第21話
「しかし、変なところやねえ。お月さんも出てへんし、同じ街やと思われへんわあ」
百合子はタケキリに手を引かれるようにして歩きながら、キョロキョロと裏側の京都の街を珍しそうに眺めている。落ち着いた声音は、百合子特有の抑揚に溢れていて、これから隧道へと向かうのに、随分と明るかった。
「ここでは昼と夜の境も分からんへんのですよ。疲れてませんか?」
「ええ、大丈夫。ありがとうね、タケキリはん」
手を繋いだまま、まるで京都の街を散策するような足取りで、タケキリは百合子を送り届けるために隧道へと進む虚に向かっている。子供の癇癪のように泣いていた百合子は、もう随分と落ち着いていて、きっと手を離しても、そのまま歩んでいくようにも思えた。それはこの神無月という、不可思議な期間に出会った人間たちと同様だ。迷子になっているくせに、歩き出せば自然と向かう場所を知っている。それは死の際を知る獣と同じで、複雑な分だけ、人間が僅かに迷うのかもしれなかった。
件ないことを話しながら、ぷらぷらと歩いていたタケキリと百合子は、次第に話題もなくなって、どちらともなく口を閉じた。毎日のように顔を合わせていた頃には、尽きなかった会話の芽が、今はどうしてか思いつかない。離れていた期間は、そう長くなかったはずなのに、別れの匂いが狸の鼻を刺激して、なんとも言い難い心地だったのかもしれない。
タケキリは、今までこんな感情を抱いたことはなかった。亀岡にいた頃も、群れの家族であった長老めいた爺狸が死んだ時も、となりの群れの牝狸が鍋になったと聞かされた時も、それまで精一杯生きた獣に尊敬の念を抱き、労う想いがあった。しかし、今はそれともまた違った心地だ。尻がむず痒いような、どこかに走り出したいような、そんな気分だ。これが寂しいというものであるのか判然とせず、タケキリは普段、閉じることの少ない唇を結んで、まるで自身が隧道へと向かうように、真っ直ぐと歩んでいくしかなかった。
そうして、歩いて、少しばかり山を登ったところに、神無月で見慣れてしまった大きな蝦蟇口のような虚が姿を見せる。相変わらず中は夜陰のような暗がりで、奥まで見通すことが出来ない。
タケキリと百合子は、虚の前で立ち止まる。
「なんや、大蛇でも出てきそうやねえ」
「まさか。八つの首の大蛇もおりません。こちらからは暗く見えても、進んでしまえば迎えが来るそうですよ」
「そうなん?」
「ええ、仏様は情深いんだそうです。先に歩いていった百合子さんに縁の深い方が、お迎えにいらっしゃるのだとか」
隧道を眺めて感心したように呟いた百合子に、タケキリはいつものように口上を述べた。これは三足烏の常套句であったが、三足烏自身も天狗に教わったのだ、と言っていた。
生きる者の領分に立っていない天狗や三足烏は、それが本当であるかどうかを、知らないらしい。彼らが足を踏み込んだところで、このどこまでも続いていそうな虚は、二歩足らずで壁にぶつかるそうだ。生きていない者には通ることが出来ず、ただの岩肌を見せる穴蔵でしかない。それでも、この虚に入って戻ってきた迷子の人間も獣もいない。進めば戻ることは出来ないのだという。それに、こんなに暗くて恐ろしく見えているが、虚の中に消えていく背中を見送った後に、悲鳴や恐怖に慄く声が、聞こえてきたことはなかった。
暗闇が怖いのか、それともやはり惜しむべき何かを残しているのか。百合子はじっと虚を見つめたままだった。柔いタケキリの声音に小さく頷いて、落ち着かせるように胸に手を置き、小さく息吹く。そうしてゆっくりと虚を眺めていた横顔が、タケキリの方へと視線を寄越す。
「ねえ、タケキリはん」
それはいつもと変わらない百合子の声だった。狸を拾った少女のような、玄関先で慎ましく頬を上げて迎えてくれているような、ベッドの上に伏しながらも柔い笑みを浮かべているような、聴き慣れた音吐だった。涙を流しても、「いらんこと」を吐き出しても、呼吸を深くして顔を上げた百合子だ。
「はい」タケキリは頷いて、絡んだままの指先に僅かに力が入るのを感じている。
視線が合うと、百合子は真っ直ぐな眼差しで、少し高い位置にあるタケキリの双眼を射抜いた。
「私が残してきたもんを、全部タケキリはんにお願いしてもええ?」
小さな百合子の唇が、決断をしたようにそう言った。
タケキリは何度か目を瞬かせる。瞬間的に、百合子の言葉が呑み込めなかったからだ。タケキリにとって、生前に死者が残したものは、見聞きするに過ぎないものだった。それは複雑怪奇で面白可笑しい人間のものであって、一介の狸には馴染みのないものだ。理解しがたく面白い。だからこそ美しい生き様が、目の前に浮かんでは消えていく。神無月の間に歩いた京都の街から見送った背中は去り行くばかりのものであったから、まるで水面に映る白い月のように不確かであったのだ。
「百合子さん?」目を丸くしたタケキリに、百合子は少しばかり申し訳なさそうに苦笑した。
「タケキリさん。私ね、正さんが心配やの。家のことも気掛かりやし、きっと私がいなくなってもうたら、誰も私の集めた本を読んでくれへんとも思うし、だあれもハルと清司さんを、この街で待ってへんようになってしまう」
「それは、そうかもしれませんけど……」
「残してきたもんって、タケキリさんが言うてくれてから、ずっと考えてたんよ。何を残してきたんやろうって。なんでこんなにも悔しいんやろうって」
それは諦念ばかりを抱いていた百合子が、初めて口にした後悔だった。亡くなったのは自身であるはずなのに、惜しんでも惜しみきれないものがある。悔やんでも、悔みきれないものがある。まるで生死の道の理にさえ腹が立っているのだとでも言いたげだった。
「最期の最期まで、タケキリはんには迷惑なことかもしれんけど」
「そんなこと、あるわけないやないですか。でも、私はただの狸ですよ」
「私には、タケキリはんが、ただの狸やねんて思えへんもの。私のいらんことを聞いてくれて、こうして迎えにも来てくれて。最期だけは、タケキリはんの手を借りずに生きなあかんと思うたけど、もう死んでしもうたから……」
へらり、とした百合子の笑みは、生前に見たことがないほどに気が抜けていて、なんとも情けない表情だった。眉も目尻も下がっていて、どうしようもない、と語っている。
どうやら百合子は、自身の代わりにタケキリに見守ってくれ、と言っているらしかった。京都の街に百合子が置いてきた多くのものを、百合子がそうしてきたように見つめ続けていろ、と懇願しているらしかった。
幸福を願った友人をじっと待ちながら、商売を軌道に乗せ始めた夫を見守り、時々愛した文学を手にして、小さな夢を抱く――生前の百合子が叶えることの出来なかった全てを、一匹の毛玉に託そうとしている。病で犯されて死んでしまった百合子には、もうどうしようもないことばかりだ。それを冬が越せるかどうかも怪しい狸に、預けようと言うのだから、タケキリは少しばかり返答に困ってしまった。
もし冬が越せたとして、狸であるタケキリには、またやってくるだろう冬を越せるかどうかも定かではない。偶然に百合子に拾われた命であるが、狸の生命は人間よりも短いはずだ。確証めいた狸の生き方など忘れてしまったタケキリには、約束を守れる自信がなかった。
それも百合子は分かっているのだろう。狸に託そうだなんて馬鹿げた妄言が叶わないことも、きっと百合子は知っている。それでも、もうすぐ虚の中へと歩み始める百合子は、言わずにはいられなかったのだろう。世の理から消える百合子は、確証など必要としていない。
それなのに、タケキリは歌舞伎座で多くの人間に耳を寄せていたように「へえへえ」と曖昧に頷くことが出来なかった。百合子に対して嘘を吐くことが出来ずにいて、なのに恩は返したいと欲求だけが沸き起こる。
どう答えるべきかを迷っている百合子と繋がったタケキリの手に、温度のない手のひらが包み込んだ。絡んでいた指先に持ち上げられた手に、百合子の空いていた手先が触れている。泣き喚いた百合子に、タケキリがそうしたように、添えられているだけの柔い感触だった。
「私の生きた意味を、タケキリはんに預けてもええかなあ?」
何も出来なかったと泣きながら、百合子は歩んだ生き様が名残惜しかった。
ただ生きているだけでは満足しないのは、やはり百合子も同じらしい。意義を模索し、意味を定める。肉体は炎に巻かれ、何も残らないことを知りながら、それでも歩んできた道が何の跡形もなく消えていくこと恐れている。
食欲も消え失せて、ただ生きることが出来なくなっていたタケキリの目の前に、ざっと百合子の歩んだ京都の街の狭い小路が現れたような気がした。
ああ、なんてことだろう。
「百合子さん」
「うん?」
「私は狸なんです」
「そうやね」
「狸は生きることに意義を求めへんし、生きることが目的の獣に過ぎひんのです」
その生命が尽きるまで、毛玉としてこの世におぎゃあ、と生まれ落ちた時から、ただひたすらに生きることのみに注視してきた。人間のように、楽や快適を追求することはなく、そこにある群れの一員として、山を駆けては木の実を探し、川に飛び込めば魚に手を伸ばす。木の実を採るための棒を思いついたりはせず、魚を安全に食らうために火を用いたりはしない。丸くふくよかな腹を叩いて、冬を越すのが狸である。難しいことは考える余地もなく、人間のように複雑ではない。命があるから生きるだけで、時々出会う面白いことを眺めている。
タケキリには、大義や使命もない狸に、百合子は意義を与えようとしているようにすら思えた。なんてことだろう。恩返しという言質を取られ、しかし、まったく嫌ではない。それよりも、腹の中が高揚している。天狗の言う通りだ。ただ生きるだけでない狸など、獣ではない。
「百合子さん。狸なんかに預けてしまってええんですか? ホンマなら正さんや、ハルさんや、清司さんがいはるんやないですか?」
高揚感に揺れながら、タケキリは出来るだけ冷静な言葉を心がけた。
失ってしまった人生を、ただの狸に託していこうなどというのは、酔狂に過ぎるのではないだろうか。百合子の生涯を引き継ぐべき人間は多くあるはずだ。百合子は、自身では何も成せなかったのかもしれないが、その分だけの人徳があった。
惜しむほどの人生を預ける相手ならば、幾らでもいるのではないか。
タケキリをチラリ、と見上げた百合子は小さく微笑んだ。
「皆には、もちろん残してきたもんがあるんよ。ちゃんと遺書は書いてきてあるんやから」
「百合子さんは、抜け目がないですねえ」
「長くないって分かってもうてたからねえ。商家の妻として、それが私の、最期のやらなあかんことやったから。それに、正さんにも、ハルや清司さんにも、まだまだやらなあかんことが、ようさんあるもの」
百合子は死んでもなお、自身の周りにいた人間たちに目を配っているようだった。意義を見つけて生きていかねばならない夫や友人を、もう手も届かないというのに案じている。学生の頃に戻れないと知りながら、縁談の先でこの街の裏側を覗き見るほどに心を殺していながら、百合子はそっと手を添えるように、周りの人間を案じてきた。いらんことを胸中に留めながら、身体を病んでも、それはきっと変わらなかったのだろう。正の頬に流れた涙を思い出し、タケキリは確信している。百合子にとっての意義が果たせなかったとしても、無意味ではなかったのだ。
狸の足りない脳みそを回して思案するタケキリを、百合子は笑ったまま見上げている。
「やからね、タケキリはん」
「はい」
「私、貴方にも生きてほしいの。私の分まで、意義のある人生を」
まるで泣きそうな顔をして、それでも聡明な百合子の眼が真っ直ぐにタケキリを見つめていた。稚さを残す柔い唇から発せられた言葉は、瞬間的にタケキリの隠した毛を逆立たせたような気がした。色合いのない裏側の世界に色彩が溢れ、百合子の歩んできた火の灯る小路が広がっていく。行き交う京都の住人たちの話し声や雑踏が耳に届き、複雑怪奇で面白い人間の社会が見えてくる。
なんてことなのだろう。どうしてなのだろう。
感じたことのない高揚が腹の底から上り詰めていく。考えたこともない好奇心と疑問が、タケキリの胸中を何度も通り過ぎていった。
生きろというのだ。冬を越せないかもしれない痩せた狸を捕まえて、百合子は意義を示して歩めと言う。もう伸ばす手を持ち合わせていないのに、百合子はまた狸を拾うつもりであるらしい。
これから歩む京都の街に、百合子がいないことを、彼女自身が一番知っている癖に。
「百合子はんは、なんでも見抜いてしまいはるんですねえ」
「……だって、私が拾った頃よりも痩せていはるんやもの」
「狸に意義やなんて、無茶なことを言いはります」
「でも、タケキリはんは、面白いことがお好きやろう?」
確信を持った百合子の瞳は、どこまでも強い光があった。
百合子は、これまでタケキリと多くの言葉を交わして知っている。一介の狸だと嘯くタケキリが、どうしようもなく好奇心に負けてしまうことも、普遍を当然だとしているような表情をして、実のところ変化ばかりを眺めていることも、理解している。
そうして、タケキリは抗えなかった。秋の深まる野山の中で、失くすはずだった命を拾ってくれたのは百合子だ。あの時から、タケキリが労を費やす先は決まっている。狸が生きるためではなく、怪我をした毛玉を抱き上げた柔い指先の為にタケキリは歩んできた。
「これから、人間社会はどんどん進んでいくと思うねん。人が死んで、時代が変わって、目が回ってしまうかもしれへん。きっとタケキリはんには、楽しくなると思う。それで、私みたいな迷子が沢山出てくると思う」
「そう、ですねえ」
「私はね、タケキリはんに救われたんよ。こうして最期まで耳を傾けてくれはって、置いてきたどうしようもないもんを全部言うてしもうたもの。やから、私はこの先に進むんが怖くない」
夜陰が広がるように、先の見えない虚へと視線を流して百合子は言った。足を進めるには、あまりにも暗い隧道への道は、進むべきであるはずなのに見つめているだけで足が竦む。
「正さんや、ハルや清司さんが……ううん、他の人が迷子になっても大丈夫なように、出来る限りで助けてやってくれへんかなあ」
薄く微笑む百合子の顔は、色褪せた裏側の街にあっても、まるで花が咲いたように可憐だった。そうして、百合子の与える意義と言葉は、いつもタケキリに面白そうだと、予期させてしまう。
百合子には、どうしても返せない恩がある。百合子からは、どうしても抗えない期待を植え付けられる。
獣に無茶を言いながら、百合子の言葉は、タケキリを毛玉らしく素直にさせる。覚えた言葉で口八丁に濁そうとしても、師である百合子に敵うはずもない。喉元で止まっていた願望は、過ぎたことだと知りながらも、逆らうことの出来ない直感となってタケキリの腹の内から響いていた。
「出来る限りでええんなら、私は狸は捨てましょう」
もういつ死んでもおかしくない毛玉である。それでも構わないのなら、とタケキリは柔い笑みを浮かべた。中途半端は嫌いだ、とまた天狗に叱られてしまうのかもしれないが、面白くて仕方がないのは事実なのだ。人間に化けて正体を隠匿し、悪戯のように人の群れに紛れ込むことも、移り変わる人間社会の奇妙さに触れることも、生き様に耳を傾けて、死に様の背中を眺めることが、興味深くて心が躍る。
「百合子はんの頼みを、私はよう断ることが出来ひんのですから」
人間の皮を被りながら、狸のフリをして怯えても、神無月の出来事はタケキリにとって、なによりも奇妙で複雑怪奇で可笑しかった。その上、恩人に生きろと言われてしまったら、もう何も断じる言葉が思いつかない。
降参だ、とタケキリが微笑むと、百合子は頬を持ち上げてつられるように笑った。白く透き通る温度のないはずの肌に赤みが増し、目尻が下がる笑みは、百合子が懐かしんだ女学生の頃のように精錬と美しい。
「ありがとう、タケキリはん。最期まで本当に……」
「いいえ。お礼を言わなあかんのは、私の方です」
百合子のいらんことを預かって、タケキリは小さく首を振った。そうして、百合子はゆっくりと視線を虚の方へと向ける。体を捻り、細い足が一歩前に出た。行きべき先を知っている百合子の眼差しは、これまでの何よりも強く真っ直ぐに前を見据えている。
「タケキリはん、お元気で」
「百合子さん、お気をつけて」
虚へと歩み始める百合子の背中は、あまりにも力強くて、肉体を失ったのが嘘のように毅然としていた。小さく会釈を交わしてから、百合子の体が嘘の中へと入っていく。隧道という暗闇をものともせず、振り返ることもなく流れるような黒髪が、ゆっくりと夜闇に溶けていった。
タケキリは華奢な肩の薄さや、伸びた背筋を眺め、きっと真っ直ぐに前だけを見ているだろう双眼を思い出す。狸を拾い上げた百合子の影や形が、暗闇へと消えていくのを、ただ見つめていた。
化けただけの男の頬に、獣が流したことのない涙が、一筋流れて落ちていった。
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