第20話

 百合子の細い手のひらを握りしめた正が啜り泣いている。それは病室の誰よりも静かな涙のように思えた。かつて狸を連れ帰った百合子に怪訝な顔をしていた母が、檻の中から見上げた時には厳粛な顔をしていた父の肩に、顔を埋めてしゃくりを上げている。その父も狸を見下ろすには無愛想だった顔を苦悶に曇らせて、母の肩を抱いていた。

 百合子の病室は、二条にある少し大きな病院のー階だった。別棟であるのか個室が並び、随分と静かだ。三足烏によって無理やり裏側から追い出され、そのまま病院の塀に捨て置かれたタケキリは、度重なる急上昇と急降下に目を回していたが、ぐるぐる回る視界の中に久しく眺めていなかった空に浮かぶ白い月を見つけて、色彩の豊かな、この街の表側へと戻ってきてしまったことを実感した。夜陰の広がる空に浮かぶ数片の雲が、幾度となく吹く荒々しい風に流されていく。これが京都の街の裏側で吹き荒ぶ天狗風であると、きっと人間は知らないのだろう。

 飛行で驚いた身体を落ち着かせてから、タケキリは四本の足で立ち上がった。それでも、今更百合子の顔を見に行くことは出来ない。化けられなくなったタケキリは、小汚い狸であったから、毛玉のままでは病院内に入ることも難しかった。

 仕方なくタケキリは、そのまま塀の上と器用に駆けていき、百合子の病室が見える場所へ腰を下ろし、その時をじっと待っていた。

 清潔な枕に頭を預けた月明かりに照らされる百合子の横顔、ベッドの横にじっと腰を下ろし、強くその手を取ったまま話しかけていた正が立ち上がり、夜に包まれた京都の街に小さく悲鳴にも似た嘆きが響いた。白衣を着た男が大股で百合子に駆け寄って小さく首を振ると、正の目尻に涙が溜まり、前のめりに倒れそうになった。

 狸のつぶらな瞳は、その全てをじっと眺めている。まるで世界に大きな衝撃が走ったような正や、百合子の両親の姿を見つめ、それでも頭上にある月の傾きが変わらないことを痛感する。タケキリは小さく息を吐いてから、そっと百合子の最後を思い描いた。

 何を思っていたのだろう。何を残していくのだろう。

 百合子は、ついにハルや清司に会えなかった。まだまだ読みたい書物があって、アルコールの輸入の先にある小さな店の経営も、結局は夢への中へと消えた。幼い頃に捨てた恋心一つ叶わなかった百合子は、この世界に何を残せるのだろう。百合子の生き様は、百合子にとって意義のあるものだったのか。

「……それでも、貴女は意義があると、言い切りはるんでしょうねえ」

 そうあることが正しいのだと、百合子はきっと弱々しく笑うのだろう。瞳だけに力を込めて、泣きそうな顔をするのだろう。

 塀の上に尻を下ろしたままだったタケキリは、暫く百合子の病室を眺めてから、そっと立ち上がった。毛に覆われた細い足も、冬を越すには出来上がっていない痩せた身体も、あの時に百合子に拾われたものだ。返すべき恩はまだ残っている。最期まで一緒にはいられなかった百合子が、タケキリに残した約束があった。

 百合子を、迎えに行かなければならない。

 惜しむことばかりの人生だっただろう百合子を、隧道に案内するのがタケキリに出来る最期の恩返しだった。毛玉のままでも、きっと百合子は怒らないだろう。呼吸をしなくなり、血流を止め、筋肉を強ばらせていく百合子が、きっと裏側で待っている。

 タケキリは、そっと塀を飛び降りた。鼻を動かせば生きた人間や獣の匂いがする。耳を寄せると呼吸をするような木々の葉の揺れる音がする。どこかしらに何かの気配があって、空は夜だというのに晴れやかなほどに広大だ。ぽつりと浮かぶ白い月は、狸のふくよかな腹のように丸かった。もう一度、裏側へと戻ってしまったら、タケキリは色彩溢れる生きた者たちの領分に帰ってこれるか分からなかった。百合子に拒絶を受けただけで、自身の欲求を知ってしまった。百合子の背中を見送った後に、冬を越すほどの生きる意義が見つけられる気もしない。返す恩はなくなって、警邏する街も元の形へと戻っていく。

 ただの狸には過ぎた欲求を持て余し、それでもきっと冬を越そうとは思えないだろう。

 タケキリは、それでもかまわなかった。元より百合子に拾われた命は、ここ数年の間に面白可笑しく駆け回ったものであったから、月の浮かぶ空を見上げることがなくなって、じわりじわりと死への淵に歩むことも必然であるように感じられた。足を鉄に挟まれたまま死を迎えるよりは、余程に面白い結末であるだろう。

 地についた足を一歩踏み出せば、京都の街の裏側へと入り込むことが出来る。余所者の追い出しは済んだだろうか。微妙な時間差が出来てしまったが、百合子は狸を待ってくれているだろうか。思考だけをぐるぐる回しながら、タケキリは再び領分の異なる者たちが跋扈する街へと、駆け出した。



 灰色に覆われた雲の下にある京都の街は、既に獣の咆哮も、怒号もなく、またいつものような静寂が戻っていた。どうやら神無月に留守を預かっている者達による騒ぎは、終息を迎えたようで、まるで森の中のように獣だらけだった街の中には、影の一つも残っていない。あれだけ大暴れしていたのに家屋一つにも被害がない。それも、この場所が世の理の範疇外にあるからなのかもしれない。

 タケキリが百合子を見つけたのは、病院からほど近い場所にある百合子の邸宅だった。一匹の狸が裏側へと入り込んだ時には、百合子の姿は病院になく、右往左往をしていたところを天狗の手下らしい一羽の烏が案内してくれたのだ。表であれば女中が在住し、いつでも人間の気配のある屋敷の中もひっそりとしていた。当然、灯りの一つも点いていなかったが、タケキリが慣れた足取りで二階の百合子の部屋へと訪れると、百合子は懐かしそうにそっとベッドに腰掛けていた。まるでタケキリを待っていたかのように、狸がドアの隙間から室内へと身体を潜らせると、小さく笑みを浮かべてくれた。

「お久しぶりですねえ。百合子さん」

「タケキリはん。ホンマに狸やったんやねえ」

 ぽてぽて、と足元に寄ってくる狸を見下ろして、百合子は可笑しそうに笑った。膝の上には、生前の百合子が好んでいたフランス文学の著書が乗っている。

「狸ですとも。これでも勤勉な狸なんですよ」

「タケキリはんなら、納得やわ。ちゃあんと約束守ってくれはったんやね」

「大事な恩人との約束ですから」

 毛玉が苦笑すると、百合子も少しだけ肩を揺らした。タケキリが狸であることを見破った百合子は、死んだら迎えに来てくれ、と戯れの延長線上のように言った。なんでも見通す百合子の瞳は、狸の嘘さえも丸裸にしてしまう。冗談でも良かった。戯言だと笑われても、百合子の小さな願いをタケキリは齟齬にすることはない。

「とても身体が軽いんよ。もっと恐ろしいものかと思うてたけど、案外こんなもんやねんねえ」

 静かに百合子は笑みを浮かべているのに、タケキリが見上げると少しばかり強くあった瞳が揺らいだように見えた。寂しさの影が、そっとにじり寄っているようで、こんな時ですら正しく背筋を伸ばそうとする百合子にタケキリは苦笑する。

 そうして、ゆっくりとタケキリが二本足で立ち上がった。四本足のままでは、百合子の手は取れず、目線すらも合わせることが出来ない。煩わしい毛に覆われた身体を膨らませ、気づけばタケキリは人間に化けていた。

 百合子よりも一回り大きくて、骨ばった男の手を真似した手のひらで、膝に乗せた書物の上で握られた白い指先に触れる。人間に化けていれば、膝を折っても視線は随分と近くなる。泣き出しそうに笑う百合子の顔を、ゆっくりと下から覗き込んだ。

「百合子はん、意義のある人生でしたか?」と、タケキリの柔い声が室内へと響く。それだけで、はっとしたように百合子の瞳が丸く開いた。

 タケキリは、百合子が求めた意義の一つも叶わなかったことを知っている。女学生であった頃から、百合子は諦念ばかりを抱いて生きてきた。檻の中の狸にだけ、ひっそりと吐き出される溜息を、いつも見ていた。フランス文学が好きだった百合子は、物書きにはなれない人生だった。幼馴染に恋をした百合子は、正と歩むことを決めた。商才に溢れ辣腕を振える百合子は、針仕事を選ぶしかなかった。幸福を願った友人は、いつも窮地にいる。長く、長く、生きる予定であったはずの身体は病に犯され、振り切るような持った小さな夢でさえ叶うことはなかったのだ。

 意義とは何か。生きる意味とはなんであるのか。

 百合子の小さく白い指を包み込むタケキリの手の甲に、細い雨が落ちてくる。百合子の目尻から流れ出し、頬を伝って、しゅっと丸く尖った顎から垂れる雨だった。

「なんも、なんも出来ひんかった……」

「はい」

「まだ、ハルも清司さんも帰ってきてくれはれへんのに、正さんの商売も始まったばっかりやったのにっ」

「はい」

「タケキリさん」

「はい」

「私、死にたくなかった!」

 ボロボロ、と百合子が崩れていく。腰が折れて前に倒れる百合子の顔が、タケキリの肩へと押し付けられる。子供が針に刺されたように啼泣し、その声が耳から入ってきて、頭の中でわんわん、と響いた。

 タケキリは、ただ百合子の手のひらを包み込んだまま、じっとしている。そうして、百合子の悲鳴にも似た声が弱まり、次第にしゃくりを上げ、結んだ手のひらの力が解けた頃に、タケキリは静かに口火を切った。

「百合子さんは、何を残してきはりましたか?」

 呼吸を正すように肩で息をする百合子の顔が離れると、いつも澄ましていた瞳が濡れて、少しばかり赤くなっていた。床に膝をついたまま、タケキリは百合子を見上げて、薄い笑みを浮かべる。その背中を送るために、せめて何も出来なかった百合子が隧道へと歩いていけるように。

 タケキリの言葉の意味を探す百合子と目を合わせたまま、人間に化けた狸は、ほう、と小さく息吹く。

「死にはった方は、皆さん生きてる者の領分に、何かしらを残してきはるんです。それは、貴女が生きた名残になるんです。偉業でもなく、歴史にもならへんでしょうけれど。それでも、あんなに複雑に生きた人間が、何も残さずに消えるなんて、私はありえへんと思うんです」

 複雑怪奇で面白い。狸ほど単純ではなく、烏ほど不遜でもない。それでも人間は時に傲慢で、時に勤勉で、時に不幸で幸福だ。生きる意義を探して彷徨うくせに、不運や理不尽には酷く弱い。賢く文明を築くくせに、生死の長短を忘れてしまう。

 だからこそ、タケキリは思わずにはいられなかった。

 狸に愚痴をこぼし、生き様を語り、それでも理解を示して隧道へと歩んでいく複雑で不可思議な人間が、ただ死を迎えただけで跡形もなく消えてしまうことなどありえない。死んでからでさえ子を想う母がいた。残してきた妻や夫を案じる夫婦がいた。友人を心配し、恋人を惜しみ、出会った誰かのことを語る。一人で生きてきたと言いながら、孤独の道を語る者もいた。狸が死ねば土に還る。誰に知られることもなく、新しい時節に木々の素と成り果てる。

 しかし、人間は残すのだ。そうして、残された人間も故人のために涙を流し、聞こえるはずもないのに何度も大きな声で名前を呼ぶ。

 生きる意義は生き様となり、死に様になって残っていく。

 タケキリが、柔い眼差しで百合子を見上げると、少しばかり居づらそうに丸い瞳が右往左往した。

「……私も、何か残してこれたんやろうか」

 自信のなさそうな百合子の声音が小さな呟きになって落ちてくる。

「正さんも、ハルさんも、清司さんも、きっと貴女のことを忘れたりせえへんでしょう。それでまず、貴女はあちらに残ります」

「そう、やね……タケキリはんも覚えてくれてはる?」

「百合子さんが望むなら」

 それが恩返しになるんです、とタケキリが言えば、百合子はなんだか嬉しそうに笑った。それは久しく見ていなかった百合子の少女のような笑みで、目尻と頬が少しだけ下がる。タケキリはこの時ばかりは、自身が冬を越せないかもしれないことを。どうしてか口にはしなかった。おそらく、百合子のことを忘れるような時節が流れる前に、タケキリ自身が隧道へと歩むことになるだろう。野生の狸であるタケキリは、もう自身の死期が近いことを知っている。痩せた身体は寒さに耐え切れず、狸のくせに意義の意味を知ってしまった狸は、きっと生きていくことは出来ないだろう。

 それでも、今だけは何故か百合子に首を振ることが出来なかった。

 時計があっても針の動かない裏側の京都の街は、まるで時間が止まってしまったような錯覚を起こしそうになるが、本来の時は、いつもと変わらずに動いている。百合子が肉体を捨ててから、少しばかり時間を使いすぎたかもしれない。神無月が終わる前に百合子を案内しなければ、その役目すらタケキリはこなせなくなってしまう。

 仕方ない、と百合子に共感するように、タケキリは心地よいベッドや未だ読んだことのないフランス文革の棚を惜しみながら立ち上がった。

「タケキリはん?」と、今までしゃがみこんでいたタケキリの目線が高くなったことに、百合子が小首を傾げる。それでも、離れかけた手を再び包み込み、柔い力で引っ張ると、百合子は何もかもを悟ったような真摯な面持ちになった。

「いきましょうか。百合子さん」

「……はい、よろしゅうお頼申します」

 狸の毛を撫でてくれた百合子の細くて弱い指が、節榑立ったタケキリの大きな指に絡んだ。まるで迷子の子供がそうするように手を繋いで、タケキリと百合子は顔を見合わせながら、なんだか可笑しくて苦笑する。

 前を見据える百合子の瞳は、泣き腫らしていたのが嘘のように真っ直ぐで、邸宅から一歩と踏み出すたびに、美しい黒髪が揺れ、タケキリは目を奪われた。

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