吹いてから「そうか」と一言だけ返ってきた。

「では、お前の生命は俺が貰おう」

 オサキは言うが早いか、狸の身体に痛みが返ってくる。まるでぶり返すような衝撃に、甲高い悲鳴が木々の間を駆け抜けていった。何が起こったのかを理解していない目が、鬼に空けられた腹部の穴を見れば、恐ろしいことに、オサキの手が入り込んでいた。内蔵が押し上がり、ぐずぐずと探られるたびに痛みが走り、反射的に四本の足をバタつかせて、身を捩る。それでも、オサキの腕は離れずに、穴の隙間からもう少ないだろう狸の血脈が流れ出ていた。

 皮膚が裂けるよりも酷い痛みだ。出るはずのない脂汗が滲み出ているような気がして、自然と視界が滲んでいく。狸本来の甲高い声が、何度も山中に轟くが、助けてくれる者などいるはずもなかった。

 体内を探るオサキの指先が、まだ僅かに鼓動を繰り返す心臓に触れた。

 ずるり、と腕が引き抜かれると、声にならない悲鳴だけが呼吸と共に吐き出される。オサキが握っているのは、タケキリから引き抜いた心臓で、身体から離れても、不思議なことに小さな鼓動を繰り返していた。不意に痛みもなくなって、しかし四本の足に力が入らず、タケキリは再び地面に伏した。生暖かい血だまりに頬を打ち付けて、目眩にも似た感覚を抱きながら、オサキを見上げる。

 腕だけを朱く染めたオサキが、笑みを浮かべたままの唇を開く。

「ぁ、……ぐっ、ぅ」

 タケキリの小さな呻き声が起こった。まるで死の淵へと旅立つように、瞼が酷く重い。それは鉄に足を掴まれた時と同じだった。ああ、死ぬのだ、と観念をして、直に開かれるだろう夜道への扉を待っている。歩き出せば、きっと迷子にならず、虚の向こうへとたどり着くだろう。

 閉じるべきではない、と考える思考も上手に回らない。

 タケキリの瞼が閉じる時、オサキがそっと脈打つ心臓を飲み込んだのを確かに見た。

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